20話:天使と逃避行
5. 天使と逃避行
物心ついた時、既に天使は天使として扱われ、期待の聖女だった。
そして、マヒルはお世話係で『聖女の先輩』でもあった。
――『私達には、家族が絶対に必要なの』
――『私達聖女なら、きっと死を克服する聖人を、聖女を産める筈よ』
その言葉通り、天使が大きくなるまでの間、何度も何度も何度も何度もマヒルは子を孕んだ。
しかし一度も、その子が育ったところを天使は見ていない。
そしてある日を境に、マヒルは聖女として扱われなくなった。妊娠もしなくなった。
天使が尋ねてみたところ、『私は駄目だったの』と手短に答えたらしい。
「だからわたしが、たったひとりの聖女さまになったですよー。家族がほしいっていうのも、元々はマヒルの夢なの、ですよー」
都内の大きな幹線道路であれば、道案内の看板はいくらでも出ている。
夜明け前、少し白み始めた空の下、天使は僕の言った通りへの方向へと車を走らせていた――
情けないけど僕は運転も出来ないし、そもそも免許を持っていないから(それで言うと天使も持ってはいないだろうが)、完全に陽が昇ったら車は乗り捨てよう、とぼんやり思う。
「わたしが家族を作ったら、マヒルも、ホテルのみんなも、全員喜んでくれるんでーすー。ほんとの家族じゃないってなったら、やりなおしだけど……でも、マヒルは、ずっとやりなおしで、わたしも、この前はやりなおしで。いちいち落ち込むことじゃないって、ですーよ」
「……」
何の影もなく、明るく話す姿が逆に痛々しい。
天使の腹に残った痕を思い出すと心苦しいが、今は少しでも真相に迫りたかった。
「……結局それって、BABグループが聖人と聖女を増やしたいって話じゃないか?」
「ほぇ――」
(『親から子に聖人や聖女の能力が遺伝した例は皆無に等しい』ってマヒルは言ってたけど)
「だって、殺しを乗り越える力なんて普通じゃない――誰だってそんな能力、欲しいに決まってる」
(……いや、違うか)
(誰だって、そんな能力を持った人間を配下に置きたいに決まってる——)
マヒルの言葉を信じるならば、実際に聖人や聖女が政財界を動かしていた時代もあるらしいし、今だって戦争や要人の暗殺、その他数々の非合法な活動には打ってつけの優秀な人材になるだろう――
「――歴代の聖女に期待されたのは、能力を受け継いだ子を造ること。普通の子は要らないから、産まれた直後に躊躇なく殺す」
「うーん……でも、そういうことで、マヒルも頑張ってたですー……だから。みんな喜んでくれるなら、いーですよー、わたし?」
「そう、――……」
産まれてきた瞬間、勝手に殺される命を考えると陰鬱な気分になるが、今論じても仕方ない。
冷静に、状況を整理しようと努める。
「さっき言ってた、マヒルが聖女として扱われなくなったのっていつから?」
「んー、っとですね、たぶん二年前とか……? 三年は経ってない、ですねーっ」
「マヒルが引退して、天使の負担は増えたんじゃないか」
「それより昔はマヒルが頑張ってくれた分、沢山ありますからー。それにー、血げぼげぼってするようになってから、ほんのすこし危ないおしごと、減りましたよー?」
――二年前、マヒルは子どもを諦め、聖女からも引退した。
代わりに天使の仕事が増えて、一年前から蘇りの力に劣化が出始めた。
――そして。
「――一年前の春、僕はシンヤと出会ったんだ。BABグループからの依頼で、声をかけてきたんだと思う」
「シンヤ……? です?」
「あ、もう無理にですますとか付けなくていいから――シンヤは、僕の恋人だったひと」
「……ふえ」
「天使と初めて会った時、一緒に居たひと。……覚えてない?」
極めて自然に言おうとしたけれど、やっぱりその声は情けなく震えた。
「……。男のひと、ですー?」
「そう」
「……。赤ちゃん、出来ないですー?」
「そう。……あ……次のとこ、左だと思う」
「はーいーっ、サセツする、ですー」
「…………」
天使は気にした様子もなく、ハンドルを握り続ける――
「……。子どもを作るだけが、家族じゃないって僕は思う」
