地下牢(前編)
スード=プライム博士は研究に集中できない環境にいら立っていた。フォーケイナの健康を維持すること、欠員が出たクマドの猟犬の補充要員を開発すること、この二つがプライム博士が取り組むべき課題ではあったが、彼はもっと先の研究がしたかった。
何もかもが不完全だ。プライム博士はフォーケイナすらまだ開発の余地があると考えていた。目先のことしか考えない研究員は、少年の苦痛なしにフォーケイナの棺を作れないか、量産できる量を増やせないか、といった課題に魅力を感じるようだったが、それは人類の進歩に寄与しない考えだった。
「プライム所長……。アメド司祭の部隊から報告が」
研究室に前触れなしに現れたのは、ギャルム司祭だった。背中を曲げ、前傾姿勢で入り口に突っ立っている。
プライム博士は手に持っていた書類を卓上に投げた。
「メトを捕まえた、か? 私に報告してどうする。メトやゼロを所望しているのは俗物の見本市たる王侯貴族の諸兄だぞ」
「アメド司祭が殉死しました。軍船として運用した“六花の祭壇”は無事にゲイドに帰港する予定とのことですが」
プライム博士の手が止まった。硬直し、思考が濁る。
「殉……、死んだのか? あの慎重で抜かりのない男が?」
「ええ。事実、奴の気配を感じません。クマドの猟犬は互いの気配を色濃く感じ取れるものですが……」
プライム博士はそれまで腰かけていた椅子から立ち上がり、その背もたれを強く押してどかした。派手な音が鳴る。
「そう……、か。有能で忍耐強い男だった。新顔のレゴリー助祭に加え、ガドレガを捕縛する際に殴殺されたペルマン助祭とニース司祭、海上での戦いで戦死したカルド助祭。そして王侯貴族の顔を立てる形で出撃したアメド司祭も亡くなったのか。戦力の低下が著しいな」
残っているクマドの猟犬は、ギャルム司祭、ヴェーナー助祭だけとなった。クマド司教も含め、たったの三人だけの部隊など、戦力と言えるのだろうか。
「議会でも所長の責任を問う声が大きくなるでしょうな」
「どうせ替えの人材などいない。それは連中も分かっている。しかし、ますます翼をもがれることになるな。日々監視の目が増えている。研究の目途がついた途端、この職と研究の成果物を取り上げられることは明白だ」
ギャルム司祭が顔を持ち上げて、窺うような表情になる。
「いかがいたしましょうか」
「どうするか、だと? どうもしないさ。人材がいくらでも畑から獲れるというのなら、一所懸命に畑を耕すがね。こればかりは望んでも生えてはこない」
「ラグ司教にも作戦に参加するよう打診してみては」
プライム博士は、思わず笑ってしまった。
「バカ言うな。彼女はこの聖都の導き手だ。それに、私にとっては政敵とでも言える存在だ。私の言うことなど聞くはずがない。更に言うなら、お前の言う作戦とは、私利私欲の為に兵隊を動かす王侯貴族が立案したものだろう。仮に作戦が成功したとして、私に何の益がある?」
「失礼いたしました。しかし、所長の立場を堅持する為には、一定の戦力とその裁量は持ち続けるべきかと」
プライム博士は緩慢な動作で頷いた。
「やはりそう思うか?」
「政治的な立場が不安定では、研究に本腰を入れることもできません。研究員の中には、所長に従順でない者も多くいます。研究成果を漏洩する輩が、先月だけで二名おりました」
プライム博士は何度か頷き、思考を修正した。
「……確かに、お前の言う通り、戦力は補給しなければならないだろう。私にはジョットという強力な駒があるが、奴の精神は不安定だ。何をしでかすか分かったものではない」
「現在進行中の実験体から、何名か拾いますか」
「いや。半端な戦力は不要だ。地下牢へ行く。ついてこい」
ギャルム司祭の姿勢が崩れ、動揺したことを示した。
「地下牢……。お言葉ですが」
「お前の言いたいことは分かっている。だが、幾つか試したいことがあるものでね」
