ジヴィラムの貴女(後編)
「……やはり、お知り合いでしたのね」
ルタテトラは穏やかな声で言った。メトは動揺のあと、なんとか着席したが、出された茶や菓子に全く手が付ける気になれなかった。
目の前の席に腰かけているのは、ゼロ。研究所で会って以来だった。メトと同い年のはずだが大人びていて、成人のように見える。研究所で寡黙だった彼女は今も無言だった。ガイが落ち着きなく菓子を食べようとしたが、手元が狂って落としてしまった。あたふたと謝る彼の姿を見てメトは僅かに冷静さを取り戻した。
「……ルタテトラさん。聞きたいことが三つほどある。なぜあなたは命を狙われているのか。あなたの命を狙っているのは誰なのか。そして、どうしてゼロがこの屋敷にいるのか」
「ゼロといいますのね、彼女は。自分の名前も言えない子だったので、困り果てていたんですの」
ルタテトラはゼロのほうを見る。その眼差しは慈愛に満ちていた。ゼロのほうは無反応だったが、二人の間には絆のようなものが生まれているとメトには感じられた。
「……まずはわたくしどもがゼロを保護するに至った経緯についてお話しましょう。ある日突然、彼女は天から降ってきたのです」
「え?」
メトとガイは顔を見合わせた。
「……それ、ふざけてる?」
「いえ。全く。わたくし以外にも目撃者が複数おりましたわ。わたくしが花を愛でるために庭に出ているとき、突然降ってきたのです。しかし地面に激突することなく、ふわりと着地して、彼女は何でもないように敷地から出て行こうとしましたわ。わたくしは一瞬そのまま行かせてしまいそうになりましたが、慌てて呼び止めました。別に文句を言うためではなく、純粋に、好奇心のためですわ」
ゼロは他人の能力を抽出し、誰かに貸し与えることができる。その能力が借りた人間に馴染むかはその人次第だが、ゼロ本人は抽出した能力をかなり使いこなせるはずだ。空を飛ぶ魔法はかなり高度で、その才能も希少だが、ゼロならば難なく空を飛んでもおかしくはない。しかし突然降ってくるとは。
「わたくしは尋ねましたの。お名前は、年齢は、どこから来たのか、どうやって来たのか、そのお召し物はいったいどこであつらえたものかしら、なんてふうに。けれど彼女は何も答えてはくれませんでしたわ。もっとも、わたくしが呼び止めたら素直に従ったので、全く無視しているわけではなさそうでした」
「ゼロは昔から寡黙だったよ。でも、喋れないわけじゃない」
ルタテトラは頷いた。
「ええ。存じておりますわ。けれどわたくしは、生まれつきものが言えない方なんだと思い込み、色々とお世話を焼きたくなってしまったのです。お節介にも程がありますけれど、結果的にはそれが彼女にとっても正解でした。間もなく、館に来訪者がいました。彼らはどこぞの傭兵団のようでした」
「傭兵……」
「銀髪の女性を匿ってはいないか、館の中を検めさせろ。とおっしゃるので、すぐにゼロのことを探しているのだと思いましたわ。幸い、我が館には優秀な衛兵が多数おりますので、傭兵団を寄せ付けることはありませんでした。しかし、翌日には商会や政治家、果ては聖教会員のほうから、匿っている女性を差し出せと圧力をかけられましたの」
「ルタテトラさんはそれを突っぱねることができたんだね」
「いえ……。残念ながら、わたくしはこの都市を治める聖公家の当主ではなく、継承権もないただの小娘に過ぎないのです。匿うにも限界がありました。それに、わたくしを含め、この館の人間はゼロがどんな素性なのかも把握しておりませんでした。果たして庇う意味があるのかと疑問に思う者もいたのです」
「なるほどね……。確かに、ゼロは何も話してくれないわけだしね」
「ええ……。しかし、またとある事件が起きたのです。我が館の衛兵が突然苦しみ出し、倒れてしまうことがありました」
「それは……」
「実を言うと、前々から衛兵が突然苦しみ出し、絶命する事案が頻発しておりました。治す手段は、皆無。このときもそれが起きたのだと、皆思いました。しかし突然ゼロが苦しんでいる衛兵に近づき、手をかざすと、ぴたりと症状が止み、その後快方に向かったのです」
「ゼロが正体不明の病気を治したの? あ、いや、もしかして」
メトの言葉にルタテトラは深く頷いた。
「……はい。わたくしは当時知りませんでしたが、衛兵を苦しめていたのはフォーケイナの棺の副作用でした。わたくしが知らない間に、ジヴィラムには軍備増強の一環としてフォーケイナの棺が蔓延していたようです。過分な能力が、衛兵の器としての強度を超えてしまったが為に、命が削られてしまったのでしょう。ゼロがしたのは、フォーケイナの棺によって与えられた能力の没収。わたくしたちはゼロの類稀なる力を目の当たりにしました」
