雨の聖都は美しい(中編)
翌日。聖都では雨が降り続けていた。
聖教地区で行われる合唱会は雨でも中止にならないようだった。開催は夕刻からだが、朝から大教会前は混雑しており、場所取りに熱心な老若男女でひしめき合っていた。
王国兵が整理の為に立っていたが、メトたちが近くを歩いても全く反応しない。それどころではないようだった。時折怒号の混じる群衆に辟易しているようだった。
集団から少し離れて、マナが連れてきた子どもたちと会った。貧しい子どもたちと聞いていたが血色は良かった。身なりもさほど悪いわけではない。他の街で出会ったら貧しい家の子どもだとは思わなかっただろう。しかし聖都の人間は服装が小奇麗で趣向を凝らしたものを好んで着るので、彼らと並んだら少し浮いて見えるかもしれない。
「危なくなったら自分の身を優先していいから。尋問されたら私たちのことは売っていい」
メトの言葉に子どもたちはハハハと笑った。
「おねーさんたちのことを正直に話したら、逆にオレたちが危なくなる場合もあるんだよ。報酬分は働くから、オレたちのことは気にしなくていいよ」
達観したような態度を子どもたちが取るものだから、メトは驚いてしまった。しかし頼もしい。
子どもたちと別れた後で、メトはマナに尋ねた。
「陽動って、具体的に何をやらせるの?」
「あいつらに任せてある。ガチガチに計画を練ると柔軟さが失われる。その場その場のあいつらのイタズラ心に懸ける」
マナは自分でそう言った後、イタズラ心に懸けるってなんだよ、と独り言を漏らした。メトは大教会周辺の兵士の配置と合唱会が行われるときの群衆の動きを、大雑把に把握した。雨が降っていると、人々の視線は自然と下に行く。雨具で顔を隠すように振る舞っても不審には思われない。偵察にはもってこいだった。とはいえガイは目立ち過ぎるので、彼にはここでも留守番を頼んだ。
「マナは聖都の人間なんだよね。ふらふら出歩いて大丈夫?」
「聖都の人間はいちいち他人の顔を見て生きてないんだよ。隣人がどんな仕事をしてて年収はどれくらいで宗派は何か、ということは把握していても、どんな顔で、どんな声で話して、どんな趣味があるのか、なんてことは分かっちゃいない。そういう街なんだよここは」
「その感覚はよく分からないなあ……。普通逆じゃない?」
「かもね。でも、私たちにとっては好都合でしょ?」
「……雨が止まなきゃいいけど。この街では特に、雨音が大きい気がする」
石畳の綺麗に整備された道に、焼いた粘土で出来た屋根、それから木と布で作られた宣伝看板が、雨音を増幅させて伝えている。耳を澄ませて雨音を聞いていると、それが遠くの人の話し声のように感じられることがあって、騒ぎを起こすのに絶好の環境だった。
時が過ぎるのを待った。潜入中止の場合も考えていたが、大教会の兵士は昨日より手薄のように感じられた。合唱会の開催がやはり隙になっているようだった。王国兵は群衆の誘導と、各所で勃発する喧嘩の仲裁に忙殺されている。子どもたちの陽動がなくとも大丈夫かもしれない。
夕刻近くになって、群衆の熱気が一段と増した。大教会近くの路地で待機していたメトは、ちょうど偵察から戻ってきたマナに視線を向けた。
「なんか騒いでるね」
「ラグ司教が広場に現れた。合唱会の準備が進んでる。こっから更に人が増えるよ。聖教地区に入りきらない人が、そこかしこで歌うから、私たちが声を潜める必要もなくなる」
「まだ増えるんだ」
