29話:彼女と彼女と僕
「――あの子は、最初から知ってたんですか」
「いいえ、何も」
僕の声が情けなく震えるのとは対照的に、マヒルは落ち着き払っていた。
「でも、家族になるんだから、お兄ちゃんでも、お父さんでも、好きな風に呼んでいいわよ、とは教えたわね」
「……なんか今、それ聞いただけで鳥肌立ちました」
「ふふ、本当に私、嫌われてるのね。お兄ちゃんにも、天使と私のこと、認めて欲しかったのに——」
「止めて下さい」
「冗談よ、冗談……」
何度も笑うその仕草は、あまりにも完璧で、作りものみたいで、そのうち何だか無理に笑っているようにも見えて来て。
……しばらくの沈黙が落ちた後、懐かしいものを思い出すかのように、夕陽に揺れる梢をマヒルは見上げた。
「――二十年前の今日は、暑かったわ」
「BABの奨学金と借金で何とか看護学校を出たけれど、仕事は過酷で苦しくて、お金を返す為に働き詰めで、無理して専門職を選んだのに、自分には何の価値もないと思ってた――」
彼女は、宙を見上げたままだ。
ざあ、と風が吹いて、露わになったうなじがオレンジ色に染まった。
「病院にひとつきりの特別室に、入院してること自体を隠せって条件で黒崎アサヒが入院した。偶然私が担当になると分かった時は、心が震えたわ」
「入院って……」
「秘密裏の出産よ。私は、憎い憎い近衛家に、その愛人になることを選んだ女に、復讐するまたとないチャンスだと思った――まさか、分娩室に押し入って来た正妻とやらに、赤ん坊を取り上げられた私もろとも刺されるとは思わなかったけど」
「――っ……」
近衛ユリノは、黒崎アサヒを、彼女が産んだ赤子のうち一人を、そして赤子を取り上げた看護師一人を殺した。
そして、近衛ユリノは精神病院に入った。
そして……
「でも私蘇ったの、蘇ったのよ! ねえ、どんな気持ちだったか分かるかしら? 霊安室が天国みたいに見えたわ! 不思議よね、死体が沢山無造作に詰め込まれた、昏い、昏い、天国って」
「……パニックに、なりそうなものですけど」
「昔BABの式典で話を聞いたから、私、自分が聖女様ってすぐに分かったの。そして、隣の引き出しから、遺体が入っている筈のところから、泣き声が聞こえたの——私が取り上げた、女の赤ちゃんも蘇ってた」
そして、赤子は『天使』であり、看護師は『天草マヒル』だった。
「だから私、助けることにした――聖女になるからには、情けをかけなきゃいけないって思ったから」
一気に話しきったマヒルは、ふっと、苦しそうに息を吐く。
「聖人や聖女を産めれば、ますます特別になれると思ったんだけど――結局どの赤ちゃんも普通の人間で、この二十年間ずっと傍に居たのは天使だけ。この国の聖人を増やすことは出来なかった」
「じゃあ……なんで、その子を自由に出来ないんだ。せめてもっと、ちゃんとした教育を」
「あなたが近衛家から逃れられないように、私達もBABからは逃れられないの。だってあなた、この二十年でBABがどんなに発展したか、信徒をいかに増やしたか知らないでしょう? 今や欧州からもお偉い宗教指導者がお出でになって、大金はたいて天使の蘇りを拝んでいくんだから――」
陽は、今や落ちかけていた。
けれど天使と飲み始めた時より蒸し暑さは増していて、これからの酷暑を予感させた。
「BABはもう、聖人や聖女なしの頃には戻れないわ」
「……じゃあ、マヒルさんは。天使は。これから、どう生きるって言うんですか――まさかずっと、このまま?」
「――……ずっと同じなんてこと、ある訳がないわ」
腹を押さえるようにして、マヒルが自身の内ポケットをまさぐった。
黒くて、硬いものをジャケットの中で、僕だけに見えるようにちらつかせる。
――拳銃だ。
「もしも聖人か聖女を産めたら、すごいことよ。もう任務なんて一切やらせなくなるでしょうし、蘇りの力も使わせず、毎日、毎日、家族を増やす為だけに生きられる――お相手の男性が愛した人なら、こんな幸せ他にないじゃない? 私もね、あったのよ。……この人との子がそうだったら良いなあって、相手。……何人か、ね」
「でも、それは、」
「だから私、調べたの。この為だけに欧州の言語—今話されているものは勿論、挙げ句の果てにはラテン語まで覚えて、昔の文献を隅から隅まで漁ったの」
「――そうしたらね、聖人と聖女が子どもを作れば、能力を継承するって記述を見つけた」
「……!」
「私、ちゃんと上にかけあったの、もし、ユウグレくんと天使が夫婦になって、子を成して、幸せな家庭を作って、聖人や聖女を増やせたら、全員が幸福になれるって」
「……それは……」
そんなものは、夢物語だ。
僕は女性を抱けないし、そもそも今の話が事実なら、僕と天使は完全なる近親相姦、子を作るなんてそれこそ許されない――
「ふふふふ、そんな顔しないでよ。分かってる、上手くいく筈なんてない! ……それでも私、ほんの少しでも可能性が残っているなら、賭けたかったの」
