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3話:裏切り

 聞き間違い、じゃない。


 『うげ、やば』って。好色家の造りあげたリアルすぎる人形みたいな美少女が、『うげ、やば』って。

 『やば。です』って。

 しかも彼女が発するのは非現実的なアニメ声、わざとらしい作った甲高い声ともほど遠い、出来損ないの顔が潰れたマスコットに無理やり声をあてたみたいな、美声とはとても言い難い、――


「ねぇ。やば、って何?」


 マスコット声の美少女に、恋人が一歩詰め寄る。


「ちょ……止めろって」

「……?」


 初めて僕の隣に気付いたみたいに、彼女が小首を傾げた。

 やっぱり、黙っていればとてつもない美少女だ。


「こっち見てやば、って言ったよね」

「ああー。それはですね、黒ネズミさんみたいだなって! お兄ちゃんが、です」


 黒ネズミもお兄ちゃんも、僕のことか。

 (ひどい音程だが)歌うようなメロディに乗せて喋り、笑いかけてきた仕草でようやく察する。


 髪もセーラー服も真っ白な彼女に対してこっちは漆黒の髪に着古した黒いパーカーとパンツ、擦り切れたナップザックを背負う貧相な身体――

 黒ネズミとは、確かに言い得て妙だけれど。


 それとは逆に、お兄ちゃんの方は、全く意味が分からない。

 テレビで見る、やけに馴れ馴れしい芸人が店主をいきなり『お父さん』『お母さん』呼ばわりするようなものだろうか。


「はぁ? それってどういう、」

「行こう。いいから」

「でも、ユウグレ」

「シンちゃん。いいんだ」

「ッ――」


 恋人の――シンちゃんの腕を引くと、すぐ大人しくなって掴んだ腕を振りほどかれる。

 僕らは美少女に背を向ける。彼女は追ってこない、もう言葉も発しない。


 ちらりと振り返ると、極上の微笑みを浮かべ僕を見ていて――集まった民衆に、塔の上から手を振るお姫様みたいだ。


 初めて、気味の悪さに背筋が凍った。


「……何だったんだろう。あの子」

「こっちが聞きたいよぉ。制服からして、ユウグレの知り合いかと思ったけど」

「見たこともないよ」


 一瞬感じた既視感は、きっと何かの間違いだろう。


「というか制服って……どういうこと」

「えぇ? あのセーラー服、知らないの」


 足早に駅から遠ざかりながら、恋人は僕に問いかける。スマホは出していないから、道程は頭に入っているらしい。


「知らない。スカートまで真っ白なセーラーって、珍しいとは思ったけど」

「珍しいどころか、『湘南のお嬢様』の特権だよぉ。聖アナスタシア女子の制服」


 お姫様は大袈裟でも、お嬢様ではあったらしい。


「良いおうちの子しか行けない、典型的なお嬢様学校でさぁ。あのセーラー服、可愛いよね」

「……憧れ、だったんだ?」

「まぁ、ちょっとだけ」


 はにかむ恋人は僕より背が高くて、身体つきもしっかりしているので、痩せぎすの美少女と同じセーラーを着ている様子はとてもじゃないが思い描けなかった。

 けれどいつも快活な恋人が言葉少なになった様子に、僕は何も言わず手を伸ばした。


 差し出した手を困ったように掴んで、それからすぐに恋人は僕と友人分の距離を取った。



 ――それからは特に事件もなく、恋人の下調べが功を奏して、ことはとんとん拍子に進んだ。


 海が見える洒落た蕎麦屋で、値段を気にせず天ぷら蕎麦を食べた。大量の小銭を出して二人で数えながら食事代を払った。駄菓子、やっぱり買えなかった、と恋人は笑った。あたりには駄菓子屋どころかコンビニもなかったから、丁度良かった。


