22話:真実と推測
「……」
老婆の視線が、僅かにこちらを向いた――気がする。
「あの、どなたでしょうか」
車椅子を押していた女性が、怪訝な表情で僕を見る。
「息子の、近衛ユウグレです。どうしても、義母と話したくて来ました」
「そうでしたか。申し訳ないのですが、当ホームの面会は事前予約制になっていて、」
「お義母さん。あなたが精神病棟に入れられたのは、僕が産まれて黒崎アサヒが死んだ日です」
「…………」
実母の名前を出した途端、石のように固まっていた表情が、はっきりと歪んだ。
「若すぎる出産が原因で黒崎アサヒは死んだ。あなたは子に恵まれなかったから、長男の誕生に精神を病み、それ以降はずっと隔離生活……そう教えられてきたけど、産まれた初日に強制入院なんて、考えてみれば手際が良すぎる」
「ちょっと、あなた――!」
車椅子を押していた女性が、困惑したように、か細い声で反論する——
僕が老婆に近付くのを、止めはしない。止めるほどの情は無い、厄介事に巻き込まれたくは無い、そう言った風だ。
「教えて下さい。黒崎アサヒが死んだのは、本当に出産が原因なんですか。それに、死んだのは黒崎アサヒ一人ですか?」
「――う、ゥ」
皺の刻み込まれた両の手を耳に近付け、老婆が顔を顰める。女に押し付けられていた花が、地に落ちる。
「あの父親が……近衛アキヒトが死なせたくなかった人間が、『愛した女たち』が、他にも居るんじゃ」
「おい、いい加減にしなさい!」
背後から近寄ってきた男の職員に、強く腕を引かれる。
「ッ――」
呆気なくバランスを崩した僕は、倒れ込んで――
(あっ)
「キャアアアアあああ!!!!」
血塗れのサバイバルナイフがズボンから飛び出す――女性職員の悲鳴が、響いた。
「イヤァァァ……!」
「おい、入居者の避難が先だろ!」
「警察、警察……!」
(僕、まだ何もしてないんだけど……いや、今のは『した』に入るのか)
コンマ数秒、ぽかんと座り尽くして、ナイフを持って逃げなくちゃ、と思い当たったところで、車椅子の老婆が、ふっと顔を上げた。
……そして。
「ひぃ、ぃぃぃぃぃ――」
まるで悪夢でも見たかのような、恐ろしい呻き声を漏らす。
車椅子を押していた女性はとっくに逃げて、老婆はそこから動けない。
(ナイフは、見てない――その先――?)
老婆の——義母の見ている方を、振り返る。
「――ユウグレー……」
……天使。黒いだぼだぼのパーカーを身に着けているせいで、純白のプリーツスカートがとんでもなくミニ丈に見える。
その下の白いスニーカーは赤黒く染まっていて、どこかアンバランスな印象だ――
「来るなって、言ったのに」
「でも、ユウグレ囲まれてて、大変そーですから――」
「――……蘇ったのか」
(! 喋った……!?)
「悪魔め。厚顔無恥にも、地獄から、舞い戻ったのか」
「……。はいー?」
眼球が飛び出すくらいの勢いで、老婆は天使を睨み付けた。
「あの小汚い娘は、私が殺してやったのに! 地獄に突き落としてやったのに! 女を根絶やしにしたのに、男だけ見逃してやったツケが来たか、呪われた双子め……!」
「ふたごー? このおばーさん、何ですかー?」
「――――……」
ふっと、幼き日の会話が、フラッシュバックする。
十年以上前の、暖かな春の日。
僕は父親に連れられ、この公園で義母と会っていた。
『――母さんは心の病気で、自分に子どもは居ないと思ってるんだ』
『じゃあ僕、居ないの……?』
『――そうだな。母さんの前では、遠縁のよく出来た優しい子どもだ。出来るだろう』
『……うん、わかった……』
(事実はどうあれ、近衛ユリノは、自分が黒崎アサヒを殺したと思ってる)
(そして女を根絶やしにして、男だけ見逃したと思ってる)
……黒崎アサヒ一人を殺しただけで『根絶やし』と言うだろうか。
(でも、呪われた双子って、何――)
「おまわりさん、あの子たちです、早く!」
(!)
公園の向こうから、職員に連れられ警官が駆けてくる。
ちょうどワゴン車のある方で、そっちには戻れない――
「――あのひとたち、殺しますー、です?」
「っ、いいから。何もしなくていいから――走れ!」
「ほあ!?」
置き去りにする訳にもいかなくて、天使の手を思い切り引いた。
「君達、動くな……! 止まりなさい!」
「っ、ユウグレ――」
「話は後! とにかく、逃げろ――……」
僕よりずっと運動神経は良い筈だけれど、少女の歩幅は狭すぎて、結局走る速度は同じくらいで――
「はぁ、はっ、は、……はぁ……」
「……っ、は……ふぅ、はぁ…………」
僕達は手を繋いだまま、滅茶苦茶に走った。
天使の手はじきに汗ばんで、熱くて、互いに息が乱れて、…………
彼女は造りものの人形なんかじゃない、勿論天使でもない。
生きている人間、そのものだ――




