六花の祭壇(後編)
イカの魔物が勢い良く足を振りかぶった。その先にはメトを載せている。砲弾のようにメトを投げ込んだ魔物に、軍船が気づいた。砲門が照準を合わせる機械音が聞こえたが、そこにメトが飛び込んだ。
砲門に剣を叩き込んで砲口を歪めた。発射されるはずだった砲弾が行き詰まり、小さな爆発が起こった。
メトはそれを見届けてから甲板によじ登った。甲板にはデイトラム聖王国の正規兵の恰好をした男たちが乗っていたが、嵐のせいか、メトが乗り込んだことに気づいていなかったようだった。嵐の勢いは強まり、自身の伸ばした手の先さえ視界が定かではない有様だ。
兵士たちはディシアが操るイカの魔物の登場に気を取られているようだった。おまけに砲門の一つが故障した。混乱し、人の出入りが激しかった。
しかしそんな中で、メトの登場に感づいた男がいた。ゆっくりと船室から甲板に出てきた男は異形であった。クマドの猟犬の一人であることは明らかだった。
メトが咄嗟に隠れた銃座の陰に、まっすぐ視線を向けている。メトは小さく息を吐いた。軍船は今は魔物に気を取られている。マナの船が今すぐ襲われることはないだろう。もし砲撃がマナの船に向かえば、一撃で沈没してしまうかもしれない。なのであまりゆっくりはしていられないが……。
メトは顔だけ物陰から出した。一瞬、視線が合った気がする。クマドの猟犬らしき男がゆっくりと歩き出した。
「アメド司祭、魔物はあちらです、どちらへ向かわれるのです?」
兵士の一人がクマドの猟犬に呼びかけた。アメドと呼ばれた男は、メトから視線を逸らさなかった。
「……魔物の対処は任せます。なんてことはない任務を一つ、思い出したので……」
アメドの歩む速度が一瞬だけ緩んだ。と思った次の瞬間、アメドの巨体がメトの目の前まで迫っていた。
考える間もなく横に跳んだ。盾にしていた銃座の太い鉄で出来た器具が真っ二つになった。アメドの持っている小刀がバターのように切り裂いたようだった。
メトは肩口を負傷していた。咄嗟に手で押さえる。滴り落ちた血が、甲板の上に滑り、雨粒であっという間に薄く、消えていく。
「プライム博士が手掛けた子どもたち……。その内の一人、メト。能力開発に失敗したものの、強靭な肉体を構築することに成功。ある意味、フォーケイナの棺に適合できず強化されない一部の無能者の希望の星となりうる、興味深い個体だと聞いています」
アメドはゆっくりとした口調で言う。いつもならすぐに出血は止まるが、今度の傷はなかなか血が固まらなかった。毒でも塗られていたのかもしれない。メトは手で傷を押さえながら距離を取ろうとした。
「そう言うあなたはアメド司祭。確か、5対1でやり合ったよね。あのときは引き分けだった」
「いいえ、あのときはあなたの勝利でしたよ、メト」
アメド司祭はゆっくりと、大股で近づいてきた。
「大したものです。クマドの猟犬を複数人相手にして、無事に切り抜けたのは、あの憎き怪僧ガドレガか、奇跡の子ジョットくらいのものです。あなたは誇っていい」
「ジョットと戦ったことがあるの?」
「お遊び程度ですがね」
どういう意味か分からなかった。もしプライム博士の手駒であるクマドの猟犬がジョットと出会えば、壮絶な殺し合いに発展するのではないか。お遊び程度、とは。
「アメド司祭。別に私はあなたたちと一戦交えたいわけじゃない。大人しく退いてくれないかな。そうすればお互い、血を流さずに済む。今、私が負った傷は、まあ、一つ貸しってことで」
「寛容なことで」
アメド司祭はしかし、戦闘態勢を崩さなかった。
「プライム博士は、ゼロやメトを、さして欲しがっているわけではありません。しかし我が国の王侯貴族の中には、プライム博士とはまた別の思惑で、あなたたちに利用価値を見出している者もいるのです。大人しくすべきはあなたたちのほうです……。そうすれば無傷で聖都までたどり着ける」
「無傷?」