 後ろをついて歩いて行くと、やがて海に出る。

 ……潮風の、香りだ。


 延々と続いて見えるコンクリートの海岸線、停泊した小型の漁船、天気のせいか灰色がかった海――平日の夕方近く、閑散とした漁港に人通りはない。

 人目が心配だったけれど、きちんと生活が営まれているのか気になってしまうくらい、生活音は聞こえなかった。通り過ぎてゆく車の音だけが響いた。


 脇道に入り坂を登っていくと、すぐに鬱蒼とした木々が生い茂り、やがて鳥居が現れる。


「神社……?」

「そう、この奥にねぇ。良いところがあって」

「……へえ、そう、……」


 急勾配の坂に、息があがりそうになる。というか、荒い息を吐き出すのを必死に抑えている、今。

 一歩先を歩く恋人は涼しい顔で、今更ながら体力の違いを実感した。


「大丈夫ぅ?」

「なん、とか……」

「――仕方ないなぁ」


 振り返った恋人が、手のひらを僕に差し出した。

 咄嗟に――出来るだけ早くしないと、その手が隠されてしまいそうだったから――節くれだった指を掴む。


 鳥居をくぐり、石段を登る。

 誰かに見られたら、という心配が馬鹿馬鹿しくなってきた。それくらいに人気がない。時折、風が梢を揺らす。

 他には、吐き出す息と僕らの靴音くらいで……


「ああ、あったぁ。ここぉ」


 間延びした声に、立ち止まる。

 境内にある小さなお社やら閉じたきりの社務所やら、全て無視して通り過ぎたところ――小高い丘の、海に張り出した断崖絶壁。


 そこに、痛みきったコンクリートで作られた四角い箱がせり出している。


「……見晴らし台?」

「みたいだよぉ」


 大きさは、恋人の家の名ばかりベランダを倍にしたくらい。ただしコンクリートの劣化は倍じゃ済まない。

 最低築数十年以上、おんぼろアパートのベランダ部分だけを切り離して、何年も海風に晒したらこうなるだろう、といった佇まいだ。


 恋人に習い、名ばかり見晴台に一歩を踏み出す。

 中は黒ずみ、あちこち欠けていたが、眼下に広がる海はオレンジに染まり、厚い雲の隙間からは夕陽が差していた――


 もう、一日が終わってしまう。こんなに早く。


良さそう(・・・・)じゃない?」


 手を離した恋人が、汚れに構わず角へ寄りかかる。

 コンクリート部分の高さは、1メートルにも足りない。

 その上には、後付け以外の何者でもない、真新しい柵が付いている。

 けれど、下の部分に足をかければ何の造作もなく乗り越えられる――


「……。うん。良さそう」


 僕は頷いた。

 まだ、実感は湧かなかった。






 お社の影に隠れ、日没を待つ。


 何度か足音がしたけれど、気配は近付くこともなく去った。

 風と波の響きに紛れ、重い金属音が聞こえる。何かが施錠されたのかもしれない。

 見渡す限り、真っ暗闇が塗り潰されるように広がって……


 徐々に指先が冷えてきた。

 ずっと同じ姿勢でしゃがんでいるから、腰は痛くて、足は痺れて感覚がない。


「ユウグレ、手冷たいねぇ」

「……うん」


 大きな手のひらが、僕の利き手を包み込む。

 外で向こうから手を握ってきたのは、初めてで。恋人の手のかさついた温もりに、僕はぼんやりと思いを馳せた。


「大丈夫?」

「……うん」


 なんでこんなところに居るんだろう、なんて思いが一瞬頭をよぎる。

 どちらにせよ、もう逃げ場はない。あのアパートに恋人が居ないなら帰る場所もない。


「そろそろ、大丈夫かなぁ」

「……うん」


 何が、大丈夫なのかは分からない。ただ、頷く以外に選択肢はない気がする。


「薬、飲もうか?」

「……うん」


 膝の前に置いたナップザックを手探りで開けると、すぐに大量の薬瓶が出て来た。

 恐ろしさも悲しみも、何も湧いてこなかった。掴んだ硝子の感触だけが、やけに冷たかった。


 あの日、心中を持ちかけられてから今までの何もかも現実感が薄くて、やっと長い旅行の終着点に辿り着けたような、実体のない安堵だけが有った。

 薬瓶のひとつを渡し、もうひとつの蓋を開ける。


「シンちゃん、水は?」

「大丈夫。ちゃんと持ってきたよぉ」

「……そう」


 持参したペットボトルを開け、暗闇の向こうの気配を伺う。

 薬を口に含む気配、水を傾け飲む気配に、同じ動作をなぞる。


 ……――当然、何も味はしない。

 市販薬だから、飲んですぐどうこうなる訳でもない。ただただ、錠剤をひとつずつ飲み込む時間が続く。


「全部、飲めたぁ?」


 あまり聞いたことのない、甘ったるい声がした。


「……うん、何とか……」


 ほんの少しだけ瓶の底に残ってはいたが、もう充分だろうと頷く。


「はぁ……。……良かったぁ」

「……良かった?」


 ふと溢れた恋人の呟きを、問い返す。


「お金、足りなかったからぁ。……ユウグレは知らないだろうけど、親が居ない、ってだけで全部いちいちキツいんだよぉ」


 暗闇の中、恋人は立ち上がり、せり出したコンクリートへと歩く。迷いのない足音だ。


「認定患者にも、絶対なれないしねぇ。嫌になっちゃうよ」


 認定?

