奴隷(後編)
ガイはすぐに異変に気付いた。メトは少女らしからぬ隙のない佇まいが特徴的だが、今はそれがなくなった。足取りが怪しくなり、誰かに押されたら容易に倒れ込んでしまうような危うさがあるように思える。それでいてか弱さとは無縁であり、粗野な印象がある。
メトは抜き身の刀を持っていた。それを瓦礫の下に突き入れる。鮮血が噴き出して、ガイは驚いた。
瓦礫の下から現れたのは中年の男だった。紺色の服を自らの血で汚している。肩に食い込んでいる刀を信じられないと言わんばかりの目で見ている。
「な、なぜオレの幻術が効かない……! 人間なのか?」
グゥラは涙を流して言った。メトはそれには返事をせず、ぎこちない動作で刀を振りかぶると、斬首してしまった。地面に転がった男の生首を見て、ガイは動揺した。
死体にも動揺したが、メトが人を殺したことに驚愕していた。ここの連中に捕まりそうになったときも最低限の暴力で済ませたメトが、いとも容易くそれを行うとは。
ネイグが拍手をする。
「そいつには色々と聞きたいことがあったが……。よくやった、メト。これでよく分からん幻術に怯えることはなくなった。心置きなくこんな場所からオサラバできるぜ」
ガイはしかし全く緊張を解くことができなかった。メトが静かに納刀し、グゥラの死体を見下ろしているのを見ていると、胸騒ぎがした。そこにいる少女と穏やかに会話をする自分が想像できなかった。殺人直後の空気に戦慄しているからではない。先ほどまで一緒にいた少女とは異質の空気が感じられる。見えない大きな壁が突如として二人の間に現れた感覚。
「きみは、誰だ……?」
ガイは静かに問う。メトは緩慢な動作で振り返った。ガイを見る目は無機質、かつ殺意で濁っていた。
「メトだよ。知ってるでしょ?」
声音は一緒。しかし心をヤスリで削ってくるかのようなざらつく感覚が襲ってきて、ガイは一歩退いた。
「――誰なんだお前は!」
ガイの叫びに、ネイグは唖然としていた。それからゆっくりと距離を取る。
「なんだ、グゥラに体を乗っ取られたってのか?」
「かもしれない。とにかく、元のメトちゃんではない……」
ガイは確信していた。静かにメトは立っている。じっとガイを見つめているがそこに親愛の情はない。失って初めて、メトは冷静な中でも様々な感情を発露する年頃の少女だったのだと実感する。目の前の“誰か”からは何も感じない。まるで精巧に造られた人形のようだった。
「参ったな」
メトは呟いた。そしてこれまで見たこともないような仕草で髪を乱暴に後ろへまとめ、歯茎を出して笑った。
「一瞬で見破られるとは。しばらくしてから別れようと思ったが、平和的にはいかんか」
「誰だお前は。グゥラか?」
「ただの幻術遣いが、自らの精神を他者に飛ばして寄生するなんてことできないだろう。グゥラとやらは死んだよ。奴隷どもは解放だ。良かったな」
メトは笑った。肩を揺らして笑うその様子はまさに別人だった。ネイグは数歩下がる。
「……よく分からねえが、とにかく全て終わったんだな? カシラどもが目を覚ます前にさっさと行ってくるぜ。いいよな?」
メトは頷いた。
「ああ。行ってくるといい」
ネイグは不気味なものを見る目を向けた後、走り去った。ガイは大きく息を吐き、目の前の人物にどう対処するか考えた。しかし答えは出なかった。
「メトちゃんをどこにやった」
「ここにいるじゃないか」
「ふざけるな」
「そう怒るなよ。その獣の顔で凄まれると、なかなか迫力があるな」
「お前は誰だ。メトちゃんを返せ」
「それは無理だ」
「なんだと」
「もう私が殺したからな。彼女の精神はもう戻ってこない。復活されると面倒なのでね。良心は傷んだが容赦なくやらせてもらった」
「……お前は……。何を言ってる……」
ガイは泣きそうになりながらも言葉を絞り出した。メトはふっふっふと笑った。
「大の大人が、泣くなよ。魔物退治を続けていたら、仲間の死なんて茶飯事だろうに」
「誰なんだお前は……! メトちゃんを返せ……!」
「同じ質問を投げかけれても困るな。無理だと言ったはずだが」
「返せ!」
ガイは魔法を構えた。メトは全く身構えなかった。小さくため息をつく。