「まだまだこんなもんじゃないんだよ。なんといったって、聖都で一番の娯楽だからね。ラグ司教は聖職者としては実力も実権も持たないただの女だけど、その顔と声の良さだけで今の地位まで上り詰めたんだ。余裕があるなら、ご尊顔だけでも拝んでいけば?」
「そこまで言うなら、ついでに見ることにするよ。しかし、司教って相当な高位だよね? 見てくれが良いだけでそこまでなれるなんて、信じられないな」
「ま、見れば納得するよ。あの女は若い頃より今のほうが美しさに磨きがかかってる」
メトとマナは緊張を紛らわすために雑談を繰り返した。群衆の熱気が時間が経るごとに大きくなっていく。メトは深呼吸を繰り返した。長い雨で路面の表面をさらさらと水が流れ、排水溝がゴウゴウと音を立てている。遠くで雷が鳴っている音がした気がしたが、定かではない。もしかすると人の叫び声かも。いや、子どもの泣き声か? この人混みで迷子でもいるのかもしれない。無理もない。メトはゆっくりと視線を路地の向こうにやった。
子どもが二人、こちらに走ってきた。家の壁にもたれていたマナがばっと体を起こす。
「おい、そろそろ時間だぞ。どうしたの」
どうやらマナの雇った子どものようだった。二人の子どもは顔を真っ赤にしているが、体が小刻みに震えている。
「カネいらないから、帰らせて」
子どもはマナに訴えるように言った。マナとメトは視線を交わした。メトは頷く。
「……無理っていうなら、仕方ない。けど、今更怖気づいたなんて。あんたたちならやんちゃしても見逃してくれるってのに」
「違う! いつものと違うんだもん!」
「そりゃあ、今日は月に一度の合唱会……」
「そうじゃない! クマドの猟犬が、大教会前で見張ってる!」
「なに?」
マナの顔が一気に険しくなった。子ども二人は大声を出したことを悔いたのか、俯いて恐怖で震えた。
「詳しく聞かせて。さっきまでクマドの猟犬なんて、どこにもいなかったでしょ」
「もう、一人捕まったんだよ」
子どもは泣いていた。メトは血が凍り付いた心地さえした。捕まった? 連中に?
「すぐに開放されたけど。変なことしたら喰うぞって脅された。オレたちだけじゃなくて、いろんな人にちょっかいを出してたから、マナおねーちゃんの企みがばれたわけじゃないと思うけど……」
「そりゃよかった」
と言うマナの顔は渋面一色だった。メトは泣きじゃくる子どもたちの頭を優しく撫でながら、
「……合唱会は毎回群衆が熱狂するんだろ。混乱も生じる。警備にクマドの猟犬が当たるのはよくあることなの?」
「いや。はっきり言って異常事態だ。そもそもクマドの猟犬は民衆の前に滅多に姿を見せないんだよ。異形だからね。本人たちは獣人だと言い張ってるが、その正体は後天的に姿を歪めてる、超人たちだ。実力はあるが不気味な存在。そんな連中が、聖都の一大娯楽である合唱会に姿を見せたら、興ざめなんてもんじゃないから」
「私たちを警戒してるってこと?」
「かもしれない。さて、メト、どうする。もしかすると敵はメトが乗り込んでくるのを手ぐすね引いて待ってるかもしれない。罠かもしれないよ」
「罠……。それはないかな」
「どうして」
「だって、私をハメたいなら、クマドの猟犬を大教会前に置いて群衆を威圧するなんて方法、取らないでしょ。それを見た私が逃げちゃうかもしれないのに」
「確かに……。となると、大教会に潜入を企む人間がいる確証はないが、警備を厳重にする理由が出来たってところかしら」
「……子どもたちに伝えて。陽動が怖い人は、すぐに帰っていいって。今回はいつもと状況が違う。子ども相手にも容赦しないかもしれない」
