傷を負った少女(中編)
メトは呟いた。魔物はどこにいる、と。
《魔物は一塊になっている。道なりに進めば邂逅する》
そう答えを得た。メトは直刀の柄を握り込みながら頷いた。
メトの足取りは確かだった。久しぶりに屋内で寝たおかげで体調は万全だった。すっかり野宿には慣れたつもりだったが、最近の寝不足が解消された感があった。良い感じに腹も減っていたので、歩きながら朝食にありつくことにした。
焼いた肉に果汁を垂らしたものに齧りついた。魔法で保存がきくように加工したもので、魔法で熱することでより美味しくいただける。湯気の立つ肉を何度も落としそうになりながらも、口の周りを黒い脂で汚した。外套で口元を拭いながら歩いていると、茂みに人の気配があった。
無視して行こうかと思ったが、突然男が立ち上がった。獣の顔を持つ獣人だった。黒虎の獣人。生まれ持った能力によっては、容姿や身体的特徴に異変が生じることがある。獣人は戦闘用の能力を持っていることが見た目で分かりやすく、戦士などの戦闘職に就いていることが比較的多かった。
「おい、ここから先は危険だ、すぐに立ち去れ!」
獣人の声が震えていた。見ると足が震えている。メトは食べ終わったばかりの肉の容器を懐に仕舞いながら、首を傾げた。
「……もしかして“魔遣りの火”の新人?」
「ああそうだ! この先には魔物がたくさんいるんだ! 死ぬぞ!」
「知ってる。私も魔物退治が専門だからさ……。それより、シャキアさん見なかった?」
獣人は怯んだ。分かりやすく一歩後ずさる。
「シャキア副長を知っているのか……?」
「ひえー、あの人、副長になってるんだ。まだギルドに入って三年かそこらだろうに……。で、見たの?」
「あ、ああ。この先に向かった……。魔物と戦うつもりだろう……」
獣人は震える指で道を示した。手が毛で覆われておりもふもふだった。ちょっと触りたくなる衝動に駆られる。
「そっかあ。教えてくれてありがとう。危険だからさっさと逃げたほうがいいよ。じゃあね」
「ま、待ってくれ!」
「なに?」
獣人は意味もなく左右を見渡してから、
「隊長は怒っていなかったか? 魔物を前に逃げ出した俺たちを……」
「知らないよ。会ってないし。自分で確かめたら?」
「で、できるわけがない! せっかく隊長と副長が魔物を隘路に誘い込んでくれたのに、お、俺たちが臆したから、敵を叩き損ねた。眼前に迫った魔物にびびって逃げ出した! そんな俺たちをかばって、隊長は負傷し、魔物の大群を制御できなくなったんだ……! 俺たちのせいで……!」
メトはもう聞きたくないと彼の目の前で指を振り、
「ふうん。私相手に懺悔しても無意味だと思うけど、まあ聞くだけ聞いてあげたよ。すっきりした? 今度こそじゃあね。私も暇じゃないので」
「う、お、俺も行く……! 加勢する」
声が震えていた。メトは値踏みするように彼の全身を確認する。体格は無比は良い。メトの人生で最も大きな体を持つ獣人だった。しかし恰好は戦士には見えない。武器の類を携行していないし、鎧も気休め程度の革製だ。
「あなた新人だよね? 戦えるの?」
「く、訓練は一年間続けてきた。実戦は初めてだが……」
「武器は持っていないようだけれど」
獣人は手を差し出し、小さな火球を生み出した。
「魔法を得意としている。た、戦えるはずだ」
「ふうん。まあ好きにすれば」
獣人の目が不安で揺れていた。
「いいのか? 一緒に行っても」
「邪魔をしなければどうでもいいよ。ただし、私はあなたの優しい隊長さん副長さんとは違って、あなたを庇うことはない。あなたの実力によっては援護してもいいけどね。せいぜい安全な距離を保ってなさい」
冷たい言葉に、むしろ獣人は奮起したようだった。
「あ、ああ……。恩に着る」
「ところで、他の三人の新人はどうしたの。殺されたの?」
「分からない……。自分が逃げるのに必死だった」
「ふうん。そっかそっか。ふうん」
メトは何度も頷いた。
「私はメト。あなたは?」
「ガイだ。自然魔法を得意としている」
「草原に住んでそうな顔だもんねー。あはは」
メトの笑い声にガイはむすっとした。
「……メトさん、あなたの戦闘スタイルは? まさかそのちゃっちい直刀で戦うつもりか」
「戦闘スタイル? そうだな、強いて言えば、柔らかいところを刺す」
腕を抉るように突き出す。ガイはきょとんとしていた。
「……? それは、どういう……」
「まあ、前衛は任せてよ。ガイは危なくなったら逃げればいいから。得意でしょ?」
「うっ、き、きみは性悪だな!」
不覚にもちょっと傷ついたメトは苦笑しつつ、先へ進んだ。ガイが慌ててついてくる。