プライム博士はギャルム司祭を伴って、研究室を出た。研究室自体、王宮の地下に位置しているが、更にその地下には魔物や改造人間を閉じ込めておく地下牢があった。
薄暗い階段に差し掛かる。綺麗に清掃されているのにどこか薄汚い印象がある。プライム博士は一段一段確実に下りていった。地下牢はほとんど空だったが、最も奥の独房に、人の気配があった。
牢の番はヴェーナー助祭が担当していた。一切睡眠をとらずとも活動できる特殊な肉体の持ち主で、危険人物の番にはもってこいの男だった。言いつけ通り、独房から一定の距離を保った場所で、武器を構えて立っていた。
「ご苦労、ヴェーナー。ガドレガと会話する」
「お気をつけて」
ヴェーナー助祭とギャルム司祭を引き連れたプライム博士は、独房の扉を軽く叩いた。そして監視窓を開く。
幾重にも鎖で巻かれたガドレガがそこにいた。全裸である。ゆえに怪僧がその躰に宿す人面膚が全てあらわだった。彼の顔面にある無数の獣の眼がぎょろぎょろと動いている。人面が嘆き悲しむ声が独房に響き渡っている。防音処置を行ったが、監視窓を開くとそれも無駄になる。
プライム博士は耳を塞いだ。そして麻痺魔法をガドレガにかける。魔法に耐性があるのか、ガドレガは意識を保ったままだったが、彼の肉体に刻まれた人面の声が半減した。
「ほう! そのような黙らせ方があるとは、吾輩知りませんでした」
ガドレガが感心した風な声を発する。獣の眼で埋まっていた彼の顔面の一部がえぐれている。プライム博士が実験の為に切除した部分だ。
「機嫌が良さそうだな、ガドレガ。もう20日以上水も食料も与えていないというのに」
「いざというときの為に、蓄えておりました。そろそろ餓死するかもしれませんが」
鎖で雁字搦めにされたガドレガは、鷹揚に笑ってみせた。プライム博士はこの男の底知れなさに恐怖する。何を考えているのか分からない。
「……貴様には、多くの仲間を殺された。あのときの戦いでは、都民の大勢を巻き込んだな。いったい何を考えている?」
「この聖都は呪われております。浄化が必要なのです」
ガドレガは鎖に囚われつつも楽しそうであった。軋む自分の体がどこまで耐えられるのか試しているように見える。
「ふむ」
「その助力がしたかっただけで……。しかし聖都を襲った爆発事件。吾輩どもが戦っている最中に、突如として爆発が起こり、多くの都民が亡くなったそうですが、あれは吾輩の仕業ではありませんぞ。聞くところによると、あの事件まで吾輩のせいにされているそうですが」
ガドレガの声には苛立ちや怒りなどはない。ただ純粋に不思議がっている感じだった。
「冤罪ということか?」
「ええ」
「だろうな。あの爆発を起こしたのは私だ」
ガドレガは意外そうに首を傾げた。それだけでジャララ、と鎖が鳴り、軋んだ。指一本動かすのにも相当な力が必要なほどのきつい拘束だった。
「……なぜそのようなことを?」
「お前という存在を目立たなくさせるためだ。お前が殺した都民の大半を、爆発事件の犠牲者ということにして上に報告した。王侯貴族の連中がお前に目をつけることは避けたかったからだ」
プライム博士は監視窓から離れ、近くの壁にもたれた。無表情のヴェーナー助祭がじっとりとした目つきで独房のほうを見る。
「はて……。どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ。お前はあまりに邪悪過ぎる。それも自覚なき邪悪。矯正しようのないほどの黒。それがお前だ。けして利用することはできないだろう」
「はあ。吾輩が悪、と言われましても、ぴんときませんな」
本心からそう言っているのが分かった。プライム博士は額に手をやり、
「しかし、私の愚かな雇い主たちは、お前という存在を知った途端、お前に利用価値を見出し、懐柔しようとしてくるだろう。奴らは下々の人間が、カネと特権を与えてやれば必ず従う生き物だと盲信している。規格外の存在には適用できない、なんてことを想像さえしない」