「戦う気か? メトの意思を尊重して、お前を殺すつもりはなかったんだがな。まあ、この躰の制御の練習がてら、相手してやってもいい」
ガイは火球を放った。メトは素早く移動し、避けようとしたが、足がもつれて転んでしまった。すぐに腕を地面に叩きつけるようにして跳躍し、ガイの攻撃から逃れたが、メトは笑っていた。
「参ったな、人間だった頃も運動が得意だったわけではないが、他人の躰を操るのがこんなにも難しいとは。じきに慣れるとは思うが……。こうなれば魔法で戦うほうがマシか」
メトはゆっくりと立ち上がると、魔法の準備を始めた。ガイは荒く息を吐きつつ魔法を構えた。そうしながらも目の前の人物の言動に違和感を抱いていた。
メトは自らのことを詳しく話さなかったが、一度だけ研究所で肉体を改造されたことを話してくれた。フォーケイナの棺について説明してくれたことのついでだったが、むしろガイはメト自身のことに興味があった。だからその後もメトのことについて考えることがあった。
その度に湧いてくるのは怒り。いったいどこの誰がこの心優しい少女に人体実験を施し、魔物しか食べられない体にしてしまったのか。きっと人間に慈悲の心なんて向けない狂った研究者たちなんだろうと思っていたが、目の前の人物にはそれに近しいものを感じる。
何の根拠もない憶測でしかなかったが、ガイは獣のように唸った。
「お前、研究所の人間か……? メトちゃんを改造した、例の……」
メトは驚きのあまり構えていた腕を下ろした。きょとんとしている。
「……驚いたな。愚鈍な男だと思っていたが。確かにちらりと研究所のことをこのバカは話していたが」
「やはり、そうなんだな?」
「博士、とメトには呼ばれていた。ワケあって、彼女に匿われていたんだが、まさか肉体を乗っ取る機会がこんなに早くやってくるとは思わなくて欣喜雀躍の思いだよ。この肉体は良い……。頑丈だし、毒に強いし、魔法にも強い。ツラもそこそこ良いから鏡を前にする度に落ち込む必要もないだろうしな」
「メトちゃんがお前を匿っていただと?」
「奇妙な女だよ。恨んでいるのならさっさと私を殺せばいいものを。私が摩耗して滅びるまで、私を使って魔物を殺し続けると言っていた。理解できない」
「お前を使う……? それは、どういう……」
博士は笑い、手に持っている直刀を持ち上げた。
「さすがにそこまでは分からないか。私の本体はこれなのさ。今は無防備になった彼女の脳を占領して操作している。じきに彼女の脳をもう一人の私の脳として完璧に作り替えるつもりだが、さすがにかなりの時間を要するだろうな」
ガイは形状が自在に変化するメトの武器の異質さには当然気づいていたが、その正体が宿敵である博士だとは全く思っていなかった。
「驚いたようだな。まったく、メトという女の愚かさには参る。私のことを深く深く恨んでおきながら、一緒に旅をして魔物退治なんかに興じているのだからな。結果、私に隙を見せてこんなことになってしまった。彼女の愚かさに助けられた身としてはあまり言いたくはないが、理解に苦しむね」
「本当に分からないのか?」
「うん?」
「メトちゃんがお前をさっさと殺さなかった理由――本当に分からないのか?」
「ふっ、お前に分かるとでも?」
「分かるさ……。彼女は優しいんだ。彼女は機会を与えてやっているのさ。お前に、贖罪の機会を」
「……なに?」
「邪悪でどうしようもないお前にも、この世に生まれてきた意味を与えてやりたいのさ。彼女自身、生きる意味について悩んでいるからこそ、お前にもその慈悲をくれてやったんだろう」
「何を言うかと思えば……。愚の骨頂だな」
「俺には分かるさ。お前自身、彼女の優しさに困惑しているからこそ、こんな俺にちょっとでも事情を話す気になったんだろう。さっさと殺せばいいものを」
メトは酷薄な笑みを浮かべた。
「くだらない」
「メトちゃん! 聞いているか!」
ガイは叫んだ。博士は怪訝そうにガイを見た。
「……無駄だ。メトの意識は散り散りに引き裂かれた」
「いいか、メトちゃん! 俺は腐っても術師だ! 魂の扱いには慣れている! 今からきみの師匠らしいところを見せてやるからな!」
「無駄だと言っているだろう」
