怪僧と怪物(三)
大教会地下、研究所内。雨の聖都の遠景が壁に映し出される巨大な部屋で、メトは躍動していた。
クマドの猟犬五人との戦いは、一瞬でも気を抜けば急所を撃ち抜かれ敗北する厳しいものだった。メトは全身をしならせ、五人の攻撃を避けながら、瞬間ごとに反撃を企図し、それらを実現する為に、左手、両足、頭部に固定した武器を変形させなければならなかった。右手に握る博士が、最も手ごわい司祭ギャルムの猛攻をしのいでくれているが、残りの四人はメトがどうにかしなければならない。
メトは脳を最大限稼働して、四つの武器を変形させ、四人の猟犬の嫌がる動きをそれぞれ完璧に実行しなければならなかった。それができてやっと互角の動きになる。猟犬たちは完璧に統率が取れており、一人に集中して攻撃をしようとすれば、手痛い反撃が待っていることは瞭然だった。
メトはこの広大な空間を生かす為、常に走り回ってそれぞれの間合いを調整していた。それを煩わしく思った一人が魔法を構えた。メトの足元の床が突然粘着質に変わり、足が取られた。続けて爆炎の魔法を放つ。博士が盾になり炎を防いだが、大きく隙が生まれてしまった。素早く残りの四人が回り込み、殺到する。
メトは跳躍した――靴の底を切り取って粘着質の床から脱した。分解された靴を空中で蹴り飛ばして一人の注意を一瞬だけ逸らす。足先の武器を一気に変形させ長大な槍とし、一人の顎を貫いた。
博士のように、そこから更に武器を変形させ体の内部から破壊したかったが、ほんの少し動かした時点で、素早く身を引かれた。
メトは舌打ちしながら着地した。顎を押さえた負傷者は、しかしものの数秒で傷を回復させ、何でもないように構え直した。メトは大量の汗をかいていた。全力を尽くしてやっと傷一つ負わせた。それもあっという間に回復されてしまう。
「おっ……、カルド助祭、油断したのかなぁ?」
ギャルムがメトから目を離さずに言う。カルドと呼ばれた男は、顎の調子を確かめながら首を振った。
「いいや、断じて……。この女、戦いを経るごとに動きが読めなくなっていく。普通逆だろうに……。凄まじい戦闘センスがある」
「感心している場合ではないよ。次は致命傷を食らう可能性があるよね。施設を破壊するのもやむなしで魔法を使ったけど、それさえも凌がれたんだよ」
「あ、ああ……。ギャルム司祭、あんたに一度勝っただけある」
そこまで言って、カルドは自分の顔に触れた。メトは集中して彼の顔を注視していた。
カルドの動きがぎこちなくなる。異変に気付いたギャルムが振り向いた。
「どうしたんだい、カルド助祭。落ち着きなよ」
「いや、何か……。何かがおかしい」
「何か?」
「まさか、そんなこと……。メト、貴様……!」
カルドの頭部に角が生えた――否、メトがカルドの体内に残した武器の破片を頭まで移動させ、変形させた。脳を軽くひと混ぜされたカルドは絶叫した。ギャルムが素早くカルドの頭に手を伸ばし、武器の破片を摘出した。
ぐにぐに動く破片を忌々しげに見たギャルムは、それを放り投げた。
「あっ……、まさか、武器を切り離して、体内を破壊するとはね。メトさん、やり口がそこの利口な武器に似ているなぁ」
「修行の成果だよ。ガイからこの武器の可能性について示唆をもらっていたからね」
先ほどの博士の内部破壊のやり口を見て、気が進まなかったが試すことにした。分離した武器は簡単な動きなら遠隔でも操作可能なことは分かっていた。破片の変形を繰り返し蠕動させ内部を破壊する。脳を掻き回されたところで、クマドの猟犬なら戦闘不能にはなっても死なないだろうと思った。
メトは頭部に固定していた武器を左手の武器に合体させた。帽子をかぶり直す。
「これで1対4か、大劣勢から、劣勢くらいには巻き返せたかな」
頭を抱えて悶えているカルドを蹴り飛ばしながら、ギャルムは首を振った。
「メトさん、きみは本当に厄介な力に目覚めてしまったな。その攻撃全てが致命傷になり得る。さっき、僕が一対一で仕留めるべきだったよ」