「はあ」
「ガドレガ。お前を捕縛するのに、クマドの猟犬を総動員し、ラグの助力があり、それでもペルマン助祭の命を犠牲にしなければならなかった。その能力は比類ない。恐らく、ここで殺したほうが世の中の為だ」
ガドレガは平然と、
「同意はできかねますな」
「どうせお前を手懐けることはできない。制御できず、好き勝手に行動されて、味方に被害を出すのが関の山。だから、貴様は私が管理しなければならないと考えた」
プライム博士の言葉に、このふてぶてしい怪僧は首を捻った。
「ふむ。他人には制御できなくとも、自分にはできる――大した自信家でありますな」
「滑稽か?」
「いいえ。確かに貴殿にはその自信に見合うだけの力量があると思いますぞ」
プライム博士は独房に再び近づき、ガドレガを睨みつけた。
「もちろん、お前を制御するには普通の方法では駄目だ」
「そうでしょうとも」
「お前は気づいているか? クマドの猟犬が普通の人間ではないことを」
ガドレガは何度も頷いた。
「もちろん。ひときわ邪悪な方々です。同情してしまうほどに」
「……クマドの猟犬は大量のフォーケイナの棺を摂取し、それを軸に改造手術を施している。つまり、それを食らったお前も、フォーケイナの肉体を大量に抱えているわけだ」
「はあ。悪趣味ですな」
ぴくりとギャルム司祭が反応した。彼なりに怒りを堪えているのかもしれない。
「……お前以上に悪趣味な躰をしている人間を知らないが、まあいい。フォーケイナの意思で、お前の肉体を作り替えられる可能性がある」
「ほう。興味深い」
「お前を捕縛してから、なんとかレゴリー助祭を助け出せないか試したが、無理だった。ならばせめて有用な形に作り替えてやる。これからお前には更に多くの秘薬を投与する。ジョットと同じ方法で洗脳してやろう」
しばらくガドレガは返事をしなかった。やがて、
「ふむ。ところで、食事はまだですかな」
「何を言っている?」
「吾輩は、野菜は嫌いなのですが……、実を言うと大体のものを食べることができます。こんな風に」
ガドレガは僅かしか動かない顔を強引に動かして、自らの手鎖に齧りついた。いともたやすく食い破ってしまう。
プライム博士は呆気に取られた。自らを戒める鎖を次々食い破る男の異様な姿に。そして、プライム博士の目の前で、堂々と逃げ出そうとするその愚かさに。
「……何をしている? そんなことをしても、また鎖をつけられるだけだ。今度は顔も動かせないほどきつく」
「はい?」
「どうせなら我々が見ていないときにそれをやればいいものを」
ガドレガはあっという間に首周りの鎖を齧り、ある程度上半身を動かせるようになっていた。
「それではいけません」
「なに?」
「それでは、あなたを人質にできませんから」
ガドレガの体が大きく膨らんだ。一瞬で拘束していた鎖が弾け飛んだ。勢いで独房の扉がひしゃげ、そこにガドレガの巨体がぶつかった。
ギャルムとヴェーナーが飛び出して扉を押さえようとしたが無駄だった。あまりにも簡単に扉を開いたガドレガは二人のクマドの猟犬を押しのけた。そのまま独房の外に出る。
「所長! お逃げください!」
ギャルム司祭が叫ぶ。しかしプライム博士は逃げなかった。
意外そうにガドレガは笑った。彼の皮膚に浮かび上がる人面たちが、いっそう甲高い悲鳴を上げた。
「おや! 逃げませんので?」
「逃げる必要はない。お前は“私たち”にひれ伏すことになる」
プライム博士が手に握るのは一振りの剣。
もう一人の博士。
複製品。それも最新のプライム博士の魂が刻印されたもの。
「なんと、禍々しい……」
そう言うガドレガは喜色を隠せていなかった。ガドレガの背後にギャルムとヴェーナーが回り込み、正面からプライム博士がガドレガを抑え込む形になる。
ガドレガが野卑な笑い声を上げながら飛び掛かった。プライム博士は最新の複製品を使って、迎え撃った。




