表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

女ゆ覗かぬこと

作者: 遠野なつめ

冬の日。下宿先のアパートでシャワーを浴びようとすると、風呂のお湯が出なかった。蛇口をひねっても冷たい水が出るだけだ。


頭を洗うのを諦めて、濡れた足をタオルで拭いて服を着直し、管理会社に連絡をした。


数時間後、気の良さそうな中年の業者が訪ねて来て、給湯器の配管を確かめた。


業者の話では、部品を取り寄せるのに十日かかるとのこと。修理代を尋ねると、給湯器は管理会社の所有物であり、僕に請求することはないという話だった。安心はしたものの、それまでどうやって体を洗うかが問題だ。


冬に冷たい水で体を洗うのは気が進まないし、大学に行くためには清潔を保ちたい。顔が広い学生なら友人を訪ねて風呂を借りるのかもしれないが、ボールペンの貸し借りと違って、風呂を貸してもらうのは気が引ける。


電気ストーブの前に座ったとき、近所に銭湯があることを思い出した。アパートからしばらく歩いたところ、町内会の集会所の近くに「ゆ」という看板を見かけた記憶がある。


今日は遅いのでもう閉まっているだろう。明日の晩に行ってみようと思いつつ、シャワーを浴びないまま布団に入った。



次の日。

大学から一度帰って、日が落ちた頃に銭湯に足を運んだ。地図アプリで「銭湯」と調べてもヒットせず、記憶を頼りに路地を歩いていくと、集会所の横に銭湯があった。


看板には筆文字で「ゆ」とだけ書かれていて、店の名前は分からない。よく言えば風情がある、悪く言えば古びた外観だった。


入り口は男湯と女湯に分かれていて、それぞれに暖簾がかかっていた。左右の入り口を見渡すように番台があり、中年の女が一人で座っていた。


「大人一枚。二百円だよ」

「二百、ですか」

「ああ。大人は二百円、子どもは百円」


そんなに安いのかと驚いた。シャンプーとボディーソープを持ってくるのを忘れていて、番台で買い揃えてから男湯の暖簾をくぐると、冷えた体が暖かい空気に包まれた。


浴室のほうで水音と話し声が混ざり合い、反響して聞こえてくる。番台では瓶牛乳が売られていた。


裸になって脱衣場を進む。床一面に浴用のござが敷いてあって、素足で歩いていて踏み心地が良い。


脱衣場の壁には何枚かの貼り紙があった。ロッカーの譲り合いや掛け湯を呼びかけるポスターが、ラミネートされて整然と貼られている。


そのなかに、黒マジックで手書きした貼り紙が目についた。


──女ゆ覗かぬこと 店主


その一枚が他から浮いている。言われなくても分かっているし、ここだけ手書きなのも妙な感じだったが。前に怪しげな者が入ってきて女性客から苦情でもあったのだろう、ととりあえず納得した。


擦りガラスの扉を開けて様子を伺うと、両側の壁に沿って洗い場があり、突き当たりの湯船から湯気が漂っていた。ちらほらと客の姿が見え、静かにシャワーを浴びたり湯船に浸かったりしている。


湯船の一角に電気風呂があって、一人の客がこちらに背を向けて肩まで入っていた。


昔ながらの銭湯にはヤクザが出入りしていると聞いたことがあり、絡まれたらどうしようと思っていたが、気にしすぎだったらしい。考えてみれば、仮にヤクザがいたとしても、こちらに絡んでくる理由はないだろう。


