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4話:死にたい僕と……

これにて序章完結です。

 この国を形作る列島の南に、本土と小さな島々に囲まれた美しい内海が有った、という。


 かつては魚が湧き出る海、水の聖地などと言われ、人々は自然と一体になり、海神に感謝し日々の糧とした、という。

 対岸の島々には遠い昔、異教を信じ迫害された人々の子孫が救世主(メシア)の御恵に感謝し、慎ましやかに暮らしていた、という。


 ――僕は知らない。


 そんな海、見たこともない。


 生まれた時には死んでいた曾祖父が造り、祖父が受け継いだ財閥の子会社である工場がどんな罪を犯したかも、その後の住民訴訟でどんなに極悪非道な振る舞いをしたかも知りたくない。


 覚えているのは、一度ネットで検索した時、出て来た写真に映った真っ黒な旗。漆黒の大布に、赤い糸で刺繍された文字に心底震えたこと――


 『近衛家は未来永劫大罪を償え』、と。



 + + +



 どうやって突き落とされたかは、よく覚えていない。

 貧相な上に、睡眠薬で鈍った身体を柵から落とすのは、きっとそう難しいことじゃない。


 相手は薬を飲むフリだったと気付いたのは、海水の冷たさに全身が打ち砕かれた時だった。


「うごぉ、がぼっ、げぼっ、うぇ、ぅあ、ぅぅ、――――!」


 水面に叩き付けられた衝撃、鼓膜から内に入り込み響く水音。

 夜の冷え切った水が、耳から口から入り込み、もがけばもがくほど身体を容易く沈ませる。

 海中に入った途端、重たい暗闇に押し潰され、すぐに手足は痺れ動かなくなり、水面に上がる体力など残らない、そもそも上下左右、何処に行けば海面なのかも分からない。


 だって今は真夜中で、睡眠薬も飲んでいて……僕には、何も分からない。


 宮崎シンヤは本当に本物のシンヤだったのかも、恋人だったのかも、僕を恋人と思っていたのかも、何も、何もかも、――……

 藻掻く気力も、足掻く意味も見つからなくて、抵抗を止める。


 ……思考を放棄して、ただ、苦しくて、僅かに残っていた肺から空気をすっかり吐き出し、海底へと落ちていく。

 元々死ぬつもりで来ていたのに、何て滑稽な死に様だろう。

 楽に薬で呼吸を止めるなんて出来もせず、このまま溺死するなんて、いや、それで良い、これで終わりで良い、早く溺れて、死んでしまえば、この苦しみだって……


(――シニタクナイ)


 死んで、全てを終わらせるつもりだったのに。


 もう、何もかもどうでもいいと思っていて、恋人が言うまま命を終わらせれば楽になれると思っていて、実際生きていたって辛いことばかり、苦しい、今だって苦しい、嫌だ、なのに、なのに……


(死にたく、ない)


 咄嗟に浮かんだ本能は、感情は、叫びだった。


(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくな、――………………………………)


 ぶつっと、全てがショートしたみたいに命が弾ける音がして。


 限りない意識の深淵は闇へとまどろみ、ただただ荒涼とした沈黙と闇が広がった。











 ――こうして僕は、命を落とした。

 近衛ユウグレ、享年十九歳、浪人生(二浪中)。

 特に神は信じてないので、このまま全てが無に還る――











「げほっ、ごほっ、がぁ、ごぼっ、ぅ、う――」


 ふっと、意識が戻った。


 僕は溺れている、その真っ只中に居る。

 すぐに手足は痺れ動かなくなり、そもそも上下左右どこに向かえば水面なのかも分からず、だって今は真夜中、睡眠薬だって飲んでいて――


 僕は近衛ユウグレ、十九歳、浪人生。

 真っ暗な海、何故か再びたったひとりで藻掻いている。


 必死に手を伸ばすも、口の中から耳から鼻から肺に大量の塩水が入り込み、足掻けば足掻くほど身体が沈んでいく。


(――シニタクナイ、しにたくない、しにたくない、しにたく、な……――――――)











「ぅぐ、がっ、ぁぐ、ぅ、うぅ――」


 ――一体、何度繰り返しただろう。


 意識が覚醒した時点で既に身体は沈みかけ、潮水を飲んでいるから何をしても無駄だ。


 とっくに死後の世界に居るのか、延々と続く死の苦しみは地獄に落ちた罰なのか。

 意識を失った後に次の瞬間、また海の中で溺れかけて覚醒し抵抗虚しく溺れ死ぬ、その繰り返し。


(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくな、――……)

