女ゆ覗かぬこと
冬の日。下宿先のアパートでシャワーを浴びようとすると、風呂のお湯が出なかった。蛇口をひねっても冷たい水が出るだけだ。
頭を洗うのを諦めて、濡れた足をタオルで拭いて服を着直し、管理会社に連絡をした。
数時間後、気の良さそうな中年の業者が訪ねて来て、給湯器の配管を確かめた。
業者の話では、部品を取り寄せるのに十日かかるとのこと。修理代を尋ねると、給湯器は管理会社の所有物であり、僕に請求することはないという話だった。安心はしたものの、それまでどうやって体を洗うかが問題だ。
冬に冷たい水で体を洗うのは気が進まないし、大学に行くためには清潔を保ちたい。顔が広い学生なら友人を訪ねて風呂を借りるのかもしれないが、ボールペンの貸し借りと違って、風呂を貸してもらうのは気が引ける。
電気ストーブの前に座ったとき、近所に銭湯があることを思い出した。アパートからしばらく歩いたところ、町内会の集会所の近くに「ゆ」という看板を見かけた記憶がある。
今日は遅いのでもう閉まっているだろう。明日の晩に行ってみようと思いつつ、シャワーを浴びないまま布団に入った。
*
次の日。
大学から一度帰って、日が落ちた頃に銭湯に足を運んだ。地図アプリで「銭湯」と調べてもヒットせず、記憶を頼りに路地を歩いていくと、集会所の横に銭湯があった。
看板には筆文字で「ゆ」とだけ書かれていて、店の名前は分からない。よく言えば風情がある、悪く言えば古びた外観だった。
入り口は男湯と女湯に分かれていて、それぞれに暖簾がかかっていた。左右の入り口を見渡すように番台があり、中年の女が一人で座っていた。
「大人一枚。二百円だよ」
「二百、ですか」
「ああ。大人は二百円、子どもは百円」
そんなに安いのかと驚いた。シャンプーとボディーソープを持ってくるのを忘れていて、番台で買い揃えてから男湯の暖簾をくぐると、冷えた体が暖かい空気に包まれた。
浴室のほうで水音と話し声が混ざり合い、反響して聞こえてくる。番台では瓶牛乳が売られていた。
裸になって脱衣場を進む。床一面に浴用のござが敷いてあって、素足で歩いていて踏み心地が良い。
脱衣場の壁には何枚かの貼り紙があった。ロッカーの譲り合いや掛け湯を呼びかけるポスターが、ラミネートされて整然と貼られている。
そのなかに、黒マジックで手書きした貼り紙が目についた。
──女ゆ覗かぬこと 店主
その一枚が他から浮いている。言われなくても分かっているし、ここだけ手書きなのも妙な感じだったが。前に怪しげな者が入ってきて女性客から苦情でもあったのだろう、ととりあえず納得した。
擦りガラスの扉を開けて様子を伺うと、両側の壁に沿って洗い場があり、突き当たりの湯船から湯気が漂っていた。ちらほらと客の姿が見え、静かにシャワーを浴びたり湯船に浸かったりしている。
湯船の一角に電気風呂があって、一人の客がこちらに背を向けて肩まで入っていた。
昔ながらの銭湯にはヤクザが出入りしていると聞いたことがあり、絡まれたらどうしようと思っていたが、気にしすぎだったらしい。考えてみれば、仮にヤクザがいたとしても、こちらに絡んでくる理由はないだろう。
銭湯の天井は高く、男湯と女湯をタイルで区切っていた。壁は数メートルあって上側が開いており、区切りの向こうで何かを賑やかに話すのが聞こえてきた。
その壁に面した風呂椅子に腰かけて、シャンプーを泡立てているとき、目の前のタイルの隙間に深い亀裂があることに気がついた。顔を寄せれば向こう側が見えそうなほどだ。
先ほどの貼り紙を目にしていながらも、タイルが傷んでいたら防災面で不安だという真面目な理屈と、いくらかの下心から、吸い寄せられるように亀裂に顔を近づけていた。
