飢餓(中編)
飢餓は何度も経験したことがある。
研究所では意図的に魔物の肉を遠ざけられたことがあったし、旅の道中で魔物と遭遇できず、絶食したこともある。
そういう経験を経て、メトは自分が飢餓に強いことを知っていた。通常では考えられないほど、飲まず食わずで活動を続けられる。だから今回も大丈夫だと思った。
だが、フォーケイナの棺が蔓延しつつあるこの世界で、メトは思った以上に参っていたようだ。マナが遊牧民の村までメトを連れていってくれたとき、ガイはすぐに事情を察したようだった。そして呆気ないほど簡単に、
「俺の体を食え!」
と言ったのだった。
メトはそれをおぞましい行為だと思っていた。しかしガイがあまりに当然のことのように言うので、いざ面と向かって言われてみると、大したことではないような気がしてきた。
しかし周りには事情を知らない遊牧民がいた。何のことだか分かっていない顔だったが、まさかここでガイが生やした肉にかぶりつくわけにはいかない。
ガイが馬にまたがる。そしてメトをマナから受け取って、誰もいない平原へと走りだした。
「待ってろメトちゃん。落ち着いて食べられる場所を探すから。俺を食え。遠慮しなくていいんだ」
完全に日が暮れていた。空の低い位置に月が浮かんでいて、ぞっとするほどその光が眩しく感じられた。
下馬したガイはメトをそっと地面に下ろした。メトはもう自力で立てなくなるほど衰弱していた。さっきまで元気に跳ねまわっていたのに、限界が来ると一気に体調が落ち込んでいった。
ガイが、自分の腕から魔物の眼のようなものを生やす。それを引きちぎると、メトに差し出した。
「ほら。気色悪いかもしれないけど……」
「気色悪いのは、私のほうでしょ」
メトは言いつつも、その眼を受け取った。
「気づいてたの?」
「え?」
「私が、飢餓状態にあるって。だって、反応が早すぎるでしょ」
「ああ……」
ガイはしばらく黙った。何か悩んでいるようだった。
「言うべきか分からないけど……。メトちゃんと博士の会話の一部が聞こえてきたんだ」
「え? 盗聴したってこと?」
「わ、わざとじゃない。ディシアの力を手に入れてから、魔法の出力が格段に上がっただろう。感覚も研ぎ澄まされて、博士とメトちゃんの念話が少しだけ漏れ聞こえるようになったんだよ」
「そうなんだ」
「俺は、メトちゃんの助けになりたい。だから、食ってくれ。きみに死なれると俺は困ってしまうよ」
「分かったよ……」
メトはガイが作り出した眼を口の中に放り込んだ。奥歯で噛み潰すとプチンと音がした。
その体液が喉に流し込まれると、全身に衝撃が走った。これまでにない感覚だった。
メトの体が硬直する。ガイが不思議そうに顔を覗き込んだ。
「ど、どうしたんだ、メトちゃん。不味かったか?」
「う」
「う?」
「美味い……! 魔物肉なんて、今までそこまで美味しいなんて思うことあまりなかったけど、これは、凄いよ、ガイ!」
「おお、そうかそうか! ははは、良かった良かった。これからは俺がメトちゃんの料理番になってやるよ」
ガイは笑って言った。メトはガイと初めて会ったときのことを思い出した。あのときガイはメトが仕留めた蛇の魔物を良い感じに炙って、大変美味に仕上げてくれた。メトはガイが料理人に向いているなと思った記憶がある。
意味合いはまるで違うが、今このときも、ガイのくれた肉を食べて感動している。メトは手を差し出した。ガイはもう一つ眼を造り出し、それをメトの手の上に置いた。
「ガイ……、一つ、お願いがあるんだけど」
「なんだ? もっと作るか?」
「逆。美味し過ぎて、病みつきになってしまうかもしれない。だから、量を制限して」
「え? 好きなだけ喰えばいいじゃないか。俺は幾らでも作り出せるぞ」
「予感があるの。私、これを多く食べちゃ駄目。根拠はないんだけど……。ただの勘だけど、そう思うんだ」