(――……いや)


 どうせ最後は変わらないのに、ほんの少しだけ足掻くのが上手くなった身体が、感情を紡ぐ。


(死ねば、いいのか)


 どうして今まで、悪あがきをしていたんだろう。

 考えてみれば元々、僕だって死ぬつもりで鎌倉に来たのだ。

 確かに恋人に裏切られはしたけれど、死んでしまえばそんなのどっちだって変わらない。


(そうだ、このまま静かに死に続ければ、きっといつか終わる)


 無理に藻掻くから、希望を持つから余計苦しい。


(そう、このまま死ねば良いんだ)


 僕は身体から力を抜こうと、藻掻いていた手足を揺蕩う黒い海へと委ねる。


(……このまま死んで、全部、終わらせれば)




「ダメでーすー!」




(……は?)


 声が響いた、気がした。


 イントネーションが丸っこいのに潰れている、出来損ないのマスコットみたいな癖のある声。

 間違っても今際の際に聞きたい音じゃないし、これが地獄の門番の声なら悪趣味にも程が有る、そういう類いの――


「掴まって、くださーい!」


 にょきり、と。

 白く細いものが、水中へと差し込まれた。


 考える間もなく、無我夢中でそれを思い切り掴み、縋り、力の限り引っ張った。


 その瞬間。


「ぅわっ、キャアッ!」


 背後で、ばしゃりと泡が立つ。

 白い固まりがどぷりと突っ込んでくる気配で、水面の方向にようやく気付いた。


 手足をバタつき、身体をうねらせ、無理やり向きを変えて再び、手を引く――僕は何かを、掴んでいた。


 しなる枝のような、にしては滑らかで手のひらをすり抜けていきそうな、一体何だろう。もうひとつの手も添えて、ありたっけの力を込め掴んだものを引き、海水で痛む目をこらすと、両手で握ったものの先、白い輪郭があると気付く。


 ――ぼんやりと浮かび上がるそれは、細い手首であり、その先には小さな白い手のひらが、指の一本一本が秩序無くこちらに伸ばされていた――


「ぅあ、ぅ、ぅ、ぅ、ぁー……」


 僕が掴んでいたのは、人間の手首だった。


(はあ!?)


 マスコットの断末魔らしき、醜い唸りがぶくぶく響く。

 白い腕の先、暗闇の中から気泡が幾つも浮かんで、闇の中で弾け消えた、気配がした。


 どうやら声の主が海中に落ちてきて、無謀にも何かを喋ろうとしているらしい……

 そう気付いたのと、握っていた手首の先が意志を失い、ずるずる落ちゆくのがほぼ一緒だった。


(――何なんだよ)


 掴めって言うから素直に掴んだのに、助けるどころか海へと引きずり込まれて、僕より先に溺れるとか。

 そして、僕より先に死ぬとか――訳が分からないにも、程が有る。


(ああもう、こんな状態で、死んで堪る、か…………――――――)











――こうして僕は、命を落とした。

 近衛ユウグレ、享年十九歳、浪人生(二浪中)。

 死に際最後の記憶がコレって、何だか物凄く馬鹿馬鹿しい――











「ぅぐ、げふ、ごふっ、ぅう――」


 ひと呼吸毎に身体が沈み、肺に残った空気が潰れる。

 一度意識が途切れた後で、次に覚醒するのは以前と同じ、孤独な地獄。


 あの声は一体何だったのか、そもそも本当に声だったのか、結局何も分からない。

 このまま僕は死ぬのか、それとも現世ともあの世とも知れぬ海中で未来永劫苦しみ続けるのか、分からない、最早どうでもいい、っていうかあの謎の手や声が幻覚だったならもうちょっとマシな妄想を見せて欲しかった、天使か、悪魔か、どっちにしろひどく中途半端で何にも定義出来なくて、ただただ、無駄に心が乱されただけ、――




「すみませーん、テイク2でーすー!」




(……は?)


