9話:元恋人と僕
幕間. 天使の居ない日
BABホテルの小さな窓から、夏の陽が差し込んでいた。
時刻は正午を過ぎたところで、天使が死んでから数時間が経った計算になる――
僕はシングルベッドに寝転んだまま、動けない。
ドアの外には清掃員のコスチュームをした見張りが二人控えていて、用意された着替えは上下真っ白なパジャマで、反抗も脱走の試みも無駄なのは小学生の子どもにだって分かる。
――あの後すぐ、スモークガラスの車が駐車場に滑り込んだ。
運転手はフロントに居た初老の男だった。
天使の遺体は布に包んでトランクに積まれ、僕はマヒルに促されるまま後部座席に乗り込んだ――死体と同じ車に乗ったのは初めてだ。
駐車場に残された血溜まりや、監視カメラに残っているであろう僕が天使を刺し殺す映像は『なんとか出来る』らしい。
『BABグループは、宿泊業の他にも幅広い事業を展開しているの。営利事業だけじゃなくて、慈善活動にも力を入れているし……一般にはあえて、ホテル以外のイメージを付けないようにしているんだけど。企業戦略の一環ね』
『……はあ』
『機密事項だけど、警察にもちょっとどころじゃないコネがあったり、なかったり……』
後部座席で隣に座ったマヒルは、にこやかに続けた。
天使が死んでしまったことは、毛ほども気にしていない様子だ。
『単刀直入に言うわね、ユウグレくん』
『今、近衛アキヒトから、あなたの捜索願が警察に出されてる』
『――……』
実父の名前を聞いて、心の底から震え上がる人間はどれくらい居るんだろう。吐き気を催す人間は、胃が痛くなる人間は、どれくらい居るんだろう。
僕にとっては産まれた時からそれが『普通』で、他の家にとっては普通じゃないと気付いたのは小学校に上がってすぐの頃だった。
(……内々に処理、しなかったんだ)
また、父親が言う『一族の恥さらし列伝』に新たなエピソードが加わった訳だが――
出来損ないの息子と言えども、流石に手の内から居なくなるのは許さないのだろう。そういう人だ。
『このままじゃあなたは、ずっと警察に追われる身――そしてそもそも、父親が生きている限り自由には生きられない。分かっているわよね?』
『……なんで、知って』
『さっき言った通りよ。BABはこれくらい、すぐに調べられるわ』
まさかBABは、怪しげな少女を育てるに飽き足らず探偵業でもやっているのだろうか……
どちらにせよ、僕自身のことはいくら隠しても無意味らしい。
『それで、私達が考えた最もスマートな方法は、ユウグレくんが父親を殺すこと』
『ッ――何、言って』
顔を見ただけで、名前を聞いただけで全身が硬直する父親を、僕が、殺す?
(狂ってるとしか、思えない――)
言葉が続かない僕を隅々まで観察した上で、マヒルは何度も頷いた。
『うん、うん、良いのよ。今の時点では何も理解出来なくて良いし、この提案に賛成出来る筈も無い』
『今夜あなたは、奇跡の証人となる。……その時には、私が言ったことの意味がよく分かるでしょう』
寝転がっているだけでは時間は進まず、眠ろうと努力はしてみたが眠気は一向に訪れない。
(なんで、あんなこと出来たんだろう)
僕は確かに、自分で自分の喉元を突き刺し、死のうとした。
……そして、天使が盾にならなければ確実に実行されていただろうし、恐らく、それで夢から醒めて現実に戻れても居ないだろう。
(……思い詰めるって、怖いな)
(これが夢だったら良いって、今でも思うけど……)
シングルルームの窓は少ししか開かないし、何も刃物は置いていない。
紐状のものはカーテンを裂けば出来る気もしたが首つりは辛いと聞くし、いや、そもそも死ぬ気力が今は無い――
+ + +
幼稚園の頃は、たまに周囲の大人の目線を感じるくらいだった。
母親は心の病気で、一緒には住めないのだと教えられた。
小学校にあがったら、露骨に上級生に噂されるようになり、病院に居る正妻は自分の実母ではないと知った。
唯一の近衛本家嫡子である僕の母親は近衛アキヒトの愛人で、鎌倉の別荘で幽閉されるように暮らし、僕を産んだ直後に死んだ、と――
未成年での、若すぎる身体での出産が、死の原因らしい。
実の母親が幽閉されていた別荘に幼い僕を連れて行き、愛人候補と噂されていた家政婦たちと遊ばせていたと知った時、僕は父親が気持ち悪くて気持ち悪くて、仕様が無くなった。
――父親は、僕が産まれた時既に齢五十を超えていた。そんな男が未成年の女に手を出すなんて、どこからどう考えても犯罪、人権蹂躙、平たく言うとロリコン――
(息子がゲイって知っただけで、散々こき下ろして人格否定してきたけど、変態って言うならどう考えてもあっちの方が上だ)
しかも、相手は単なる未成年じゃない。
(わざわざあんな少女に手を付けて、子どもを産ませるなんて…………)
父親の前で、彼を批判することなど僕には出来ない。
だからせめて今は心の中で思う存分罵ってやろうと思ったけれど、上手く言葉は出て来なかった。
幼い頃から、たったひとりの息子として、少しでも反抗の芽を見せるだけで叩き潰されてきたから……
……昔は、父親の望む息子になろうと、近衛家の誇りとなる跡取りになろうと、懸命に努力した。
けれどいつも僕の努力は詰めが甘いと、一歩が足りないと言われ、叱責されてばかりだった。
僕はやがて、父親に好かれることを諦めた。
……父親の愛を捨てた分、僕はとにかく、自分を好きになってくれる可能性のある人に好かれたかった。
肉親に認められなくとも、誰かに愛され、誰かに認められれば生きていけると考えた。
僕は懸命に、誰かの理想になれるように振る舞った。
使用人にもっと子どもらしくしろと言われたら無邪気に振る舞ったし、親の言いなりにならなくて良いと言われたらわざとルールを破ったりもした……
結果、少しでも父親の意に沿わない使用人は次々と解雇された。
次第に周囲は、父親の機嫌取りの為に僕に厳しくあたる大人か、父親が居ない場所でだけ都合のいいことを言う大人しか居なくなった。
性癖のことは、小学校高学年の頃から何となく周囲に違和感を覚え、中学生で数少ない友人に恋愛し、当然のように恋破れてから、徹底的に隠し続けた。
多分特筆すべきことは何もない、ありふれた展開だ。
――浪人が決まり、自棄になって憧れの地・新宿二丁目に向かったものの、酔客が行き交い、下世話な冗談が飛び交うただならぬ雰囲気が怖くて怖くて一人震えていた僕に、あいつは優しく説教してくれた。
『――君みたいな子は、こんなとこ来ないでちゃんと恋愛しなよぉ』
『――なんで、ちゃんと出来ない、って決めつけてるの?』
『勿体ないなぁ、これから人生長いんだから、何だって出来るのに――』
『ユウグレ』
『――君だけ、死んでよ』
シンヤ。
生きてるか死んでるかも分からない…いや、きっとどこかで生きてるであろう、元恋人。
お前は今も、間延びした鼻にかかったような声で笑って、あんまり美味くないパスタを作ってる? 僕を殺したって思って、少しは後悔してる? それとも、清々したってスッキリしてる?
……お前は今も、人生は長くて、何だって出来ると信じてる?
僕は……
一度だってそんな風に思ったことがない。