ルタテトラは辛そうに続ける。
「そこでわたくしはフォーケイナの棺が万能なるものではないことに気づきました。しかしそれが具体的にどんなものなのか、まだ分かってはおりませんでした。そもそもこの丸薬の形をしたものは、秘薬、などと簡単に呼ばれており、それを服用する者にとっても謎に満ちておりました。わたくしはこの秘薬の正体を詳しく突き止めるように指示を下しました。フォーケイナの棺という名称を知ったのも、それがきっかけです」
「よく突き止められたね。いや、それだけこれが蔓延しているというわけか」
「ええ。じきにフォーケイナの棺は世界的に流通するでしょう。わたくしはゼロがフォーケイナの棺と深く関わっていることを確信していました。しかしゼロが何も話さない以上、直接聞き出すことはできない。なにせ自分の名前さえ口に出さないのですから。しかしあるとき、彼女は突然喋ったのです」
「……ゼロは何を言ったの?」
「フドに行きたい。助けたい、と」
「フドに……?」
メトはゼロを見た。そのとき、ゼロがまともに視線を合わせてきた。
ゼロは昔から感受性の高い少女だった。他人に興味がないように見えて、実際は他人の感情の機微に敏感だった。
ゼロは気づいたのだ。研究所で一緒だったメトが、フドで生死の境を彷徨っていることに。
「わたくしは、フドに行けば、ゼロに関する謎が解けると思いました。しかしゼロをこの館から出すわけにはいかない。いまや聖公家の中でも、ゼロを匿うのはわたくしとその部下だけになりつつありました。何者かがあらゆる方面から圧力と懐柔を続け、徐々に危険が迫っていることは明白でした。このままだとゼロを差し出さなくてはならなくなる。わたくしは賭けに出ることにしました」
「それで、ルタテトラさんは手掛かりを求めてフドにいたんだね。でも、どうして独りだったの」
「七人の供がいました。しかし、その内五人が、既に買収済みでした」
「えっ……」
「優秀で忠実な部下のおかげで、わたくしだけは、フドに到着することができました。しかしこのときわたくしは気づいたのです。わたくしが亡き者となれば、ゼロを守る者はいなくなる。わたくしの意思を汲んだ部下がゼロを守ろうとしても、いずれその立場を奪われ、ゼロはどこかへ連れていかれるでしょう」
「それは、そうかもしれないね。わざわざルタテトラさん自らフドに出向く必要はなかったんじゃないかな」
「ええ……。わたくしはまだどこか危機感が薄かったのかもしれません。ゼロの身が危ないとは思っていても、まさかわたくし自身の命が狙われるとは思っていませんでしたわ」
「それで、フドで私たちに助力を求めた、と」
「何も信用できない状況でした。フドの騎士隊はその誇り高さで有名でしたが、護衛任務となればどうしても金銭の問題が出てきますし、それを抜きにしても、敵だってわたくしが騎士隊を頼ることは想定内。となれば騎士隊内部に協力者がいてもおかしくはありませんわよね。できるだけ腕が立ち、敵の搦め手が及ばないような立場の人間――となれば、フドに彗星のように現れた英雄様、ガイ様しか頼れないと思ったのです」
ルタテトラはメトを見て微笑んだ。
「そして、ゼロが言っていた『助けたい』相手は、メト様、あなたのことでしたのね。あなたをここに招くことができたのは本当に喜ばしいことですわ」
「そうだね……。確かに、ルタテトラさんはフドに行って、手掛かりを持って帰ってこられたわけだ。でも、この後どうするつもりなの? いつまでもゼロをここに置いておくわけにはいかないでしょう。そもそもフォーケイナの棺を巡って、事を構えるつもりが本当にあるのか? 今、誰と敵対しているのかも分かっていないだろうに」
「ゼロの意思を確認したい」
ルタテトラの顔は真摯そのものだった。メトははっとした。
「ただそれだけなのです。彼女がこれからどうしたいか……。その考えを尊重するのが、最も理に適っている気がする。わたくしにはそう見えます」
「……ルタテトラさん、あなたは鋭いね。確かに、そうだ」
メトは腰の直刀を外し、卓上に置いた。ゼロの視線が博士に注がれた。その瞳孔が、僅かに広がった気がした。これが博士であることに気づいたのだろう。
「ゼロ。あなたが望むなら、対話できる。わたしにはあなたの考えを全て理解することができないけれど、こいつならできるかも」
メトの言葉に、ゼロはやはり無表情だったが、逡巡するように手を出したり引っ込めたりした。そしてやがてその柄に触れた。
たかだか数十秒のやり取りの後、ゼロは柄から手を離した。メトは博士を再び自らの腰にやる。
(どうだった? 久しぶりにゼロと話した気分は)
《……死にたいそうだ》
(は? え?)