 間違いなく、同じ声だ。『でーすー』ってなんだ、普通伸ばしたって『ですー』か『でーす』だろう……

 暗闇も夜の冷たい海も何ひとつ似合わない、明るい、馬鹿みたいな、潰れた出来損ないのマスコットの、声だ。


「これ、掴まって、くださーいー!」


 眼前で、ぱしゃりと軽い泡が立つ。


 何かが、伸ばした指先に一瞬触れた。

 今までとは違う、ぱりぱりの硬い感触――白くて細い、誰かの手首とは明らかに違う。


「つかん、でー!」


 マスコット声が上からわーわー喚く、うるさい、そうか、こっちが水面だったのか――

 触れた何かの正体を確かめる間もなく掴み、かつて掴んだものより遙かに太い塊を本能的に抱き込む。


「引っ張り、まーすー……よいーしょー……!」


 力が抜けてしまいそうな掛け声と共に、徐々に身体が揺らめき、抱き込んだ塊が一方向へと進んで行く、そして。


「っ、ぅ、げほっ、ごほっ、ぅ、……」


 ……海じゃ、ない。

 空気の、あまりの新鮮さに、詰まっていた水を全部吐き出す。


 潰れていた肺を刺すように、酸素が入り込む……まともに呼吸をしたのは、いつ以来だろう。

 必死に掴んでいたのはオレンジ色の硬い浮き輪で、如何にもな救命用具が僕の身体を引き揚げたのだと気付いた。


「だいじょーぶ、ですーねっ」

「はぁ、うぇほ、げほ、がっ、うぅ……」


 ……今の僕を見て大丈夫『ですーねっ』と判断した要素を教えて欲しいし、そう、やっぱりここは天国なんかじゃない。地獄か、地獄みたいな現実かの二者択一……

 ――ああ、下っ端の悪魔が居たらこんな声かもしれない、妙に納得しながら顔をあげる。


 掴んだ浮き輪はボートの脇でたゆたい、僕自身は首から上だけ辛うじて海の外へと突きだしている。そして、目の前の簡易的なエンジンが積んであるボートへと、浮き輪の紐が繋がっていて――


「…………は?」


 やっと、心の声が音になった。


 久しぶりに空を振るわせた自分の吐息は、やけにか細くて……

 それ以上に頼りないのは、紐の先を掴んでいた白くて細い手首。


 襟が淡い水色で、それ以外はスカートまで純白のセーラー服、さらりと胸元に落ちた白い髪が散らばる、筆舌に尽くしがたい、美少女――


 ボートの淵にしゃがみ込み、ふわりとした笑顔を浮かべ僕を見下ろす。


「お兄ちゃん、ですーよねっ」

「は? いや、違う……」

「でも、ユウグレ、ですよー……ねっ?」

「……いや。変に語尾変えられても……つか、何で。僕の名前、呼び捨て……」

「ええーっ、いいですよねー?」


 見目と声が、徹底的にアンバランスだ。


 悪魔見習いのモンスターみたいな声に、天使みたいな姿。

 偏見でしか無いけれど、パーツのひとつひとつが小さく・細く整った純白の少女は、透き通って囁くような声で喋るものだと思っていた。


「わたしユウグレ助けたんだーよ? 一度ごぼごぼって海の中引っ張られて、殺されたのにー、ですーっ」

「……は……」


 僕が死んだ時の記憶(・・・・・・・)を、この子も共有している?


(ひとつ前の記憶で、僕は白くて細い手首を海の中に引きずり込んで、そして……)

(……この子は殺された? 僕も死んだ? なのに……)


 なのに、僕もこの子も生きている。

 平然と、マスコットはぺらぺら変な語尾で喋り続ける。


「本当ーに、ごめんですーよっ。デキシ、苦しいんですーから。急にユウグレが、引っ張るからー……」

「でも、今……こうやって生きてるのに」

「えー。分かんない? ……でーしたか?」


 もしかしなくても、無理にですます調で喋ってるんじゃないかこの子――と思ったところで、純白の少女は四つん這いになり、水面の僕へと顔を寄せた。

 月明かりのせいか、この世のものじゃないみたいな美しさだ。頬が青白く光り、長いまつげの一本一本が輝いて見えた。


「――わたしたちは、死んで終わりじゃない、でーすよっ」

「っ、な……」


 つるりとした唇が月光で艶めいて、……潰れたマスコットみたいな声まで、妙な艶を孕んでいるような気さえした。

 普通の男だったらドキリとする場面だろうなと思って、こんな時にまで自分のコンプレックスが頭をよぎる自分に落ち込んだ。


「……。終わりじゃないって、どういう」

「ユウグレとわたしは、運命のひとで、家族になるんでーす。だから、だいじょーぶ、なんですーっ」

「…………」

「……。ユウグレー……? 返事はー、ですー?」


 人は全ての感情や疑問がショートすると、一番近くの事象にしか反応出来なくなるらしい。


「……ええっとさ。とりあえず、ボートの上乗せてくんない?」

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