メトは自身が負った傷を指差しながら言った。
「そんなもの傷の内に入りませんよ。聖都まで行けば、幾らでも修復は可能。手足を全て切り落とすくらいでは死なないでしょうから」
「むごいね」
「必要とあればそうします。不必要ならしません。当然のことです。いかがです?」
「悪いけど、魅力的な申し出とは思えない」
「残念です」
「私も、そう思ってるよ」
アメド司祭が跳躍した。軍船の上は比較的安定していて、マナの船の上よりは揺れなかったが、それでもこの嵐の中、的確に自分の体を動かすのは難しかった。
アメド司祭の動きは自然の法則から逸脱しているように思えた。メトが一歩動くたびに二歩動く。手を振りかぶったときには既に振り下ろしている。彼の持つ短刀の切れ味はすさまじく、刃がかすっただけで鮮血がほとばしった。
メトは甲板の上を転がり、回避に徹するしかなかった。博士を変形させてこちらも仕掛けようとするが、アメド司祭の動きについていくことができない。
《魔法で暴風の影響を極限まで減らしている。凄まじい精度だ」
「対抗策は」
《メトの筋力で対抗するしかない。武器変形は私がする。体勢を安定させることに集中しろ》
アメドが踏み込んでくる。メトは滑る甲板の上でステップを踏み、なんとか回避を続けた。
船が揺れる――イカの魔物が軍船に攻撃を仕掛けたようだ。甲板上の兵士たちが派手に転がっていく。しかしメトとアメドはよろめくことなく互いの目を覗き込んでいた。手を伸ばせば互いの顔に届きそうなほどの距離。少しでも体勢を崩せばあっという間に致命傷を負う。それが分かっていた。
突き入れてくる短刀。そして蹴り。鳩尾に蹴りを食らったメトは浮き上がりそうになる体を、博士の変形で重心を下ろすことで踏ん張り、アメド司祭の続く攻撃を回避した。少し虚を突かれた形になるアメド司祭の腕を掴んだ。
思い切り握り込む。一秒後にはアメド司祭の左腕がミシリと音を立てて折れていた。アメド司祭は表情を動かさなかった。短刀を持ち替えて斬り込んでくる。
すぐに腕を離して距離を取った。一呼吸。その間にアメド司祭の骨折は完治していた。調子を確かめるように両腕を振っている。
「……やはりやりますね、メト。正直羨ましい。人間として尋常の姿を保ちながら、それだけの力を得ているとは……」
「クマドの猟犬はみんな、異形だよね。どれだけ過酷な実験を受けてきたんだか……。それでもなお忠誠を誓うなんて、大したもんだよ」
「ゼロもそうですが……。あなたたち五人の子どもは、やはり可能性の塊です。元々無能力とのことですが、もしかするとそれがフォーケイナの棺との相性を高めているのかもしれませんね」
「私はそれとは全く別の系統の実験を受けたけどね。魔物肉ばかり食べてたらこんな風になっただけで」
「原理的には、フォーケイナの棺を摂取した場合と変わらないでしょう。異物が、あなたの体を作り替えた。やはり実験の価値はあるようです」
しかしプライム博士本人はもうメトにはあまり興味がないようだった。デイトラム聖王国にプライム博士以外の研究者がどれだけいるのか知らないが、どうせ彼以上の研究者なんていないんだろう。そんな確信があった。
メトとアメド司祭がやり合っている間も、イカの魔物が軍船とやり合っていた。別の砲門から砲撃が撃ち込まれ、少なからずイカの魔物が負傷したようだ。兵士たちの間で歓声が起こる。
「……魔物を操っているということは、あの中にディシアもいるのですか?」
「まあね」
「いつの間に、合流したのか……。ディシアに関しては任務とは関係ありませんが、良い土産になるでしょう。ついでに持ち帰ることにします」
「私と、ゼロと、ディシア。美少女三人がご所望とは、欲張りだね。せめて誰か一人だけにしなよ」
「いいえ。全員いただきます」
「まともに戦えるのはあなただけでしょ、アメド司祭。できると思っているの?」
「協力者がいれば」