《死ぬ為に、輸送中に飛び降りたり、食事を摂らなかったりしているらしい。親切にしてくれているルタテトラには感謝しているが、迷惑だと。さっさと連中に引き渡してくれて構わない、と言っている》
(……嘘ついてないよね、博士)
《嘘をついているとすれば、ゼロ、奴のほうだろう》
博士は嘲笑するように言った。メトはゼロをじっと見つめた。本当に死にたいなら方法なんていくらでもあるはずだ。高い所から飛び降りて、咄嗟に安全に着地してしまったのは、直前に死ぬのが怖くなったからではなく、何としてでも組織から逃げ出して自由になりたかったからじゃないのか。
死にたいなんて言うのは、ルタテトラに迷惑がかかって、申し訳ないと思っているからじゃないのか。メトは苛立っていた――ゼロが助けを求めないことに。その優しさに。目の前にいる同じ境遇の少女にすら遠慮している彼女に。
「ルタテトラさん。ゼロは私が連れて行く」
メトは言った。ルタテトラは大して驚いた様子もなかった。
「……追手がかかりますわよ」
「と言っても、ルタテトラさんも同じことを考えているんでしょう。残念だけど、ルタテトラさんの館にいても、いずれは連れていかれるし、ルタテトラさん自身の立場も危うくなる」
「ええ。悔しいけれど、認めざるを得ませんわね」
「ルタテトラさんはよくやってくれた。ゼロを私に引き渡したことを後悔はさせないよ」
「ええ……、ガイ様とメト様以上の適任はいないと確信しておりますわ。あとは、ゼロ自身がどう考えているか、ですが……」
突然、ゼロが立ち上がった。そしてすたすたと歩いていく。メトとガイは顔を見合わせた。そして慌てて立ち上がる。
「追ってみよう」
ゼロは館の庭に出た。そして静かに手招きする。メトは彼女の前に立った。ゼロは静かに拳を前に出した。どうやら格闘戦を所望らしい。
「いったいどういう……」
ルタテトラが困惑している。メトは博士をガイのほうへ投げた。ガイは慌てた様子で受け取った。
「たぶん、こう言いたいんじゃないかな。『わたしに負けるくらいの実力なら、一緒に旅をする資格なし』って」
魔物退治の旅に、ゼロを取り戻そうとする勢力からの刺客が襲ってくることになる。危険は当然多くなるだろう。
メトは貴族服の袖をまくった。ゼロは上品な婦人服の胸元を広げて、腕を左右に動かして可動域を確認した。二人は静かに相対した。
「師匠、合図して」
「ほ、本当にやるのか? 彼女華奢に見えるし、メトちゃん、手加減はしてあげるんだろ?」
「つまんないこと言ってないで、はやく」
ガイは勘違いをしている。ゼロは華奢だが弱くない。いったいどれだけ多くの人間の能力を抽出してきたのか……。その全てを取り込んでいるわけではないが、ゼロは熟知している。この世界に存在する数多の種類の能力の中で、どれが最も実戦的で、強力かを。彼女は選び取っているはずだ。最強の能力の組み合わせを。
「――はじめ!」
ガイの合図で二人は突進し合った。メトの突き出した拳をゼロは受け止めたが、膂力に関しては雲泥の差だった。ゼロの躰が簡単に浮く。あまりの非力さにメトは驚いたが油断は全くしなかった。しなやかなゼロの肢体は流れを失っていなかった。体が回転し蹴りが飛んでくる。肘で難なく防御したが遅れてきた衝撃が凄まじかった。危うく膝を着きそうになる。
いったい何をされたのか分からなかった。魔法だろうか? しかしそんな気配はなかった。ゼロは静かに立つ。メトは蹴られた肘をさすりながら、ゼロに接近した。
今度はゼロから仕掛けてきた。ふわりと跳躍して膝蹴り。もちろんそんなものが直撃するわけもないが、防御するのが少し怖かった。回避に徹する。
空中で彼女は体勢を変え、折りたたんでいた足を伸ばした。彼女の足先がメトの腕にかすったが、たったそれだけなのに衝撃があり、メトは尻餅をついてしまった。
「め、メトちゃん!?」
ガイが驚愕の声を上げる。メトはすぐに立ち上がった。ゼロは何でもないように澄ました顔をしている。メトはにやりと笑った。
「研究所でも、ゼロは私のことを手玉に取ってくれたよね。いいよ、私も強くなった。全力でいくからね」