「どんなに綺麗事でも、みんなが幸せになる可能性に、賭けたかった――」
マヒルは拳銃を握ったきりだった。
けれど僕に殺意を向けるでもないその感じは、とてつもなく不吉な予感を抱かせるには充分だった。
「――BABホテル会長・一宮レイジが天使に興味を示している」
あえて淡々と話すのは、この人にとって苦手分野なのだ、と思った。
その能面のような表情が、色の感じられない声が、全身で嫌悪を伝えている。
「近衛ユウグレとの性交渉と互いの合意が認められる場合、しばらくは経過観察とするが、性交が不成立の場合、近衛ユウグレを新たな『聖人』として扱い、天使は会長付きに『払い下げ』となる――」
……払い下げ。その単語が持つ事務的な暗さに、酒で火照った頬がひやりとする。
「これが、上層部と交わした契約。蘇りの力に陰りが出ている以上、天使を第一線で使い続けるのは難しいの。――早く、子作りに集中させたいみたい」
「その、一宮レイジって人は、良い父親になるんですか」
「そんな訳ないじゃない、ただの変態エロ親父よあんな奴! 私だって昔、散々迫られて大変だったんだから。個人的な所有物としておもちゃにされるに決まってる」
「あ、なるほど。そういう……」
……不謹慎と思いながら、あまりの剣幕と『変態エロ親父』というやや古びた響きに脱力しそうになる。
(そうだ、この人本当は四十ウン歳なんだっけ……)
ちょっとだけ、言葉が古い。
……この人が、本来の年通りの口うるさいオバサンだったら、もう少し好きになれたのかも、しれない。だって、そういう人のラジオ、昔よく聞いてたし。……お悩み相談に投稿するくらいには、嵌まってたし。
「――……。マヒルさんは」
素朴な疑問が、口をついて出た。
「天使がもう、聖女として扱われなくなるなら、これからどうするんですか」
「……私はもう疲れちゃったの。BABに残ることは出来るだろうけど、別にもうやりたいことも無いし、未来への期待だって特に何も……」
「――。え?」
拳銃が、沈みかけの夕陽を浴びて鈍く光る。
マヒルは、自身のこめかみへと、銃口を突き付ける。
「……何、するつもりですか。また明日、0時に蘇ったら僕は、何を」
「聖人や聖女に、蘇りの力が使えないのは、病死とか自然死の時だけじゃないの」
「え」
「死にたい、って思ったら。自殺したいって思って自ら命を絶てば、もう蘇らないの。BABの前身となる組織に居た聖人は、自ら命を絶った記録が残っていたから本当よ」
……ああ。夕暮れが、終わってしまう。
日が沈む。夜になる。
僕は、その場から動けない。
「……だから、あなたが駐車場で死のうとした時、天使を犠牲にしてまで止めたの」
「――っ、と、待って下さい。それを、天使は」
「知らないわ。これはね、ユウグレくんに私が残す呪い――私達にだって、いつでも終わらせる権利はあるの」
「なんで、そんなこと、僕にだけ」
「――それはね、簡単よ」
「私の娘には、死んで欲しくないから」
耳をつんざく、乾いた音がして。
「マヒル様あああぁっ……!」
彼女がこめかみに銃口を突き付けた時から車を出ていた、運転手の男が駆けてくる。
それを合図に、公園の前の道から後ろの階段から、一斉に人が現れ、公園を封鎖した。
中には警官らしき制服を身に着けたものまで居る――これが、BABの力か。
目の前の死んだ彼女や、ベンチで何も知らず寝入る彼女によって発展した、力なのか。
「――ふにゃ、ぅぅ……んー……なに、……ですかー」
「っ……」
咄嗟に、何も見せまいと彼女の目元を手のひらで覆う。
「……もう少し、寝てて」
「んう、でもー……いつまでも、ダラダラしちゃ、だめですよーって、マヒルが」
「……マヒルも、許してくれるよ。誕生日なんだから」
天使とは、呼びたくなかった。
天使と呼んでしまうと、その相手は人間ではなく、人ならざる力を持った信仰の対象となる。
……僕の妹なら、本当の名前がある筈だから。
彼女には産みの親も育ての親も居るのに、僕はそれを知っているのに、……単なる聖女様だと、天使だと思いたくない。
「あぁー……、そー、ですねー……」
「はたちはー、一生に一回、ですもんねー……」
「――ユウグレ様、天使様から離れて。こちらの車にお乗り下さい」
「……。分かりました」
どうやらマヒルが、全ての手配を終えていたらしい。
知らない男に呼ばれ、僕は立ち上がる。
ベンチの上には、飲みかけのレモンサワーが、食べかけのシュークリームとチョコレートが、アイスやポテトチップスの残骸が打ち捨てられている。
――生温い夜風が、首筋を撫でる。
黒いパーカーを着込んだ少女には、暑すぎる夜だ。崩れ落ちた女の遺体を照らし出すには、明るすぎる夜だ。
「……何だよ」
「結局、自分で決めないといけないのかよ……」
ただ、誰かが生きる理由を与えてくれれば。
何の意味もなく呼吸を続ける自分を、許せる気がしたのに。
――僕は今、僕の意志でここに立ち、生き続けている。




