6話:少女と女
――BABホテル国会議事堂前。
ライトで照らされた看板と仰々しいオレンジ色の門、その上にはひどく小さな窓の並んだビルが建てられている――……
車が、停まった。
「ほら、降りて頂戴。天使も起きて」
「ん、ぅぅぅぅ……」
美少女がマヒル…と美少女が呼んでいたので、今はこう呼び続けるしかない…の声に応え、伸びをする。
(――え、ちょっと待て、天使って僕の隣で寝落ちしてたこの子か)
詰まるところ、キラキラネームか?
確かに天使が居たらこんな感じかとは思うし、最初に見た時はまさに天使なんて思ったけれども……
その美少女みたいにいかにもファンタジーな見目や声じゃない、穏やかな常識人らしき女性がさらりと『天使』と呼ぶ様は、何とも薄気味悪い。
「――うん、もう少しで夜が明けるわね。早めの朝食にしましょうか」
そつのない笑みを浮かべた彼女は、漆黒の空を見上げる。
……今何時かは知らないが、日の出まで程遠く感じるのは僕だけだろうか。
「わーっ、食べたいですモーニングー! 食べましょう−、モーニンーグ」
天使と呼ばれた美少女は、正月の年越し直後みたいなテンションで、繰り返す度に変わるおかしなイントネーションでくるくる回る……
マヒルの前では、飼い主に付き従う犬のようなはしゃぎっぷりだ。
「ほら、ユウグレくんも一緒に。着いてきて」
「……はい」
この『はい』は――
多分もう、何も考えたく無い、という『はい』だ。
どんな怪しげな場所かと思ったのに、一歩入ったところに広がるのは天井の高い、黒い大理石のフロント――
というと高級感があるけれど、何個も吊されたシャンデリアが騒々しかったり、隅に並べられたソファと丸椅子は何故か白黒の市松模様だったり、どこかチグハグ。
確か、シンヤと行った千葉のBABホテルも同じ様な佇まいだった。
「おかえりなさいませ」
フロントに居た初老の男性が頭を下げた。
「ありがとう、お疲れ様」
「ただいまー、でーす!」
マヒルは同僚らしい会釈で返し、美少女は家に帰ったかのような挨拶をする。
僕はその後ろを無言で歩き、儀礼的な会釈をする。ずっと俯いていたから、男が会釈を返したかは分からない。
建物がそれなりに大きい割にたったひとつしかない…確か千葉のホテルも同じだった…エレベーターのボタンが押され、マヒルが開ける。
「さあ、どうぞ」
促され、僕と美少女が乗り込んでから、最後にマヒルも乗り込んだ。
最上階のボタンを押してから、洗練された手付きで扉を閉める――客は見当たらなかったけれど、誰かが居ても、客室係の女性が僕と少女を案内する図に見えただろう。
……僕と少女の二人連れなんて、友人にも家族にもカップルにも見えないだろうけど。
「つきあたりですーよっ」
「……ああ、うん」
途中で止まることもなく、他の客に会うこともなく、最上階のフロアを進む。
狭い廊下の左右均等に扉が延々と続き、ひとつひとつ大きな数字が書かれ番号も進む。
……どうやらBABホテル系列は、どのホテルも同じような造りにしているらしい。
かつて行ったホテルの情景が、シンヤとふたり歩いた廊下が、ふっと浮かんで無理やり消した。
「天使の言った通り、突き当たりのここが私達の部屋――さあ、入って」
「お邪魔してくださーい、ユウグレっ」
「……はあ、お邪魔します……」
いつ解放されるんだろう……いや、果たして僕は解放されるんだろうか?
扉を開けたマヒルが、手早く明かりを点ける。
中はベッドがひとつ、小さな机に棚に湯沸かし器、オフィスチェア……千葉のツインルームと広さはそう変わらないけれど、ベッドが少ない分だけ動きやすく見えた。
「ごめんなさいね、椅子はひとつしかないの。ベッドの上、適当に座って頂戴」
「……はあ」
最早ものを言うのも考えるのも疲れ、ベッドに腰掛ける。
濡れた服でシーツが汚れるとも思ったけれど、言う義理もない気がする。
冷えた指先に、シーツとは違う布の感触がして摘まんだ。
「……う、ゎ」
膨らみの小さなふたつのカップに、白を基調とした縁取り、薄い水色をあしらったレース。
実物を見たのは初めてだったが、下着だと直感し手を放す。
「あー、脱ぎっぱなしだった、です。海行く前に、お風呂入りたかったですから」
「ブラはすぐ手洗いしないと型崩れするからね。放っておいちゃ良くないわ」
「はーいですー」
……反応出来ない僕も悪いが、ここは普通『きゃーエッチ』とか言って美少女が照れて慌てて下着を奪い返して僕も彼女もお互い顔を真っ赤にするようなところじゃないだろうか……いや、古い漫画の読み過ぎか。
っていうか僕は、この期に及んで、訳の分からない少女と女性に囲まれてなお、『普通』なんか気にしてるのか。
「待ってて、すぐ準備するから」
「モーニングはやっぱり、しおラーメンですねーっ」
マヒルは瞬間湯沸かし器を持ち、ユニットバスで水道水を入れている。
美少女は棚の引き出しを開け、ミニサイズのカップ塩ラーメンを三個、取り出す。
(あれ? これってただの、深夜の夜食カップラーメンじゃ)
そんな突っ込みを口に出す気には当然なれず、ぼんやり目の前の景色を眺めた。
備え付けの家具、備え付けの本。
『聖なる書で成功を掴む-Best Ambitious Bible-』 『BABホテル会長・一宮レイジが教える幸福のルール』――そういえば、千葉のBABホテルにも置いてあった。
