5話:ホテルと僕
1. 終わりにしたい日
美少女は、僕を軽々と――まではいかないが、何度か唸り声をあげた挙げ句ボートの上へと引っ張り上げた。
(なんだ、この状況――)
僕がぼんやりとしている間にもモーターのスイッチが入り、彼女はボートを器用に操る。
モーター音を波間に置き去るような勢いで、あっという間に砂浜が近付く。
すぐ向こうには道路が見え、ちらほらと車が行き交うような明かりも見え、ライトの量の少なさに、深夜だろうな、とぼんやり思う。
(――現実、なんだ)
ぐしゃりと濡れて重くなり、体温を奪っていくパーカーを、ぎゅっと握り締める。
スマホやナップザックは海に落として手ぶらだけれど、今見える貧相で薄い手のひらと手首は間違いなく僕のもので、世界は間違いなく続いていて――
ちらりと視線を向けると、美少女は、鼻歌でも始めそうな軽快さでボートを操縦していた。
(どうすれば、いいんだろう)
答えは出ている。
今はただ、黙ってボートに乗っていればいい。
(でも、陸に着いてしまったら——)
海岸線が、近付く。
道路の手前、砂浜らしき部分は、ただただ昏くて——……
ふいに、暗闇からヘッドライトが光り、明滅した。海岸線と道路を分けるところに、車が有ると気付く。
信号機から差し込むか細い赤い光が、車と、そのすぐ横に佇むひとつの影を照らし出した。
「……誰か居る」
「あーっ、マヒルです。優しいんですよっ」
「いや、だから誰――」
全く役に立たない情報だけを残して、美少女がボートから手を離した。
ほとんど同時に浅瀬へボートが乗り上げ、美少女曰わく『優しいマヒル』らしき人影が駆け寄ってくる――
大人の、女性だ。
美少女とは対象的な、性別を強調したような身体の線で、身長は僕より高いかもしれない。
何の躊躇もなく足首までを海に浸し、小さな飛沫を立てながらボートの脇へと、彼女は進んだ。
「寒いでしょう。これ、使って頂戴」
「……あ、どうも……」
笑顔で差し出されたタオルを、つい受け取ってしまう。
両腕にバスタオルを乗せ広げる仕草が、何となくホテルマンを連想させたからだろうか。
(そういえば、びしょ濡れだった)
厚ぼったい、真白いタオルで顔を拭く……高すぎないビジネスホテルを思い出す、表面だけの柔らかさだ。
「取り敢えずは、車に乗って。このままじゃ風邪引いちゃうわ」
『マヒル』と美少女が呼ぶ女性に、タオルの隙間から視線を向ける。
肩までの栗毛を切り揃え、眉を左右対称に整え、まつげは人工的な角度でカールしている。
シンヤならきっと、すれ違った後に『女はああして誤魔化せるから良いよねぇ』なんて言っていた筈だ。
化粧を細部まで仕上げた精巧さは、彼女を二十代にも三十代にも見せた。
「はーいーっ! マヒル、がんばったですーよ」
「そうね。よく頑張ったわね」
「えへへへーっ、そうなんでーす、ですっ」
(内容のない、会話だ……)
ぴったりしたワイシャツとタイトスカートを身に着け、凹凸のある身体の線を惜しみなく強調している。
なのに性的なものよりも、授業参観に来た母親のような、落ち着いた雰囲気を先に感じるのが不思議だ。美少女のマスコットじみた声が弾んで、ひどく懐いている風に見えたせいだろうか。
「いこっ、ユウグレ」
美少女はひらり、と飛んでボートから降り、スキップするように砂浜を歩く。
女性も当然のように歩き出し、僕だけは未だボートに座ったまま——
(——別に、行きたくはない。生きたくも……)
けれど、重い足をのろのろと動かし、浅瀬にぐしゃり、と足を浸ける。
なんだか……もう、全てが面倒臭い。ここで反抗したり、逃げ出したりする方が労力を使う。
『優しいマヒル』が車の脇に戻り、うやうやしく後部座席の扉を開けている。
車に乗り込もうとして――その足元に、ギョッとした。
ストッキングに黒いヒールがぐっしょりと濡れ、小さな水溜まりを作っている。
彼女は何の躊躇も無く、靴とストッキングを履いたまま、海に足を浸したらしい。
(……そうだよな)
(こんなところに出てくる奴が、まともな人間な筈、ない……)
……その小さな異常さが引き金となり、僕の両足は沈む砂の上ではたと止まった。
「さあ、乗って頂戴」
「……いや。その」
「きっと、聞きたいことも山のようにあるでしょう。……それに、疲れているでしょう?」
車のドアを掴む彼女の手は、白い手袋をしていて、ホテルマンらしき雰囲気をより醸し出す。
「私どもBABホテルグループは、貴方を歓待します。近衛ユウグレくん」
+ + +
深夜にテレビをぼんやり眺めたことがある人なら、BABホテルの名は知っているだろう。
あのCM以外で見たことのない、謎の外国人女性が画面の右端で身体をくねらせ踊っている。
通販番組のごとき早口のナレーションが、新たに開業した系列ホテルの説明をまくし立てる。
そして最後に必ず、大音量で『バブゥゥゥ〜♪』と野太いボーカルの声がして、疲労感さえ覚えるような十五秒が終わる。
昔は存在すら知らなかったけれど、ここ数年やけに名前を聞く、上品なイメージは何ひとつない格安ビジネスホテルチェーン――
それが、BABホテルだ。
去年、恋人のシンヤと、彼が好きなバンドのライブに千葉まで行った時初めて泊まった。
隣にある高級ホテルの系列なら、かつて親と何度も泊まったけれど、正直、ツインルームのあまりの狭さに驚いたけれど、それは勿論言わなかった。
……初めての恋人とライブ遠征に行き未知のホテルに泊まる経験は、僕にとってあまりに刺激的だった、――……
今となってはもう、何も分からない。
シンヤが僕に近付いてきたのは、近衛家の人間と知ってのことだったのか。
ずっと近衛家を、そしてその跡取りとされている僕を恨んでいたのか。
大好きな曲だと教えてくれたバンドの十八番が演奏されたその時、隣で飛び跳ねていた恋人の笑顔は、汗は、輝きは、僕を好きだと言ってくれた、僕に身体を許してくれた、その時の真意は――
(――このまま全部、何も分からないままなんだろうか)
マヒルが運転する車は高速に乗り、灰色の厚い壁が続く道を無言で走り抜けていく。
タオル一枚じゃ凌げない濡れた服の重みは、確実に体温を奪っていく――寒い。
横に視線を向けると、美少女は後部ドアに身体を預けすやすや眠りこけていた。
流石にその寝息は静かで、大いびきをかいたりはしていない。
「――不安でしょう。ごめんなさいね」
穏やかで優しげな、けれどマニュアル通りのようで感情の読めない声が響く。
運転席のマヒルだ。
「着いたら天使も交えて、改めて状況を説明するから。もう少し待ってて」
「……何ですか。天使って」
「ああ、悪かったわ。そこも後で話すから」
「……はい」
納得の『はい』ではなく、他にないという相槌だった。
この車が何処かに到着して欲しいのか、いつまでも着かないまま永遠に走っていて欲しいのか、分からない。
あわよくば事故にでも遭って悪い夢から覚め、シンヤのシングルベッドだったら良いのに、なんて――
一瞬目を閉じたら広がるのは、ただただ暗闇。
僕は慌てて薄目を開き、高速の味気ない灯りが流れていくのを理由もなく眺めた。