23話:何でもない街、何でもないこと
――駆け付けた警官が一人だったこともあり、足を止めると周囲は誰も居なかった。
早朝の住宅街は静まり帰り、夏の清潔な陽射しがゴミ捨て場までも明るく照らしている。
「あのおばーさん、元気なのか元気じゃないのか、分からなかったですーね?」
「……うん」
「わたしを見たらあんなに叫んで、立ち上がっちゃいそうな勢いでしたよーっ」
罵られたことは分かっているだろうに、天使には何の影もなかった。
「大丈夫……なのか。さっき、全然悪いことしてないのに、あんな」
「いーんですよっ、それでおばーさんがスッキリするならー。ああいうひと、よくありますーよー」
……まるで、それが日常のような口振りだった。
「……まさか、天使ってだけでなじられたり、傷付けられたりしてるのか」
「んー、いろんな人がストレスなくなって、BABを信じようって気持ちになるって。マヒルもずーっと、がんばってきたですーよーっ」
――祈りも、中傷も、死も、蘇りも彼女には普通で、日常の一片なのだと思うと、ますます呼吸が苦しくなった。
「言ってることは分からなかったですけどー。きっと、辛かったんですよねーっ、ずーっとー」
(僕が産まれて、罪を犯して、ずっとそれを抱えているとしたら……)
僕は今年の七月で、二十歳になる。
……そういえば、殺人の時効は撤廃されたけれど、傷害致死の時効は確か今、二十年だったような気がする。
(じゃあ、僕が誕生日を迎えれば、近衛ユリノも少しは罪に怯えなくていいのか――)
(――あれ?)
シンヤと心中を決行したのは、七月始めの平日だった。
そこから溺れては生き返り、助けられては鎌倉と都内を行き帰り、父親を殺しに行ったり結局今天使と逃げていたり、色々あって、それで、結局――
「……今日、七月何日か分かる?」
天使は日付を朗々と述べた。何故だか楽しげな様子だった。
「……。今日、誕生日だ。僕の」
「ええっ!? 本当ですかー、わたしもでーすーっ!」
「え、嘘——……」
「ほんとーですよっ、おたんじょーび。マヒルがおしえてくれて、マヒルはわたしが産まれた時から一緒ですから」
「……ちなみに、それって何年前」
「二十年前、でーすよーっ」
天使は、どうということもない様子で、にこにこ笑い続けている。
「――……同い年?」
「知ってた、ましたーっ、よー。同じ年の同じ誕生日なんて、運命ですねーっ……なーんて」
一体、何の因果だろう。
二十年前の同じ誕生日に、母親似の美少女は産まれたと言う。
心を病んだ義理の母は、母親を、女を根絶やしにしたと言う。
父親は、『愛した女たちを失った』と言う――――
「このおうち、ひとつひとつに家族が住んでるんですよねーっ」
「――――え」
陽が、凡庸な住宅地を照らしている。
天使は、狭い通りに連なった一軒一軒の家々を眩しそうに眺めた。
「わたしのおうちは、ずっとあのホテルです、ますから――ふしぎーっ」
「……こういうところに、住んでみたい?」
「そうですねー、ユウグレのおうちは、ちょっと大きすぎましたねーっ」
「これくらいのサイズなら、マヒルと、ユウグレと、ちょうど楽しく暮らせそうです、なんてー……」
……密集して寄せ集めた無秩序な街並みが、その中で佇む少女が、かけがえのない景色に変わる。
スキップするように飛んで歩く天使は、何故だか終始楽しそうだ。
「そんなに、良いことでもあった?」
「だってー、にじゅっ歳の誕生日に、ユウグレとふたり、何もしなくていー、ですーよ?」
「……!」
「さいこー! でーすーっ」
出来損ないのマスコットみたいな声は、ご機嫌だ。
どう考えても二十歳には見えない笑顔が、きらきら、光る。
(――こんなんで、楽しいのかよ)
(自分のこと好きにならない男と、何もない住宅街歩いて、戻ったら絶対マヒルにも怒られて、……いや、下手したら怒られるくらいじゃ済まないかもしれないのに)
ずっと失われてきた近衛家の真実が、少しずつ見えて来た、気はしている。
だけど今、そんな過去とも出自とも家とも一切関係ないところで、叶わない恋を抱えた少女はからりと笑っていて――
(――ああ、もう)
本当に僕は、どうしようもない奴で。
「……なら、少しだけお祝いする?」
「ふえぇっ!?」
「いや、その。盗んだ千五百円しかないから、コンビニで何か買うとか、それだけなんだけど」
「コンビニ、行ってみたい、でーすー! 行ったことない、でーすー!」
「……え、ないの」
「はーいー」
ほんの少しの良い思い出になろうとして、不用意に彼女の『はじめて』になってしまう。