ゼロは頷いた。メトは一気に踏み込んだ。全力の蹴りを繰り出す。威力はまさに殺人的だった。ゼロは片足を上げて回避しようとしたが避け切れず、ゼロの体が面白いように吹き飛んだ。しかし空中で勢いが死に、最終的にはふわりと着地した。メトは確信した。ゼロの周囲で不思議な力が働いている。
「……ゼロ。分かったよ、あなたが今使っている能力の正体」
メトは話しかけた。ゼロはゆっくりと近づいてくる。
「格闘戦を持ち掛けてきたのも理解した。たぶん私の為だよね? 私が必要以上に傷つかないための配慮」
ゼロは何も言わなかった。縫い付けられているかのように口が開かない。メトはくすりと笑った。
「でもさ、私も強くなった。見くびられちゃ困る。今からあなたは苦しい思いをすることになるけど、覚悟は良い?」
ゼロは全く臆さなかった。突進してくる。
メトは正面から挑んだ。ゼロの蹴りが鳩尾に入る。
これまでで一番の衝撃があった。ゼロの目が僅かに見開いた。しかしメトはこの衝撃を予期していた。そのまま吹き飛ぶこともなく、ゼロの肩に手をかける。そして抱き着くようにして関節を軽く極めた。
「痛ぇ~……! し、死ぬかと思った。我ながら強烈」
ゼロは抵抗しなかった。平然としているメトに、少し驚いているようだった。メトは関節技を極めても声一つ漏らさないゼロに呆れつつ、彼女を解放した。
「……ゼロ。あなたは、自分が受けた衝撃を吸収、保存して、相手に返すワザを使ったね。魔法ともまた違う……。誰かの能力なのかな?」
ゼロは僅かに頷いた。メトの腹のあたりを見ている。心配しているのかもしれない。
「私は頑丈だから大丈夫。もう、ゼロに負けて泣きべそかいてた私はいないんだよ。強くなった。理不尽なまでに。だから私にあなたを守らせて欲しい……。どうかな?」
ゼロは全く動かなくなった。メトは辛抱強く彼女の返事を待った。やがて彼女は口を動かした。
「よろしく……、メトちゃん」
「お! め、メトちゃんって呼んだ? え?」
メトは大層驚いた。そもそも研究所時代は、ゼロはメトの名前を知らなかったので、当然ながらメトちゃん呼びも初めてだった。ゼロはちらりとガイを見る。ガイがメトちゃん呼びしていたので、それに倣ったのだろうか。
「あ、あんまりメトちゃん呼びは歓迎しないけど、まあいいや。どうやってゼロが連中から逃げ出してきたのかとか、フォーケイナはどうしたとか、追々聞かせてね。これからよろしく。ガイとかいう怖い顔の獣人もついてくるけど、悪い人じゃないから安心してね」
「よ、よろしく、ゼロさん」
メトとガイを見て、ゼロは静かに頷いた。一部始終を見守っていたルタテトラが三人の中に割って入る。
「話はまとまったようですわね。是非ゼロやメト様のお話を聞かせていただきたいところですけれど、あまりのんびりもしていられないでしょう。ここは外から監視されておりますから、館から出た瞬間から、ゼロを狙う刺客に襲われる可能性があります。これから御三方はどこへ?」
「私はデイトラム聖王国の聖都へ向かおうと思っていたけれど……。それはフォーケイナの行方が知りたくて、フォーケイナの棺を売っている商人の足跡を追ってのことなんだ。もしゼロがフォーケイナの居場所を知っているのなら、そこへ向かいたい」
それを聞いたゼロは、絞り出すように言った。
「聖都に……、フォーケイナくんはいる……」
メトとガイは顔を見合わせた。期せずして最初から目的地は決まっていたわけだ。ルタテトラはぱんと手を叩いた。
「よく分かりませんけれど、目的地は定まったようですわね。もし御入用のものがあればなんでもおっしゃってくださいまし。護衛の報酬金も渡しますからね」
メトはルタテトラの厚意に大いに甘えることにした。三頭の馬に、ゼロとガイ用の食料品、衣料、変装用の道具、それからカネをたんまりと貰った。夜になって三人は裏門から静かに館を出た。ルタテトラの計らいで、本来夜間に出入りができないジヴィラムの都の門を潜り抜けることができた。とはいえ、ゼロを追う刺客は問題なくメトたちの動きを察知しているだろう。気休め程度の効果しかないはずだ。
三人は馬を駆り、聖都へと向かった。ルジス山道を越え、デイトラム聖王国の玄関口となる港街ゲイドに辿り着けば、聖都まではもうすぐだった。刺客の気配はない。三人はしばらく軽快で快適な旅を楽しむことができた。