彼女は気にしていなかったのに、そう言いたくなったのは僕の意地だ。
……本当は、亡き父親に伝えたかった言葉。
「なのですかー?」
「……だと、思いたい」
「ですかねー……?」
「本当のところは、僕も分からない。でも……とにかく、子どもを産ませる為に、僕と天使は引き合わされた。そういうのは、運命って言わないよ」
刻一刻と、車窓の景色は明るさを増していた。
対向車の目が、気に掛かる――多分、そろそろ限界だ。
「わたしよりシンヤが、好きですー、かー?」
「……。好きだった。ごめん」
「じゃあ、シンヤとユウグレは運命ですねーっ」
「え」
「出会った理由はなーんでも、好きになれたら、運命じゃないですかー? マヒルはずっと、そう言ってたよー、ですー」
「――――……」
まずい、何だか染みてしまった。
きっと、マヒルが自身の境遇を慰める為に産み出した言葉だろうけど……
(……今、僕とか、この子の個人的な感情は脇に置いておいて)
(問題はどうして、BABが僕に目を付けたかってことだ)
憎き近衛アキヒトの息子で、実母がヒルコ病で家族を亡くした黒崎アサヒである以上、公害病の患者達にとって僕は目立つ存在だっただろう。
(でも、マヒルが聖女を引退してから、BABはシンヤに金を払って、僕を溺れさせて、天使との出会いを演出して――)
ここまで仕込みをする理由があるとすれば、思い当たるのはただひとつ。
(僕が聖人である可能性が高いと、分かってたんだ)
(でも、どうして……?)
今まで死にかけたことも無ければ、そもそも命の危険を感じたことも無い。
「……なあ。聖人とか聖女ってさ、普通はどうやって見出されるんだ」
「? ユウグレとあんまり変わらないよー、ですよ。……うーん、やっぱりですますがしっくりくるですねー……」
「……。いいよ、天使がしっくり来る喋り方で。……で、僕と変わらないっていうのは」
「ふつーなら死んじゃうくらいの事故とかにあったのに、生き返っちゃってパニックになっちゃうですー、とか」
(……物心がつくまでに何かあれば、いくら父親が揉み消しても、周囲の噂で嫌でも聞いてる筈だ)
ゴシップが大好きな同じ学校の保護者も使用人も知らない、父親も僕には話そうとしない。
けれど、僕が聖人だと分かるような出来事があったとすれば。
(今から会いに行く人に聞くしか、もう――)
「!」
すれ違った車の、助手席に座った女性がスマホを掲げた――こちらにレンズを向ける姿勢は、間違いなく何かを撮影している。
(単純に、セーラー服の少女が車を運転しているのがおかしかった? それとも、BABの関係者に連絡が回ってるとか――)
実家は今頃、計画通り焼けているのだろうか。
それとも、僕が死んでいない以上、あのまま放置するのか……どちらにせよ、時間に余裕はない。
「もう少し進んだら、公園があるから。そこで車から降りて、歩いて行くから」
「はーいー。これ、持って行ってもいーですよねー?」
天使が片手でハンドルを捌きながら、器用にもダッシュボードの小銭入れを開ける。
小銭が無造作に入っていて、数えてみると、千五百十円――
「……ふ、はは……」
――あまりにも出来すぎた金額で、思わず笑ってしまった。
久米川駅から鎌倉経由、江ノ電に乗って腰越駅で降りたら片道ぴったり千五百十円。
そんなにするんだ、とシンヤが拗ねたように言ったことさえはっきり覚えている。
「どうしたですー?」
「いや、ごめ……死にに行った交通費がそのまま逃亡費用になるとか、変だなって」
「トウボウ――する、ですか?」
広々とした公園に、ワゴン車が滑り込んだ。
「――別れよう。携帯電話でマヒルに連絡して、合流してくれ」
「……ほへ……」
公園の真ん中にある大きな樹木には、青々とした葉が茂っていた。
ざあっと風が吹き抜けて、梢を揺らしていく――
沈黙が落ちた車内で、天使の真っ白な髪はだらりと垂れたまま、動かない。
「――ここまで、ありがとう。君のこと、都合よく使ってごめん。後、今からお金盗んで行くけど……ごめん」