「ところで、村人や隊長から、魔物の特徴については聞いているか? 対策は考えているのか?」
「え? 特徴?」
そういえばどんな魔物なのか聞いていなかった。しかしメトは、
「大丈夫。ばっちりだよ」
と答えておいた。どうせ対面したら全て分かるだろう。
二人は山林の入り口に差し掛かった。朝の陽ざしが柔らかく、魔物の襲来が近づいているとは思えない柔らかな風が吹いていた。注意して空気を嗅ぐと、魔物の匂いがごく微かにした。魔物は確かにいるようだがまだ距離はあるようだった。少し油断していたが、
《気づかれたぞ。急速に近づいてくる》
声がした。メトは抜刀した。ガイがぎょっとする。
「ど、どうした!?」
「やってくる」
《一塊になって》
「一塊になって」
メトの言葉にガイは一瞬立ち尽くした。メトが後方に目配せすると、彼は律儀にその地点まで下がって、魔法の準備をした。
しかしそれをあてにする気は毛頭なかった。一人でやる。
すぐに木々の隙間から猛然とこちらに迫ってくる黒い塊が見えた。巨大な幹に突撃したように思われたが塊が分断され速度を落とすことなく進み、また一つの塊に戻る。
それは無数の魔物の群れだった。群れが一つの生命体のように振る舞い、巨大な魔物となっている。一つ一つの魔物の形状は黒い蛇のようだったが、塊となると巨大な人の顔のように見えた。
「うっ、うわああ!」
後方でガイが叫びながら炎魔法を撃ちまくる。全く威力に欠けており、魔物の勢いを削ぐことができていなかった。メトは低く体勢を取って直刀を構えた。
《親玉がいる。腹を狙え》
「はいはい」
眼前に蛇の群れが迫ってもメトは慌てなかった。目を見開き最後まで敵を見極めようとする。そして一気に踏み込んだ。
ガイには黒い蛇の群れに闇雲に突っ込んだように見えたかもしれない。彼のか細い悲鳴が聞こえた。しかしメトの直刀は敵の中枢を捉えていた。黒い蛇に埋もれて見えなかった、金色の鱗の巨大な蛇……。群れの親分とでも言うべき魔物の腹を、メトの直刀は切り裂いていた。
金色の巨大な蛇は身をよじり大きく跳ねた。周囲を取り巻いていた無数の黒い蛇が一体感を失い弾け飛び、そのおぞましくも美しい金色の躰をあらわにした。メトの躰には黒い蛇が何匹か絡みついていたが、頭を握り潰して払った。
金色の蛇が鎌首をもたげて舌をちろちろと出した。一瞬狙いをメトに絞りかけたが、後ろで腰を抜かしているガイのほうに目をやった。
これだ。魔物の中には、人間を狩ることに慣れている個体がいる。人間が仲間を庇う生き物だと認識しているなら、直接脅威となるメトを排除する為に、あえて足手纏いのガイのほうを狙ってもおかしくはない。
もし、メトが赤の他人の命なんてどうでもいいと考えられる人間だったなら、むしろ魔物の思惑を逆手に取れる。しかしそうではなかったとしたら……。
メト自身、自分の非情さをはかりかねていた。いざというとき、自分の目的を最優先に動けるのか、そのときが来るまで分からなかった。
答えは今、明らかとなった。黒い蛇がガイのほうへ一斉に襲い掛かった。ガイは厳めしい獣面を悲痛に歪ませ、頭を抱えてうずくまった。もし、メトが彼を持ち上げて避難させなかったら、蛇の持つ毒で即死していただろう。
「あ、あれ……?」
ガイが涙と鼻水を流しながら唖然としている。メトは自分よりも一回り大きい獣人を軽々と抱えて、来た道を疾走していた。
「め、メトさん!?」
「落ち着いたら自分で走って逃げて。私はあいつを始末する」
「う、あ、ああ……、くそ……!」
ガイがもがき始めたのでメトは彼を離した。ガイはよろよろと自分の足でなんとか立つと、膝をそのもふもふの拳で殴りつけ、キッと振り向いた。
「メトさん! 俺のことをどうして庇ったんだ! さっき庇わないと言っていたじゃないか!」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った! 俺はいくじなしだ! 見捨てられて当然の男だ!」
メトは魔物の群れがいよいよ近づいてくるのを見ていた。態勢を整えた金色の大蛇が、再び黒い無数の蛇に覆われて、人の顔のような塊となって迫ってくる。
「その問答、後じゃ駄目?」
「俺が思うに、きみもまだ、戦闘経験がほとんどないんじゃないか? だから言動がいまいち一致していない」
「余計なお世話なんだけど……」
妙なところで鋭いガイに、メトは少し怯んだ。ガイは魔法の構えを見せる。
「俺も戦うんだ! もう逃げない! だからきみはもう俺を庇わなくていい! 自己責任ってやつだ! 俺ときみは、仲間ってわけじゃないんだ、気にすることはない!」
