弐の宴 ~夏祓・1~
チリンチリン、チリンチリン。
幾つもの風鈴の重奏が響く。風鈴は、幻想郷でも涼を齎す夏の風物詩として人気だ。
確かに一定の涼やかさを覚える音色ではあるが、しかし実態として蒸し暑い風が吹いていると……実際にその不快を取り除くには到底足りない。
萃香はどろんと溶けた瞳で、パタパタと団扇――代わりに『止まれ』の標識板を扇いでいる。スキマにちょうど良いのがあったわ、とは提供者である紫の談。
「……ねぇ、紫。まだなの?」
「さぁ?」
「さぁって……。いくらなんでも暑すぎるよぉ。至上の宴会場を作りたかったのに、何で暑さを散らしちゃだめなのさ」
「夏といえば当然暑いもの、幻想郷中のみんなが思っているわ。そして、あなたがそのみんなの意識から『夏らしさ』を萃めてきたのだから、こうなるのもまた当然の帰結じゃない」
ため息混じりに頬杖をつく萃香に、涼しい顔で返す紫。その手にした『安全地帯』の標識板が、優雅に揺れる。
「ちゃんと暑いからこそっていうのを出してあげるから、もう少しお待ちなさいな。渇きも大事なのだから、伊吹瓢もお預けよ?」
「何なのさ、全く。あーもー、今だったら氷妖精突っ込まれても文句言わないのに……あばっ!」
不満を漏らしながらごろごろ床を転がっているうちに、落下してしまう萃香。
再びため息をつきながら砂埃を払い、元通り座り直す。
――『夏』の領域へ萃香が萃めてきた場は、『縁側』。
風がよく通る半屋外、並んで腰掛けるのにもちょうど良く、さらに目の前には向日葵やら鬼罌粟やら夏花満開の草原が広がっている。今は夜であるが、昼間であれば日差しもある程度遮ってくれることだろう。
ちなみに、縁側は萃香自身が一番馴染み深い博麗神社の一角から拝借してきたため、元の建物がどうなっているかは……まぁ想像に易い。
「ねぇ、紫。酒は仕方なく我慢するとして、もう少し何か涼を取れるもの出して貰えないか?」
「あら我儘ね。じゃあ、水浴びでも?」
「えー、色々と面倒臭い。第一、どうやって水を呼び込むの?」
「そうね、川の境界でも弄って溢れさせようかしら」
「ただの水害でしょ……」
「ただの冗談よ。じゃあ河童でも拐かして、シャワー役にさせようかしら」
「発想が氷妖精のと変わらないね」
「まぁ面倒臭いからやらないけれど」
「結局それかぁ」
蛙の面に水な紫の返答に、萃香はガックリと肩を落とす。
しかし紫の方は何かピンと思いついたようで、「あぁ」と人差し指を立てて声を漏らした。
「そうね、河童というのもあったわね。……萃香、私ちょっと出かけてくるわ」
「一人だけ脱出するつもり? 狡いじゃないかぁ」
「ふふ。そうじゃなくて、萃香の希望に応えられそうなのを思い付いたから、調達してくるわ」
「……はぁ、あっそう。じゃあ、気が紛れるような暇潰しを何か置いていってよ。あの化け猫でもいいよ?」
「だぁめ。橙は私のだけど私のじゃないわ。それに、彼女も今忙しいだろうから」
「ちぇーっ」
「仕方ないわね。――はい、これでも書いて待ってらっしゃいな」
そう言って紫は、スキマからにゅっと何かを取り出す。
出てきたのは、長い長い一本の笹。その青々とした細い葉には、色とりどりの紙飾りや文字の書かれた細長い紙が、いくつも括りつけられている。
「人間は夏になると、これに願いを書いて天の星へ捧げるらしいわ」
「それぐらい知ってるよ。七夕でしょ?」
「なら話が早いわ。あなたも何か願いを書いてみたら良いじゃない」
「えー? 今なら『暑さよ消えろ』『早く酒を飲みたい』ぐらいしか書く事ないよ。それに願いを託すなんて、鬼の趣味じゃないし」
「福はウチ、とでも書いておいたら?」
「……ほんと、あんたって趣味悪いわ」
「それほどでも。じゃあ、行ってくるわ」
「何でも良いから早くしてねぇ」
「はいはい」
傘を広げ手をヒラヒラと振り、紫はスキマの向こうへ消えていった。
残された萃香は所在なさげに縁側をごろごろとしていたが、すぐに「あーもー!」と声を荒げて立ち上がる。酒を飲まずじっとしていろだなんて、彼女にとっては拷問以外の何物でもない。
しかし紫の言う通りにしていたら、『春』のように美味しい体験ができるかもしれないのだ。それは、興味がある。
サラ、サラサラ。
生暖かい風に吹かれて、紫の置いていった笹の葉が音を立てて揺れる。
「……書きは、しないわよ?」
萃香は誰へともなく呟き、スカートの埃を払って立ち上がる。
笹飾りを手にして天へ擡げると、その高さは萃香の身長の三倍ほどあるだろうか。
「しかしまぁ、人間って酔狂なことをするねぇ」
確か、天の星を大河で隔てられた男女の逢瀬に見立てた物語、だったはずだ。
感情移入はさっぱり出来ないが、まぁ届かない大いなる物に手を伸ばす姿勢は、何というか意地らしく微笑ましく、可愛いくもある。思わず攫っちゃいたいぐらいには。
そう考えると、この飾りまで何だか可愛らしいものに思えてきて……萃香は、「よし」と声を上げて笹を地面に突き立てた。
「暇潰しだからね、飾るだけならいいだろう」
サラサラ。リンリンリン。
夏の音たちを耳に、萃香は彼女なりの飾り付けを始めるのだった。