アメド司祭は自信を持っているようだった。メトは先ほど目撃した生首を思い出し、表情が曇った。
「……協力者っていうのは、カルド助祭のこと?」
「……はい?」
「彼ならディシアが殺したよ。私たちの船に首がある。できれば生きて返してあげたかったけど」
「それは……」
さすがにアメド司祭は驚いたようだった。しかし動揺をすぐに隠す。
「……それは残念ですが、協力者は別にいます」
遠くの海で爆音が鳴った。それは嵐の轟音の中でもはっきりと聞こえるほど激しいものだった。メトは振り返り、炎を上げるマナの海賊船を見た。
「……マナ! ガイ! ゼロ!」
「派手にやっているようですね。ところでメト。あなたは帰還する船を失ったら、どうするつもりなんでしょうね。仮に私を倒したとして、その後はどうするんです? この軍船の乗組員を全員殺して乗っ取るんですか?」
「そんなことするはずないだろ! も、戻らなくちゃ……」
マナの海賊船が攻撃されないようにするために乗り込んだのに。一体いつの間に攻撃を受けていたのか……。背を向けたメトに、博士が、
《バカ者! 敵に背を向けるな!》
メトは身を伏せた。頭の先を短剣がかすめ、がっちり紐で固定していた帽子が飛んだ。嵐の中、ガイに貰った帽子が飛んでいく。あっという間に見えなくなった。呆然と空を見送る。
《メト! 目の前の敵に集中しろ!》
歯を食いしばった。迫りくるアメド司祭を睨んだ。博士が鞭状に変形しメトはそれを振り回した。質量のある鞭が唸りをあげた。アメドが一歩下がって鞭の軌道を見極めようとする。
無駄だ。きっとそれはアメドにとっても本能的な動きだったのだろう。それが無駄であることは、アメドほどの手練れなら数秒後に気づく。その前に決着をつける。
鞭が変形。一気に硬質化する。軌道は簡単に変わる――アメド司祭の肩口に剣の斬撃が入り、メトは一気に押した。転倒したアメドは、ちょうどそのとき大きく揺れた軍船の動きに合わせて、甲板上を転がっていった。
「……戻らないと!」
メトは躊躇することなく海に飛び込んだ。軍船はディシアが相手してくれるはずだ。自分は今すぐにでもマナの海賊船へ戻らなくては。
がむしゃらに嵐の海を泳いだ。博士を変形してそれを水かきとして使った。大量に海水を飲んで吐きそうになりながら、マナの船を目指した。
マナの船が燃えている。折り畳んだ帆が火柱を上げている。暴風で今にもひっくり返りそうになっていて、甲板の上で人が踊るように動き回っているのが見える。
《まずい……、船に近づくな、メト》
(なんで!?)
《間もなく船が沈没する。一緒に海中に引きずり込まれるぞ。距離を取れ》
(ガイは!? マナは!? どうなるんだよ、ゼロは!)
《事前に避難したと考えるほかない。それ以外にあるか? お前が突っ込んだところでどうにかなる問題じゃない》
メトは船が沈没する様を遠くから眺めるほかなかった。まだ船上には誰かが残っている。海に飛び降りる者も多数いた。緊急時用の小舟が一隻だけ、近くに浮かんでいるのが見えた。
しかしこの嵐の中である。大きな波が幾度となく訪れ、メトはどんどん流されていった。
何度も海中に沈み、手足をばたつかせて海上に顔を出して息をめいいっぱい吸った。メトほどの超人でもかろうじて息をするのがせいいっぱいだった。はっきり言って他の人間の生存は絶望的な状況だった。
マナの海賊船からも、軍船からも離れていく。やがて嵐が過ぎ去り、ぞっとするほどの快晴の下、穏やかな海に取り残されたとき、メトの周囲には人の気配がなかった。
遠くに陸地が見えた。メトはそちらに向かって泳ぎ始めた。無尽蔵の体力が尽きかけていた。いよいよ浜辺に辿り着いて、海面から体を引き揚げたとき、体が異様に重く感じた。そのまま前のめりに倒れる。
ふやけた肌に小石混じりの砂が付着して、呼吸するたびにこすれて痛かった。そんなささやかな痛みでは、訪れた強烈な眠気を消すには至らなかった。メトは深い眠りに落ちた。