「その可能性はある。とはいえ、必要以上に張り切ってる子どもが何人かいるから、全員逃げ帰るってことにはならないと思う。なんならメトが作戦中止を告げても、特に意味のないイタズラを敢行する奴が出てくるかも」
「無報酬で?」
「報酬は危険を味わうこと。カネや食い物はおまけさ。そういう人間が世の中にはいるもんなんだよ、メト」
メトは苦笑した。それから頭の中で作戦を組み立て直す。
「……予定通り潜入する」
「いいんだね? しつこいかもしれないけど、クマドの猟犬は本当にやばい奴らだ。フォーケイナの棺を何個か食って再生能力をもらってイキってる連中とは段違いの強さだよ」
「私もやばい奴らとは戦ってきてる。巨大な魔物に、ディシアに、グゥラ、ゴイタム。負けないよ」
「そこまで言うなら、私には止められないか」
「一つ、つけ入る隙があるなら、そのクマドの猟犬だね」
「と、言うと?」
「いつもの警備体制に歪みが生まれるわけでしょう。察するに、クマドの猟犬は王国兵からも疎まれてるんじゃない?」
「かもしれない」
「だとするなら、クマドの猟犬が受け持っている場所は、他の王国兵があまり寄り付かないんじゃないかってこと。監視の目が減っている可能性がある」
「うん……、楽観的に考えるならそうだ」
「マナの意見は?」
マナは肩を竦めた。
「ラグ司教の歌声に聞き惚れて、警備の連中が広場のある方向になんとなく視線をやる。そのことも計算に入れて動いたら、もしかするとより大胆に潜れるかもしれないね。マジであの人の歌声は人の心を奪うから」
「マナって商人なんでしょ? 耳栓売ってないの」
「濡らした綿でも詰めておきなよ」
「そうするよ。……そろそろ時間かな」
メトは歩き出した。怯えた顏をした子どもたちがメトを見上げている。心配してくれているのだろうか。さっき会ったばかりなのに。子どもの濡れた額をさっと撫でたメトは優しく微笑んだ。
「美味しいもの食べてゆっくりしてな。私なら大丈夫だから」
大股に歩き出す。振り返らなかった。マナが手を振ったのを気配で感じた。神経が研ぎ澄まされている。
聖教地区に近づけば近づくほど群衆の密度が増している。大教会前はかろうじて人が移動できる程度には隙間があった。縫うように進む。ときどき肩がぶつかったが、メトが普通にしていると相手を吹き飛ばしてしまうので、衝撃をいなすように自分から身を引いた。
王国兵の真横を通る。勘づかれなかった。緊張はもはや収まっていた。今はやるべきことをやるだけだ。
夕刻が訪れた。街路脇にある照明が灯される。分厚い雨雲に遮られて夕陽が全く見えない。雨の道を淡々と進む。人の流れに逆らっているのにメトの存在は気配が消えていた。遠くでざわめきが起こる。数人の王国兵が駆けていくのを見る。
「応援だ! 応援を寄越せ!」
「どうした?」
「大司教宅に全裸のクソガキが忍び込みやがった! 説教じゃ済まされんぞ!」
群衆たちもざわついている。合唱前の熱狂が別の方向に昇華されようとしている。大教会の扉は開放され礼拝堂の中まで信者がびっちりと埋まっているのを確認する。扉の前にはクマドの猟犬の一人が目を光らせていたが、メトには特段興味を示さなかった。
《メト、耳を塞げ》
博士の声。
(今話しかけないで)
《いいから早くしろ。合唱の前にラグとかいう女が歌声を披露するようだ》
(今ここで耳栓なんてし始めたら不審に思われるよ)
《私が思うに、ラグもフォーケイナの棺を用いて改造されている。気配がクマドの猟犬と同じだ》
(ここからラグ司教の姿も見えないのに、博士にはそんなことが分かるの?)