そう言って放ったガイの火炎魔法は、先ほどより威力も精度も増していた。徐々に実力を発揮できるようになってきているのかもしれない。しかし魔物の群れの勢いを相殺するには不十分だった。取り巻きの黒い蛇が何匹か弾け飛んだだけで、脅威は依然迫っている。
メトを腕を組んだ。正面から戦って、自分が負けるとは全く思わなかった。しかし何の策も講じなければ、ガイは黒い蛇に噛みつかれ、猛毒で死ぬだろう。黒い蛇の牙に毒があることは、さっき自分が噛まれてみて確かめていた。
ガイの向こう見ずな行いに、不思議と苛立ちは感じなかった。足手纏いだともあまり思わなかった。むしろこれは自分に対する良い“課題”だと思えた。勝つだけならなんとでもなる。しかし条件付きの勝利が求められるとなると、手順や戦術を最適化しなければならない。
頭を使う。必要なのはその訓練だった。
「ガイ。敢えて言うけど、あなたはもう私の仲間だから」
「え?」
「そういうことにした。そっちのほうが面白い。だからさ、死なないでよ」
メトは跳躍した。それは超人的な飛距離だった。魔物の群れの頭上で一瞬静止したかのような、綺麗な放物線を描いた。
メトは目配せした。ガイは呆然として彼女を見上げていたが、意を決したように火炎魔法の術式を編んだ。これまでで最大の火球が彼の手の中に生まれる。
魔物の群れの陣形が乱れていた。当然だが、明らかに魔物はガイよりもメトのほうに警戒を向けていた。魔物の群れが頭上のメトに注意を向けたおかげで“顔”が崩れ、金色の大蛇の鱗がガイの方向から見て露になっていた。
火炎魔法が草木を焦がしながら突き進む。メトが魔物の群れを飛び越して反対側に着地すると同時に、火球が金色の大蛇の鱗に直撃し、大きな衝撃が走った。
金色の大蛇が痛みと熱さで身悶えする間、黒い蛇の統率が乱れ、バラバラに散った。仕留めるには火球の威力が不十分だ。いずれ大蛇は動揺から回復するだろうが、それまでに片付ける。
《私を上手く使え。もっと大きく、鋭くなれるぞ》
「分かってる。さっきは親玉を目視してから武器をぶつけるまでの猶予が無さ過ぎただけ」
メトは駆けた。親玉に忠実な黒い蛇が一斉に襲い掛かってきたが、捌くまでもなく体当たりでいなした。何匹か体に噛みついてきたが無視する。
直刀の形状が変化する――平坦で鋭利な曲刀。それは目の前の蛇を切断し屠るのに最も適した形状となっていた。金属並みの硬度を持つ鱗に、その刃はあまりに易々と刺さった。腹の肉がべろりと捲れ、粘り気のある血が地面に零れ落ちた。
血溜まりに足を突っ込む。更に踏み込んで、刀を突き入れる。形状が刻一刻と変化する――骨を断つ肉厚の刃――血管をずたずたに引き裂く棘のある棍棒――鱗を削ぎ落とす五枚刃の刀。瞬間的に最適な形状へと変化し大蛇を徹底的に破壊する。大蛇は反撃しようと身をくねらせたがメトは捕まらなかった。
頬に黒い蛇が嚙みついた。大蛇の殺戮に夢中だったメトは、蛇を振り払う代わりにその頭を噛み砕いた。頭蓋の一部を地面に吐き捨てたメトはその血と毒の味で高揚するのが分かった。
《冷静になれ》
「分かってる。そろそろ仕上げだね」
大蛇の死に物狂いの反撃。その巨大な口から牙を剥きだして突っ込んでくる。正面から迎え撃とうとしたが、ガイの火球が飛んできて蛇の横っ面を焦がした。ほんの一瞬大蛇は怯み、メトはふっと笑んだ。
「ガイ、よく見てなよ。あなたにとっては最初の手柄だろ?」
焦げた蛇の頬をメトの刀が切り裂いた。火球で生じた火傷が広がり、蛇の黒い眼球が一瞬で白濁した。メトの刀で増幅された炎の熱が、蛇の頭部全体に伝播し、メトが納刀すると同時に爆発四散した。
頭部を失った大蛇はその後ものたうち回った。しかし胴体もずたずたに引き裂かれており、もはや決着は目の前だった。メトは自分に絡みついてくる黒い蛇の頭部を的確に握り潰しながら距離を取った。
大蛇にまとわりつく黒い蛇の大群は、大将の死を前に完全に混乱し、天を仰ぐように頭を持ち上げた。大蛇がもんどりうち、地面を打擲するたび、頭を下げたり尾を振ったり、奇妙な連動が見られた。
それはさながら大蛇の死を嘆き哀悼するダンスだった。大蛇の纏う熱にあてられて、取り巻きの黒い蛇が一匹、また一匹と息絶えていく。
メトは近くの岩場に腰かけた。しばらく大蛇の最期の様を眺めていた。微動だにしなくなるまで数十分を要した。一帯には魔物の肉を焦がす独特の匂いが漂い、メトの胃が激しく音を鳴らしていた。ガイの魔法の火力は強過ぎず弱過ぎず、彼は魔法使いというより料理人に向いているな。そんなことを考えていた。