 患者?


 ……意味が分からない。


「……シンちゃん。これで、良かったんだよな。これで」


 だから僕は、知らない言葉を全部無視して語りかけた。


 後を追う足取りは、覚束ない。

 それが薬のせいなのか、単にずっと動かなかったせいなのかは分からない。


「どう思う?」


 腕を引かれて、おんぼろの箱の隅に押さえつけられた。

 びゅうう、と、海風が横切る。

 僕を覗き込む瞳の奥は、暗がりのせいで分からない。


 ――でも、手が。

 僕を押さえつけた手のひらが震えているようにも感じて、振りほどけなくなる。


「ユウグレは、どうかなぁ。これで本当に、良かった?」

「……うん、良かったよ。それで、シンちゃんは」


 恋人は、何も応えなかった。沈黙を埋めるように海鳴りが聞こえた。


「シンちゃん……何か、言って。なあ。シンヤ(・・・)

「……もう言ったよぉ。()は、お金が、欲しかったから」

「……。え?」

「親が居なくて遺産もなくて大学に通えてるって、異常なんだよ。この国ではねぇ」


 穏やかな口調のまま、すぅと息を吸い込む気配。

 僕を押さえつける手は緩まない。

 表情は、分からない。


「学費は? 家賃は? 生活費は? そんなの普通にバイトしてても、ううん、夜のバイトしたって身体売ったって全部払うなんてほぼ無理なんだよぉ、……そんなのお坊ちゃまには何ひとつ分からないよね。興味ないよね。絶交したって言って、未だに渋谷の大っきい実家に住んで、父親の口座から引かれるカード使ってるもんね」

「それ、は」

()の触れられたくない部分だって決めつけて、気遣って深入りしなかったつもりなのかなぁ。――でも君は、知ろうともしなかった(・・・・・・・・・・)


 理由は、言い訳はいくらでも有った。

 新宿二丁目の裏路地で出会った相手に、過去を根掘り葉掘り聞くのはマナー違反だと思ったこと。恋人の経験が豊富だと確かめたくなかったこと。けれど恋人が求めているのは、そんな答えじゃないのも分かって、――


 ――いや。恋人、なんだろうか。


 僕の目の前に居るのは、本当に恋人の、いや、恋人だと思っていた、苦学生の、宮崎シンヤだろうか――……


近衛(このえ)、ユウグレ君」

 苗字で呼ばれるのは嫌いだと、出会ったその日に言った。シンヤの声で、自分の苗字を聞いたのは初めてだった。

「ヒルコ病は、知ってるよね(・・・・・・)


 どくり、と。

 鼓動が大きく音を立て、次の瞬間、止まってしまった心地がする。


 ……息が、出来ない。

 頭に一瞬で血が上ってそのまま動かなくなって、身体が麻痺したみたいに、立ち尽くす。


「近衛財閥が犯した最大の罪。海神に愛された湾を犯し、水を汚し、魚を、鳥を、けものを、人を殺し、子々孫々まで消えぬ毒を骨の随まで染み込ませた――」


 それから、早鐘を打ち始める。握りしめた拳が、汗でぬるりと滑りそうになる。


「捨て子だったから認めたくなかったんだけど――生まれた時から重い足枷つけられてるなんてさぁ、本当、不公平にも程があるよねぇ。思ってた一万倍はキツかったんだよ、この人生」


 滔々と語る、この男は誰だろう。

 僕の知っている恋人じゃない、シンちゃんじゃない、いや――


「ねぇ、ここまで言えば、分かるよね?」


 僕が知っている宮崎シンヤなんて、世界のどこにも居なかったのかもしれない。


「最近、手が痺れてきて、……上手く、動かなくて」


 結局は、僕が見たかった世界を、勝手に見ていただけ。


 シンヤは僕を甘やかす年上の優しい恋人で、僕を愛してくれていて、だから僕が入り浸りのヒモでも許してくれて、だから僕と寝てくれていて、だから、だから、僕は、僕という人間は価値があるのだと思いたくて、――


「――俺は、胎児性のヒルコ病だ」


 ――ああ、結局。


「ユウグレ」

「――君だけ、死んでよ」


 僕は、僕の産まれた家でしか判断されないのだ。

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