「じゃあ、今から一対一する? 四人でいっぺんにかかられると、神経が削られるというか……」
「全力で潰すよ。四人で確実に」
ギャルムが残りの猟犬に目配せし、距離を詰めてきた。メトは後退した。相手の人数が一人減っても、普通にやれば負けることは分かっていた。こちらの攻撃は必殺になり得るが、向こうの攻撃も必殺に近い。一撃でも貰えば、そこを狙われてあっという間に詰められる。
だがこの戦いを乗り越えられれば、フォーケイナを助けられる。ここさえ凌げば……。メトの集中力はいよいよ高まっていた。今なら武器の変形も問題なく行える。失敗する気がしない。さあ、来い。メトは自信に満ちていた。
ギャルムの動きが止まった。他の三人も。猟犬四人は呆気に取られたように立ち尽くしていた。
メトも足を止めた。猟犬たちの殺気が消えていた。
こちらを油断させる作戦か? しかしそういう感じではなかった。四人の猟犬は体を動かしたくてもできない様子だった。表情が弛緩し、一人は力なく座り込んでしまった。
メトは更に後退した。そして構えを解いた。四人の猟犬の後ろから、一人の少年が姿を現した。
まだらの緑髪、金色の瞳の、細腕の少年。研究所で別れたときの姿のままだった。
フォーケイナ。数年ぶりの再会に、メトは咄嗟に言葉が出なかった。
フォーケイナは照れ臭そうに苦笑した。
「メトって名前だったんだね……。メトちゃんって呼んでもいいかな?」
「フォーケイナ……。元気そうで、良かった」
メトはおそるおそる言った。目の前のフォーケイナが幻覚の類ではないことが、だんだんと呑み込めていく。
「今日の分は終わったから、気分が晴れやかなんだ。まあ、もう夜だけどね」
「……クマドの猟犬たちの動きが止まったのは、あなたの仕業?」
メトは硬直した彼らを見渡した。
「まあね。彼らの肉体のほとんどが、僕の細胞で出来ている。だから僕の意思で動きを制限できるみたいなんだ。最近まで知らなかったんだけど」
「そう、なんだ……。どれだけ食われたんだか」
フォーケイナは苦笑して肩をすくめる。
「痛みには慣れたよ。だから心配しなくていい」
「前の研究所でも同じこと言ってたね。やせ我慢だって私は知ってる」
「ああ、うん……。当時はそうだったけど、今は本心で言ってる。……ここでの暮らしもそう悪くはないんだ」
メトは今の彼の言葉が聞こえなかったフリをした。
「フォーケイナ、今すぐここを出よう。自由の身になれる。さあ」
「残念だけど、それはできない」
メトは深呼吸を繰り返した。聞き間違いではない。だが、どうして?
「……何を言ってるの?」
「所長を一人にはできない」
「あなたを買って、毎日毎日肉を削ぎ落として、実験を繰り返し、クマドの猟犬のような化け物集団を生み出し、フォーケイナの棺を量産して金儲けする、その所長を、気遣うというの!?」
メトは叫んだ。フォーケイナは動じなかった。
「落ち着いてメトちゃん。これは僕の意思で決定したことだ。それにメトちゃんは所長のことを勘違いしている」
《洗脳されているな》
分割されたままの博士が口を挟む。メトは頷いた。
「うん、そうに決まってる……」
「メトちゃんも、所長に会えばすぐにわかるさ。どうだい?」
「所長はここにいるの?」
「いる。たぶんメトちゃんに会いたがると思うんだ。こっちにどうぞ」
フォーケイナが歩き出す。硬直したクマドの猟犬の脇を通り抜け、メトは彼の後に続いた。歩きながら、四つに分割していた博士を一つに統合した。すると博士が一安心したのか、更に話し出す。
《メト。グゥラのときのように精神を乗っ取られるかもしれん。注意しておけ》
(うん)
《対処法を知った以上、そうそう成功しないと思うがな……》
ここでメトは違和感を抱いた。フォーケイナはメトよりも遥かに優秀だった。そんな彼が洗脳なんかにかかるだろうか。
フォーケイナの強みは再生能力だ。肉体の再生もそうだが、精神も強靭である。そのことをメトは深く知っていた。常人なら精神が呆気なく破壊されるほどの激しい実験に堪え、人格を保っていられたのは、フォーケイナが肉体だけではなく精神も正常な状態に修復し続ける力があったからだ。ジョットも、ディシアも、ゼロも、研究所にいた頃はまともに会話さえできなかった。