《普通なら分からん。それほどラグの存在が圧倒的なのだ。不審に思われても構わないから、服の綿を引き抜いて耳に詰めろ。作戦を遂行できなくなるぞ》
メトは舌打ちして、右手を背面に回して自身の上着の表面に爪を立てて綿をごっそり抜いた。雨に濡れるのを待ってから耳に詰める。
クマドの猟犬の反応は機敏だった。妙な動きをしたメトを睨みつけ、瞬時に一歩目を踏み出しこちらに近づこうとしていた。
「おい、そこの――」
そこで響き渡るラグの歌声。クマドの猟犬の動きが一瞬止まった。メトは、耳栓を貫通して聞こえてくるその歌声に息が止まりそうになった。天使の声。否、悪魔じみた美しさ。魅惑と耽溺。心の芯に容赦なく入り込み、二度と離さないぞと宣言されたかのような、精神の根幹に響き渡る歌声。
一生この歌声に魅了されるのだろう。一生この歌声を求め続けるのだろう。一生この歌声だけが生きがいになるのだろう。そんな予感。
《あああああああああああああああああああ!》
博士の絶叫。メトは心が急速に冷えていくのを感じた。
(うるさい)
《あああああああああああああああああああ……、正気か?」
(おかげさまで)
《耳栓をしていなければ、私の絶叫があっても心が戻ることはなかっただろう》
目の前にいたクマドの猟犬は、頭からかぶった雨具のせいでその顔までは見えないが、歌声に聞き惚れているようだった。広場のほうへ顔を向けて呆けている。
《ラグ司教が歌っているこの聖歌は3分ほどの歌だ。その隙に奥へ向かえ》
(了解)
礼拝堂に入る。信者たちが同じ方向を見て遠くに聞こえる歌声に夢中になっている。しかしラグの歌声に心を奪われている間抜けな兵士はいなかった。クマドの猟犬以外の見張りは、いずれもラグの歌声に惑わされない術を心得ているようで、正気を保っていた。
しかし大教会の礼拝堂はクマドの猟犬がいることで、いつもより見張りの数が減らされているようだった。子どもたちの陽動の成果もあって、事前の調査よりもかなり警備が手薄になっていた。
メトは礼拝堂の奥に進む――見張りがメトに気づいたときには、立入禁止の領域まであと数歩というところだった。密集する信者を盾にして隠れて移動するのは造作もないことだった。
「何だお前」
王国兵が問い終える前にメトは拳を繰り出していた。二人いた見張りを殴り倒しても、群衆は歌声に夢中だった。
「潜入にもってこいだな。まさに今しかないって感じだ」
《殴り倒した兵士は隅に隠しておけ。どうせ皆合唱に夢中で、気づくのが遅れる」
こんなに杜撰でいいのだろうかと思いつつ、兵士を移動させた。そして奥への扉に手をかける。鍵もかかっていなかったのであっさり開く。礼拝堂の奥は冷たい空気が広がっていた。細長い通路が続いている。人の気配はない。
《急げ。とにかく奥だ。研究施設にフォーケイナが囚われているのだとするなら、私が気配を察知できるはずだ》
「信用していいんだよね」
《もう私に選択肢はない。ここまで明確に対立してしまった以上、お前に協力するしかないだろうな》
「でも、ここの人間と知り合いみたいなこと言ってなかった?」
《人間だった頃の私しか知らん連中だ。私を私と認識できるかどうか》
完全に信用はしていなかった。しかし博士の能力は有用だった。今は頼ったほうがいいだろう。メトは博士を携えて通路を駆けた。どこまで言っても人の気配がなかった。冷たい空気も変わらず。皆ラグ司教の歌声を聞きに行っているのかもしれない。
《フォーケイナの気配がする……、そこの角を右だ》
博士の指示が曖昧なものから具体的になる。メトは逸る気持ちを抑えられなかった。確かにここにフォーケイナがいる。もうすぐ助けられる。色々心配していたが、案外簡単に助け出せるのではないか。メトは足音を消すのも忘れて通路を進んだ。
《そこに地下への階段があるはずだ。真下にフォーケイナの気配がする」
メトは周囲を探った。近くの扉をいくつか開けて、無事地下への階段を見つけた。
しかし階段の前には一人の男がうずくまっていた。眠りこけていたようで、自分の太い両腕を枕にして、ふらふら揺れながら寝息を立てている。
メトは硬直した――男が異形だったからだ。白い獣の毛皮。頭に突き出た二本の赤い角。角の根本からは黒く固まった血が広がっている。体毛のない部分は肌が黒く罅割れ、男の体臭なのか、カビの臭いがする。
《やばい……、この男はやばい。目の前にいるのに気配がまるでしなかった。メト、逃げるかさっさと進むかしろ》
博士の声が上擦っている。