銭湯の天井は高く、男湯と女湯をタイルで区切っていた。壁は数メートルあって上側が開いており、区切りの向こうで何かを賑やかに話すのが聞こえてきた。


その壁に面した風呂椅子に腰かけて、シャンプーを泡立てているとき、目の前のタイルの隙間に深い亀裂があることに気がついた。顔を寄せれば向こう側が見えそうなほどだ。


先ほどの貼り紙を目にしていながらも、タイルが傷んでいたら防災面で不安だという真面目な理屈と、いくらかの下心から、吸い寄せられるように亀裂に顔を近づけていた。


一度気づいてしまうと、壁の向こうが気になってしかたがない。


シャンプーを泡立てながら、ひびのあるタイルに目線を合わせると、ぼんやりした肌色が視界に映った。壁の内側の素材かもしれないが、女性の胸のように見えないこともない。


椅子から身を乗り出して壁の向こうを覗いていたとき。


頭上から視線を感じた。


息を呑んで、視線の出どころを探る。


──後ろからか。


目の前の亀裂にすっかり気を取られていたが、自分は傍から見れば「覗き魔」に違いない。覗きを知られるのは居心地が悪い。居心地が悪いどころか、全身に鳥肌が立つような異様な感覚があった。


──違う。後ろじゃなくて、正面の真上からだ。


見たくないと強く思いながらも、首を反らして真上を向いた。


皺だらけの顔と手が視界に映った。ひとりの老婆が、タイルの上に両手をかけて、こちらを覗き込んでいる。亀裂を覗いている自分の姿は、向こう側からじっと見られていたのだ。


老婆は何も言わず、ぎょろりとした目を見開いてこちらを凝視していた。謝って済むならそうしたいのだが、喉が詰まったようで言葉が出てこない。


すべての音が消えた中、相手と見つめ合うことになった。目を反らせない。瞼を固定されて眼球の近くに五寸釘を向けられているようだった。


数秒が経ったとき、老婆は口を開いて、何事かを短く言った。はっきりとは聞き取れないが、なにかの苦言だったように思う。「覗くんじゃない」とか「何見てるのよ」とか、そういう意味の言葉だろう。


「……すみません」


返答を聞いたのか聞かなかったのか、老婆はすっと壁の向こうに引っ込んだ。湯気の立ち込める洗い場にいるのに、背筋から寒気が這い上がってくる。


斜め後ろから男の声で呼びかけられて我に返った。


「お前さん」


肩まで電気風呂に浸かっていた先客が、湯から出てくるところだった。体格の良い男はこちらを諭すような、反応を面白がるような様子で、言葉を発した。常連なんだろうか。


「女湯は化け物の集まりだ。覗くもんじゃない」


ああとかはいとか返事をして、とりあえず頭の泡を流し、体をさっと洗って退散した。男は「もう上がるのか。せっかくなら湯船に浸かっていけ」と笑っていたが、僕は一刻も早くこの場を去りたかったのだ。


男の背中には不動明王の刺青が鎮座していたが、刺青が怖くて逃げたわけではない。


こちらを覗き込む老婆と、電気風呂の先客、二つを同時に怖がることはできないものだ。むしろ、不動明王の姿を救いに感じるほどだった。



下駄箱から出したスニーカーの踵を踏んだまま銭湯を出る。夜道をまっすぐ帰るつもりだったが、家に戻る気になれず、遠回りしてコンビニに向かった。


道すがら、「女ゆ覗かぬこと」の貼り紙と、あの老婆の視線、先客の言葉が頭にちらつく。


──あいつは、人間じゃない。化け物だ。


人間は、年を取れば目つきも変わってくるし、顔に皺も増えるだろう。年を取ったからって化け物になりはしない。綺麗事だと言われようと、人間は何歳でも人間だ。


それでも、あの老婆は違う。女湯と男湯を仕切る壁に手をかけて、上から覗き込んできたのだ。壁は背丈よりずっと高く、途中に足場もない。


普通の人間が上れる高さじゃないし、上ろうとすれば工事用のはしごが要るだろう。仮にはしごがあったとして、老婆が上れるとは思えない。


自分は何を見たんだろうか。


説明がつかないまま、足がコンビニに向かう。入店のメロディを聞いて、雑誌の棚の前で靴の踵を直し、レジで熱いドリップコーヒーを頼んで、ようやく生きた心地が戻ってきた。


頭が冷たい。ドライヤーを掛けずに出てきたことを思い出して、コーヒーの紙コップを手のひらで包んだ。


もう女湯は覗かないし、あの銭湯には行かないだろう。明日からどこで体を洗おうか。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