「えっと……。メトちゃんがそう言うなら、そうするよ。だが、飢え死ぬ前にちゃんと催促してくれよ? いつでも絶品を馳走するからさ」
メトは頷いた。そしてもう一つ、眼を口の中に入れて、舌の上で転がした。
美味しい。いや、味がどうとかではない。メトの全身の細胞が、この魔物の肉を渇望し、歓喜し、震えている。頭がくらくらするほどの快感だった。そのまま噛まずに飲み込んだ。メトはもう、元気に歩けるくらいには回復していた。
「村に戻ろう、ガイ」
メトが呼びかけると、ガイは頷いた。
「ああ、そうだな、メトちゃん。……顔色が随分良くなった」
「こんな暗いのに、分かるの?」
「分かるさ。それが分かるくらい、きみの顔色は今まで悪かった」
「そっか。心配かけましたね、はい」
ガイは馬に跨り、メトは地面を蹴って自分の足で村まで戻った。レッドとゼロが夕飯を食べているところで、マナは珍味の獣肉を慎重に布でくるんで鞄に入れているところだった。
「おかえり、メト。元気出た?」
「え、あ、うん。おかげさまで……」
「つい心配しちゃったけど、メトなら大丈夫よね。ガイみたいな理解者も傍にいるし」
「うん、そうだね。そういうことにしておくよ」
マナは目的の珍味肉を手に入れて機嫌が良さそうだった。レッドは食事をかき込み、完食すると頭を下げた。
「ごちそうさまでした。マナさんのお話だと、ドゥラ商会は既にフォーケイナの棺で本格的に稼ぎ始めたようですね」
「そうそう。ガンヴィのギルド連中から、もう大丈夫だからレッド姐さんを呼び戻してくれって、頼まれてたのよね」
マナの言葉に、レッドは頷いた。
「メトさん、ガイ先生、ゼロさん。ガンヴィの仲間たちを放ってはおけないので、私はこの辺で失礼したいと思います。あまり力にはなれなかったですが……」
「そんなことないよ。一緒に旅ができて楽しかった」
「しかし、この短い間に、事態は大きく動いたようですね。ドゥラ商会はフォーケイナの棺の流通を完璧に押さえたということなんでしょうか。ガンヴィに戻って、色々調べようかと思います」
「気を付けて。レッドさんは、他人より遥かに多くのフォーケイナの棺を摂取したみたいだから……」
「ええ。ありがとうございます」
レッドは翌朝マナと共に出発することになった。就寝の準備をした彼女らを残して、メトは遊牧民の村を出た。
ガイの肉を食べてから眠気が吹き飛んでいた。全身から力が湧き出てくる。
「なんだか、ガイの肉が馴染むみたい。少ししか食べてないのに元気だもん」
《うむ……。それは結構だが》
「何か気になることでも?」
《ディシアもまた、フォーケイナの棺を大量に摂取し、変容を果たした改造人間だ。そのディシアが軸となって今のガイは生きている。そのガイが生み出した肉がメトに馴染むというのが、不思議でな……》
「確かに。ガイが調整してくれているのかも」
《最近あの体になった男が、そんな器用な真似できると思うか?》
「全く思わない。けど、いいじゃん。これで一つ心配がなくなったわ」
《だといいがな。自分の体調に注意を払え。お前は頑丈過ぎる。不調に気付いたときにはもう手遅れになっているかもしれん》
「分かったよ」
メトは久しぶりに自分の足取りがしっかりしていることに喜びを感じた。ついこの雄大な平原を散歩してしまう。
しかし、歩き始めて数分で魔物と遭遇した。この平原には魔物が多過ぎる。それまで気配を感じていなかったのに、気づいたときには近くの岩場の陰や窪地に潜んでいるのだ。そして、漏れなくフォーケイナの棺の影響を受けている。
メトは博士を手に持って構えた。魔物がこちらに気づく前に、その脳天をかち割る。魔物が倒れたところで、心臓を的確に潰した。戦いとすら言えない、一方的な蹂躙だった。
メトはここに魔物がこんなに多い理由を考えたが、何も思いつかなかった。ここの魔物を狩り尽くすことなどできないのではないか……。博士に付着した血を草の葉で拭いながら、メトは考えていた。




