メトちゃんは優しい(前編)
博士は内なる世界に閉じ込められていた。そもそも無機物の存在である博士には視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚もない。魔法の力で外界の情報を手に入れている。
常に外界の情報を収集するべく必死に活動していた。だから今の自分の姿を格別意識することはさほど多くなかった。今は外界から完全に遮断されている。嫌が応にも自分自身に向き合うしかない。
内なる世界に自分を造り出す。研究所で子供たちと一緒にいた頃の自分。博士は思い出せる限りの自室を再現し、椅子に腰かけたが、周りには誰もいなかった。
メトは自分を恨んでいる。フォーケイナは本物のプライム博士に付き従っている。ジョットは洗脳され、ゼロは何を考えているのか分からない。ディシアは死んだ。他の研究所にいた子どもたちは自分が殺したようなものだ。
別に後悔はしていない。目的があって研究を重ねていた。しかし、結果を出せなければ何も残らない生き方だという自覚はあった。このまま朽ち果てて自己が喪失しても、本物のプライム博士は元気に活動している。自分という存在に価値がないことは、自分が複製体であることを知ってから、気づいていた。
だからこそメトに積極的に協力してきた。メトが自分を見捨てた瞬間、自分はもう生きられない。どんなに口では偉そうなことを言っても、彼女に運命を委ねていることに変わりない。
死ぬのが怖いのか……? 博士は自分自身に問う。永遠の命を疑似的に実現する為に自己を複製したのに、複製した個体それぞれに死の恐怖があるのなら、本末転倒だった。人より多くの死を体験することになる。
「退屈そうじゃないか」
ガイが、博士の内なる世界に踏み込んできた。最初、それは博士の作り出した幻影だと思った。内なる世界なら、自分の想像力次第で何でも作り出せる。
だが、ガイは博士の想像外の行動を始めた。博士の自室内のものを勝手に物色し始め、ぽんぽんぽんと、ぬいぐるみやら書籍やら獣の剥製やら、博士が思ってもいないものを出現させた。
ガイは自分用の椅子を造り出すと、それに腰かけた。
「お前……、私の世界に入ってきたのか?」
「まあね。あの調整器を使って……。一応、お前を助けに来た形になる」
ガイは渋面だった。博士は試しにガイを爆散させてみようと念を込めたが、反応がなかった。調整器に干渉してやってきたガイは、今ここで博士よりも強大な権能を持っているようだった。
「お前の独断か?」
「いや。メトちゃんの判断だ。いつだって俺はメトちゃんの指示に従うよ」
ガイは言い、それからじっと博士を見つめた。
「お前、そんなツラしてたんだな。プライム博士だっけ?」
「その名で呼ぶな。私は複製体だ。紛らわしくなる」
ガイは肩を竦めた。
「じゃあどう呼べば」
「複製体……、あるいは単に博士。剣、とか、武器、でもいい」
ガイは改まって咳払いをした。
「じゃあ、博士。お前、生きたいか?」
「……それを聞いてどうする」
「メトちゃんが気にしている。もし、お前が生きたいと彼女に訴えたら、彼女はお前を生かすだろうな」
博士は腕を組んで、メトの鬱々とした表情を思い出した。
「私があの女にどんな所業を為したのか、お前は知らないだろう。メトは私を殺したいはずだ」
「最初は、そうだったかもしれない。しかし今は必ずしもそうじゃないんだ」
「お前に何が分かる?」
「分からないのか。お前に情が移ったんだよ。彼女は優しい子だから」
一瞬、きょとんとしてしまった。それほど意外な言葉だった。
「情? ふ、ふふふ……、ばかばかしい。私は自分の利益のために、あいつに役立ってみせた。それで勘違いしたのか? 私がメトの体を乗っ取ろうとしたことも、忘れてしまったのか?」
ガイは忌々しげに舌打ちした。
「俺もそう思うよ。お前は危険な存在だ。だから、俺はメトちゃんの意見を無視して、お前を殺すことも考えた。しかし、そうはしない」
「なぜ?」
「お前が役立つ存在だから――とメトちゃんは言った。しかしそれだけじゃない。お前は彼女にとって、第二の父親みたいな存在だからだろう」
一瞬、何も言えなかった。言葉の意味を咀嚼し、ガイがとんでもない勘違いをしているのではないかと疑う。
「は? それは、メトが実際に言ったのか?」
「言わないよそんなこと。だが、俺の目にはそう見える」
「ばかばかしいにも程がある。仮に私を父親だと思っていたとしても、私は複製体だぞ。本物のプライム博士に向けるべき感情のはずだ」
ガイの表情は真剣そのものだった。博士を正面から見据えている。