《いや、やはり逃げろ! この男まずいぞ……、非常にまずい!》
男の瞼が開いた。たったそれだけの動作なのに空気が一変した。
音もなく男は立ち上がった。天井に頭がつきかねないほど背が高い。ガイよりも頭一つぶん大きいだろう。しかし最も異様だったのは眼。眼全体が黒かった。目線と感情が読めない。加えて、口が極端に小さかった。僅かに口を開き、息をする。もしかすると欠伸をしたのかもしれない。
「あ……、もしかして、あなたがメトさん?」
男が小さな声で言う。メトは一歩引いた。抜刀する。目の前の男は静かに戦闘態勢に入っていた。ただし武器を持っていない。
「ここの所長が、メトさんを欲しがっていたんだ。僕はクマドの猟犬の司祭ギャルム。きみは再生能力がないらしいから、手足を折って動けないようにしないとねえ」
ギャルムが一歩前に踏み出した。息が詰まる。メトは自分が気づいたときには更に三歩引いていた。
圧倒されている。本能が、まともにやり合えば一方的にやられると告げている。博士の助力があれば互角にやれるだろうか? しかしまた博士に依存する自分が嫌だった。
唇を噛んだ。仰け反っていた自分の体を意思の力で曲げ前傾姿勢になる。
《メト……、逃げろ! お前でも分かるだろう、この男はやばい!》
「悪いけど博士。武器は黙って持ち主の意向に従ってくれないかな」
《……メト!》
「私が博士の性能を十分に引き出せば、勝てない相手はいない。戦うよ」
《……馬鹿が。やはりあのとき、私がお前の体を奪うべきだった》
そう言いつつ、博士は静かに変形した。直刀からやや小ぶりな剣へ。ギャルムはそれを見て首を傾げた。
「おっ……。それが所長の言っていた、例の……」
博士の存在まで詳しく知っているらしい。メトは気合の声を発して踏み込んだ。
次の瞬間、メトは頭を下にして転がっていた。そしてギャルムは博士を手に持って、しげしげとそれを眺めていた。
メトは立ち上がろうとした。しかし右膝の関節部分を砕かれていることに気づき、愕然とした。
何が起こったのか分からなかった。博士を手に持ったギャルムは、壁にそれを突き刺して切れ味を確かめていた。
「おっ……。生きている。この剣確かに生きている。話しかけたら返事をしてくれるのかな? メトさん、教えて?」
メトは腕だけで体を起こした。そしてギャルムを睨みつける。
フォーケイナを助けるなんて無理だったのか。たった一人の男に敗れて、あっさり諦めて、連中の人体実験にまた付き合うことになるのか。
そんなのは嫌だ。
メトは立ち上がった。両の足でしっかりと立つ。ギャルムは首を傾げた。
「あっ……。再生能力はないはず。どうして立てる? メトさん、教えて?」
「気合いだよ」
「そんなはずない。でも、立てている。どうしてだろう……。あっ」
ギャルムが何かに気づいたように目を見開いた。
「メトさん、きみは、フォーケイナくんの友達なんだね。泣いているよ。彼は優しいから、きみが痛い目に遭うことを知って、泣いている。彼の心と僕の心は共鳴するんだ。彼が泣くと僕まで悲しくなってくるんだ」
「へえ。じゃあ見逃してよ。ついでに博士も返して」
「個人的にはそうしてあげたい……。けど所長が怒るから。僕はまた頭をいじられたくはないから。またフォーケイナくんの手足にかじりつきたくないから。だからきみを倒すよ」
ギャルムが博士を足元に落とした。そして動いた――メトの超人的な動体視力をもってしても、その動きを目で追うことは不可能だった。
だから見える前に動いた。自分の手足に伸びたギャルムの手を払い、蹴りを繰り出す。メト自身の動きも、他人から見れば目で捉えることが難しいほどの速度だった。
超人的な肉体を持つ二人の僅かな時間の格闘戦。肉が弾ける音と共に、二人の拳からは一様に血が流れていた。
「参ったな」
ギャルムは無表情のまま言う。
「これ以上手加減はできないんだけど。僕の能力を使ったら殺しかねない」
「そりゃどうも」
メトは格闘戦の隙に拾い上げていた博士を改めて構えた。
「あんたの動きに慣れてきた。殺すつもりでやっても死なないなら、全力でやれるね」
全力で戦う……。メトは自分の全力を計りかねていた。もちろんこれまでの戦いで手を抜いていたわけではない。しかしメト自身、改造を繰り返されてきたこの肉体を持て余していた。元々闘争向きの性格ではない。どこかで制限をかけながら戦ってきた。
もっとやれる。やれるはずだ。メトはギャルムを前にわくわくする気持ちを抱いていた。この男を倒すことができたら自分はもっと強くなれる。そんな気がした。