一度気づいてしまうと、壁の向こうが気になってしかたがない。
シャンプーを泡立てながら、ひびのあるタイルに目線を合わせると、ぼんやりした肌色が視界に映った。壁の内側の素材かもしれないが、女性の胸のように見えないこともない。
椅子から身を乗り出して壁の向こうを覗いていたとき。
頭上から視線を感じた。
息を呑んで、視線の出どころを探る。
──後ろからか。
目の前の亀裂にすっかり気を取られていたが、自分は傍から見れば「覗き魔」に違いない。覗きを知られるのは居心地が悪い。居心地が悪いどころか、全身に鳥肌が立つような異様な感覚があった。
──違う。後ろじゃなくて、正面の真上からだ。
見たくないと強く思いながらも、首を反らして真上を向いた。
皺だらけの顔と手が視界に映った。ひとりの老婆が、タイルの上に両手をかけて、こちらを覗き込んでいる。亀裂を覗いている自分の姿は、向こう側からじっと見られていたのだ。
老婆は何も言わず、ぎょろりとした目を見開いてこちらを凝視していた。謝って済むならそうしたいのだが、喉が詰まったようで言葉が出てこない。
すべての音が消えた中、相手と見つめ合うことになった。目を反らせない。瞼を固定されて眼球の近くに五寸釘を向けられているようだった。
数秒が経ったとき、老婆は口を開いて、何事かを短く言った。はっきりとは聞き取れないが、なにかの苦言だったように思う。「覗くんじゃない」とか「何見てるのよ」とか、そういう意味の言葉だろう。
「……すみません」
返答を聞いたのか聞かなかったのか、老婆はすっと壁の向こうに引っ込んだ。湯気の立ち込める洗い場にいるのに、背筋から寒気が這い上がってくる。
斜め後ろから男の声で呼びかけられて我に返った。
「お前さん」
肩まで電気風呂に浸かっていた先客が、湯から出てくるところだった。体格の良い男はこちらを諭すような、反応を面白がるような様子で、言葉を発した。常連なんだろうか。
「女湯は化け物の集まりだ。覗くもんじゃない」
ああとかはいとか返事をして、とりあえず頭の泡を流し、体をさっと洗って退散した。男は「もう上がるのか。せっかくなら湯船に浸かっていけ」と笑っていたが、僕は一刻も早くこの場を去りたかったのだ。
男の背中には不動明王の刺青が鎮座していたが、刺青が怖くて逃げたわけではない。
こちらを覗き込む老婆と、電気風呂の先客、二つを同時に怖がることはできないものだ。むしろ、不動明王の姿を救いに感じるほどだった。
*
下駄箱から出したスニーカーの踵を踏んだまま銭湯を出る。夜道をまっすぐ帰るつもりだったが、家に戻る気になれず、遠回りしてコンビニに向かった。
道すがら、「女ゆ覗かぬこと」の貼り紙と、あの老婆の視線、先客の言葉が頭にちらつく。
──あいつは、人間じゃない。化け物だ。
人間は、年を取れば目つきも変わってくるし、顔に皺も増えるだろう。年を取ったからって化け物になりはしない。綺麗事だと言われようと、人間は何歳でも人間だ。
それでも、あの老婆は違う。女湯と男湯を仕切る壁に手をかけて、上から覗き込んできたのだ。壁は背丈よりずっと高く、途中に足場もない。
普通の人間が上れる高さじゃないし、上ろうとすれば工事用のはしごが要るだろう。仮にはしごがあったとして、老婆が上れるとは思えない。
自分は何を見たんだろうか。
説明がつかないまま、足がコンビニに向かう。入店のメロディを聞いて、雑誌の棚の前で靴の踵を直し、レジで熱いドリップコーヒーを頼んで、ようやく生きた心地が戻ってきた。
頭が冷たい。ドライヤーを掛けずに出てきたことを思い出して、コーヒーの紙コップを手のひらで包んだ。
もう女湯は覗かないし、あの銭湯には行かないだろう。明日からどこで体を洗おうか。