「いや……。彼女は本物のプライム博士のことを憎んでいる。それは間違いない。だが、お前はプライム博士の人格を引き継いでいながら、実際に彼らに実験をしたわけじゃない。つまり、罪そのものはないと言える」
「……記憶はあるがな」
「俺もお前には罪があると思うが、考え方の問題だ。メトちゃんからすれば、憎むべき対象から外れつつあるのだと思う。まだ彼女も戸惑っていると思うが……。子供の頃に博士と過ごした記憶が、彼女にとっては必ずしも苦痛一色というわけでもない、ということなんだろう」
博士は思い出す。子どもたちに課した様々な実験を。容赦しなかった。だからこそ多くの子どもが死んだ。人格が壊れた。五人しか生き残らなかった。
「ふん。ガイ、お前が私とメトの関係についてそこまで考えていたとは驚きだがな……。私は私のことしか考えていない。冷徹な人間だ。はっきり言って、私とメトの友好的な関係はそう長く続かないだろう」
「そうか」
「ガイ、お前はここにお喋りをしてきたのか? さっさと私を直すなり、殺すなり、すればいい。私とお前は仲良く談笑するような仲じゃないだろうに」
ガイは頷いた。
「その通りだ。俺は今、お前に言いたいことがあって来たんだ」
「まだ何か言うことがあるのか」
「俺はお前を許さない」
「……それで?」
「メトちゃんだけじゃない、多くの人間がお前に恨みを抱いていることを忘れるな。お前は、普通ならろくな死に方をしない」
博士はガイの怒気の混じった、しかしどこか穏やかで慈愛に満ちた声音に困惑しつつも、
「どうかな……」
「だが、メトちゃんなら、お前を最大限生かしてくれる。お前を世の中に役立たせてくれる。お前の重過ぎる罪を、少しだけ軽くしてくれるかもしれない」
「何が言いたい」
「メトちゃんは誰よりも優しくお前を殺す。複製体であるお前は、いつ死んでも構わないと考えているかもしれない。自分に価値がないと……。お前はただ、メトちゃんに役立てばいい。それがお前の価値だ。彼女の為に役立って、そして死ね」
ガイの言葉に、博士は引っ掛かるものを感じた。ただの厳しさだけではない、ガイから博士に対する期待や希望も混じっているような気がして、落ち着かなかった。
「優しく殺す、ね……。ガイ、私からも一つ」
「なんだ」
「調整器を使えば、私の記憶も、人格も、書き換えることができる」
ただの無機物である博士からすれば、記憶を奪われ、人格が変われば、もうそれは死ぬのと同義だった。調整器をガイに渡した時点で、首元に短刀を突きつけられているようなものだった。
「……だから?」
「私をメトに協力的な人格にこっそり書き換えることもできる。そうすれば手っ取り早いだろうな」
「お前は勘違いをしている……。それじゃあ俺がメトちゃんの代わりにお前を殺すようなものだ」
ガイはそう言って、金色の光を纏い始めた。調整器を使って博士の修復を始めたようだ。
「それじゃあ、この辺で。言いたいこと言ったからすっきりしたよ」
「……メトは、お前が自分の体を食わせ続けないと死ぬ。そういう世界になりつつある。奇妙なものだな。ガイ、お前が私とメト、両方の生殺与奪の権を握っているわけだ」
「俺が死んだらメトちゃんも死ぬってことだな。ディシアから貰ったこの躰、大事にしないと」
ガイの姿がふっと消えた。内なる世界から去ってしまった。
間もなく、博士に力がみなぎってきた。狂ってしまった体が修正され、外界の情報を収集できるようになった。直刀の姿になり、大人しく鞘に収まるようになる。
博士はメトに何か呼びかけられたが何も言わなかった。自分はただの道具だ、と博士は自分に言い聞かせた。もう誰かの体を乗っ取ろうとする意志もない。自分はただの無機物。静かに朽ちていくのみ。
そう思えば死など怖くなかった。もっと言えば、本物のプライム博士が死に、自分という人格がこの世から全て消え失せることも、今はどうでもよかった。以前は、自己を複製してまで研究を続けたかったのに、今はそうではない。
心境の変化はどこからきたのか、自分でもよく分からなかった。この世界を変えたい、という野心も、今はない。もし、今、研究施設を与えられて、能力も何もない子どもたちが目の前にいても、彼らに実験を施そうとは思わないだろう。
メトが、何度も博士に呼びかけている。博士は一度だけ「無事だ」と答えた。それきり黙っていた。本当は返事をしなくても良かった。返事をしたのは、彼女の声がうるさかったからだ。
本当にそれだけだ。うるさかっただけ。心配そうな彼女の顔を見ても何も思わなかった。返事をした理由は、本当にそれだけだ。博士は再び自分にそう言い聞かせた。