何の能力も開発できなかったメトと、強靭な精神力があったフォーケイナだけが、まともに意思疎通できた。そんな彼を洗脳しようとしても、一時的に成功したとして、すぐに醒めるのではないか。
洗脳ではなく、本当に自分の意思でここにとどまると決めているのか。どうして。現状を憎みこそすれ、受け入れるなんてありえない。
何か、理由がある……。この先で待つ所長に会えば、それが分かるのか? 会えばすぐにわかる、とフォーケイナは言った。いかにも不自然ではないか……。
「フォーケイナ、ゼロについてなんだけど」
「ああ、ゼロさん! 彼女は無事に逃げられたかな」
「うん。今は聖都にいるけれど」
フォーケイナは歩きながら、
「僕を気にしているのかな。ほとんど研究所内で会うことができなかったんだよ。僕とは全く別の場所で隔離されていた。だから僕の意思をはかりかねているのかもしれない」
「ゼロを逃がしてあげたのは、もしかしてフォーケイナ?」
「え? いやいや、僕じゃないよ。僕にそんな力はない」
フォーケイナは意外そうに言い、否定した。
「ゼロの話だと、所内に協力者がいて、逃がしてくれたそうなんだけど」
「それはきっと、所長だな」
「え?」
「白状するけれど、メトちゃんに会いたいって言ったのも僕なんだ。所長はさんざん渋ったけれど、結局は応じてくれた」
「それは……」
メトは混乱した。ゼロを逃がしたのは所長? だがさっきクマドは、ゼロを逃がしたのは痛手と言っていた。矛盾している。あるいは、所内で価値観が乖離している。
所長がメトをここに導いた――似たようなことはさっきクマドが言っていた。無傷で手に入れたいからわざと引き込んだと。実際は思いっきり殺されそうになったが、元々はフォーケイナがメトに会いたいと要望したからこうなっているというのか?
何かがおかしい。何か重要なことを見落としている。そういえばジョットを名乗る協力者が、マナを脅し、メトを聖都まで運んだという話だった。つまりその協力者とは、ここの所長のことだった?
その所長とはいったい何者なのか。博士からフォーケイナとゼロを買い、研究を進め、フォーケイナの棺をばらまいて強化人間を量産している。デイトラム聖王国で一定の立場を得て、相当な権力と軍事力も持っている。そしてフォーケイナからここまで信用されている……。
メトは稲妻が落ちる思いだった。一人だけ、いる。その正体に相応しい人物が。彼ならば可能だ。港街ゲイドで、マナを脅し、メトを完璧に聖都まで誘導することも、彼ならば可能。あまりにも不確かな手段に思えたので博士は未来予知なんて能力を仮定していたが、そんな能力なんてなくとも、彼ならば簡単だろう。
全て辻褄が合う。合ってしまう。ジョットを名乗る協力者があまりに用意周到だったこと。メトがこうして聖都の中枢まで潜り込めたこと。博士の研究を引き継ぎ、発展させ、フォーケイナの棺を量産できたこと。ゼロを無事に逃がせたこと。フォーケイナに慕われていること。それらが持つ大小さまざまな違和感が解消されてしまう。
この先にいるのは、あいつだ……。メトは震えた。博士を持つ手に汗が滲んだ。
博士は気づいているだろうか? メトよりも遥かに聡明で、先を見通せる。しかし、これについては目が曇っているかもしれない。無理もない話だ。
なにせこの先にいるのは……。
フォーケイナが案内した先、開け放された扉の向こうに、彼はいた。くたびれた旅装に身を包んでいる。薄くなり始めた栗色の短髪。小さな眼鏡。卓上の書類を立ったままめくっている。部屋は書類で溢れ、壁にも何らかの書類が貼り付けてある。
見覚えのある部屋だ。メトが過ごした研究所でも見た。博士の部屋がこんな感じだった。
「博士……」
人間だった頃の博士がそこにいた。名前はスード=プライム。メトとフォーケイナに気づいたプライム博士が、書類を卓上に置いてくすりと笑った。