「意識の閉じ方を伝授する! 魔法は危険な技術であり、使用するたびに魂の汚染は避けられない! そのため、術師は魂と外界を遮断し、汚染を防ぐやり方を必ず学ぶ! 上辺だけの技術だけで魔法を嗜む者と、俺たち職業術師の一番の違いはそこなんだ! やり方はこうだ、魂の所在を確認し、檻の中に閉じ込める感覚。錠をかけて鍵穴の形状をできるだけ複雑にする。それを頭の中で出来るだけ具体的に想像するだけでいいんだ、簡単だろう!」
「メトは死んだ。もういない。どこにも存在しない。その残滓が僅かにあるのみ」
「魂とは」
ガイは博士を指差した。それから指を自分の頭に持ってくる。
「脳にあるのか? それとも心臓にあるのか? どちらも正解じゃない。魂とは全身に宿る。自分を自分たらしめているもの全てが魂だ。メトちゃんは今でも俺の目の前にいる。自分の魂を意識することができたなら、もう誰にも操られることはない」
「バカが。私は人体、それから魔法学にも精通している。魂の研究もしていた。お前が言っているのは前時代的な迷信に過ぎない。もうメトは戻ってこない――」
「俺はメトちゃんの強さを信じている。だからこそ」
ガイは魔法を構えた。博士はそれに素早く反応した。互いに魔法を発動する。
ガイの火球を、博士の土壁が防いだ。そこから砕石が弾丸のように飛んでくる。ガイは地面を転がってそれを避けたが、博士が距離を詰めていた。その怪力で首のあたりを殴られる。
一撃で意識が飛びそうだった。博士は直刀を振りかぶる。ガイは叫びながら突進した。頭から博士の腹に突っ込み、二人して転がった。もし博士がメトの肉体を完璧に制御できていたら勝負にならなかっただろう。しかし彼はまだメトになり切れていない。
それでも、戦いが長引けば勝ち目はない。ガイは心に決めていた。メトの綺麗に整った顔を間近に見ながら、ガイは微笑んだ。
「ごめん、メトちゃん。でもきみなら、きっと大丈夫だろう」
博士が反応したときには既に魔法を発動していた。もし一秒でも躊躇していたら阻止されていただろう。爆炎の魔法。至近距離で使えば自分も巻き添えになる。百も承知だった。
炸裂する閃光と火炎。メトの躰に向かって最大出力で放った爆炎で、博士は火だるまになった。高い叫び声を上げた彼は消火しようとしたが集中力が切れて、水魔法等が咄嗟に使えない。
幸い、近くに泉があった。彼は必死にそちらに向かって走ったが、すぐに足が止まった。
「メト……。お前なのか?」
博士はくぐもった声で言った。依然全身が炎に包まれて燃えている。既に頭髪や衣服は炭化して肌の上を剥がれるようにして崩れ去っていた。
「お前、まだ消えていなかったか……。そうか、今となっては、お前の魂の形がよく分かるぞ……。師匠の教えを実践したというわけか……」
博士はそれきり喋らなくなった。熱で喉が焼け膨れて塞がったのかもしれない。常人なら窒息して死ぬしかない。
博士はゆっくりと泉に歩いていった。否、その足取りは既に男性のものではなく、あの頃のメトのものに戻っているように見えた。
「メトさん……?」
ガイは呟いた。至近距離で爆炎を放ったガイも負傷していた。地面に転がり、指一本動かせそうにない。
メトは力なく泉の中に身を投じた。ガイはそれを見ていることしかできなかった。泉からいつまで経ってもメトの躰が浮上しなくても、ただそれを見ているだけ。助け出すことはできなかった。
やがてガイは静かに瞼を閉じた。果たして本当にメトは意識を取り戻せたのか、自信はなかった。博士の意識を希薄にすることができれば、あるいはメトの意識が優勢になるかと思い攻撃したが、これが正しかったかどうか。
常人なら一生治癒しないほどの火傷を負わせてしまったが、彼女に恨まれるだろうか。
いや、是非、恨まれてみたい。彼女に恨まれるということは、彼女が自分の肉体を取り戻したということだから。ガイは心の中で何度も念じた。大丈夫、きっと大丈夫。メトちゃんなら大丈夫。閉ざされゆく意識の中で、ガイは無数の足音を聞いた。それが誰のものなのか、必死に考えようとしたが、すぐそこに限界がやってきていた。全身負傷しているはずだが痛みは消えていた。このまま死んでしまうかもしれない――しかしこれが死だとするならなんと穏やかなものか。ガイの意識はここで途絶した。