最初はギョッとしたけれど、シンヤは慣れていたのか何も言わず何も無いかのようにそのコーナーを無視していたから、僕も倣った。
「どぽ、どぽ、どぽーっと……お湯、入れました、ですー!」
「それじゃあ、天使が全員分配ってね」
「はーいっ、ユウグレのぶん。おはしもあるよ、ですよ」
「……ありがとう……」
コンビニで何度も見たが、食べたことはない種類だった。袋麺で有名な老舗メーカーの塩らーめん。
片手の上で収まるような小さいサイズを、美少女は両手で抱え大切そうに渡してきた。
「そろそろ三分、経ちますですよーっ」
「今日の食事に感謝して、頂きましょうね」
「はーい、いただきまーすー」
「ほら、ユウグレくんも遠慮なく食べて」
「……いただきます」
初めて食べるけれど、二口で慣れるカップラーメンのふやけた味が広がる――空腹かどうかも分からないまま、やることが欲しくて淡々と麺を口に運んだ。
小さなヌードルはあっという間になくなって、汁を飲む気もなく手持ち無沙汰でふと、目線を上げて――ギョッとする。
「ふーっ、ふーっ……うん、冷めたわね。はいどうぞ、天使。口開けて」
「おくち、あーーーーん……」
ひとつしかないオフィスチェアにはマヒルが腰掛け、その膝を椅子にして美少女が軽々と乗っかっている。
机に載ったカップラーメンのうちひとつをマヒルは手に持ち、箸で麺を巻き上げるようにして、一口ずつ美少女に食わせる――
(いや、どう見ても十三、十四歳……もし制服がコスプレでだいぶ大人びてるとしても、十歳は絶対超えてる子に、あーんって)
しかもたったひとりで僕を助け、エンジン付きのボートを軽々と扱うような美少女だ。大の女性の膝に乗り、カップラーメンを食べさせられてるって、一体――
「んぐ、もぐ……やっぱりマヒルのラーメンはおいしー、です!」
味はどう考えても企業努力の成果だ。いやもう何も突っ込みたくないんだけど。
唖然としながらつい視線を外せずにいると、マヒルと目が合う。
「あのね、ユウグレくん。この子は、天使――名前じゃないわ、本物の天使なの」
「…………。え」
本当もう、何も突っ込ませないでくれ――頼むから。
「はい、わたし、天使なんですー。マヒル、スープのみたい! です!」
「分かりました。このまま、動かないでね」
「はーい、ですー……じゅるじゅる……ぷはー、おいしいー」
二人羽織のように背後からマヒルの手が伸びて――その指先は爪の形が美しく整えられ、薄いベージュのネイルがつるりと光っている――小さなカップを傾け、美少女にラーメンの汁を飲ませた――
『天使』だという彼女は、満足げに微笑む。
(――ああ、そうか)
唐突に僕は、理解した。そして突っ込みも放棄した。
(当然のように、ここも、まともじゃないのか)
……恋人に突き落とされた男をタイミング良く助け連れて来る美少女と女性が、単なる善人である筈がない、普通の人間である筈がない……。
分かっていた、筈なのに。
懐かしい既視感のあるホテルの内装に、また感覚が麻痺していた。
また、自分がまともになれるなんて、思い込んでいた。
(ただ、普通に。……普通に、それなりに平和に暮らせたら、それで良かったのに)
僕が思い描いていた、平和で普通の世界はどこにあるんだろう。
テレビの中とか、回ってくるSNSの動画とか、休日の街並みやレストランに行くと簡単に見つかるのに、当然のように子連れの家族が、寄り添った男女が、楽しげに笑い合っているのに、――それとも、あいつらも全部、全部全部全部嘘吐きで、外から見たらまともに思われるよう振る舞っているだけなのだろうか。
「はーっ、ごちそうさまー、です!」
「偉いわ、完食じゃない。よく全部食べたわね」
天使の真っ白な髪に、ベージュの爪が食い込み、撫でる。
「ちゃんとお片付けするのよ」
「はーいーっ」
空になったカップラーメンは、何の未練もなく足元のゴミ箱へと投げ捨てられた。
もうひとつ、残っている方には誰も手を付けようとせず、お湯を入れたまま置き去られる。
「――待たせちゃったわ。ごめんね」
「いえ……」
膝に乗せた天使の肩に両手を置き、マヒルは口角をあげた。
「私はマヒル――天草マヒル。肩書きはBABホテル正社員の接客スーパーバイザー、実際の仕事はここのフロント係兼、天使のお世話係。この部屋で一緒に暮らしてるの」
こんなシングルルームに二人で、暮らしているのか。
私物が少しでもあったら、たちまち部屋を埋め尽くしてしまいそうなものだけど――
さっきチェックインしたばかりの観光客、と言われても納得してしまうくらい、部屋には私物がなかった。
「天使も、改めて自己紹介してね」
「はい、マヒルの言った通りわたしは天使なんですよーっ」
「わたしが天使として産まれた時から隣にマヒルはいて、わたしに優しい、ですー」
「……」
生まれた疑問が解かれることはなく、新たな『?』だけが積み重なる。
「質問は山ほど有るだろうから、気になったところから答えるわ。思い付くままに言って」
一体全体、この状況で僕に何を聞けと言うのだろう。何を話せと言うのだろう。
身体の中心は辛うじてカップ麺の温もりが残るものの、手先、足先が冷たくかじかんで痛い。濡れたパーカーは益々重みを増し、全ての気力を奪っていく――
「――質問を変えましょうか」
「今一番したいことは何、ユウグレくん?」