2話:天使と僕
「……お待たせ致しました。……この電車は、長谷・江ノ島方面、……」
駅を発つ路面電車のアナウンスが、二両編成の列車に響く。
「海、見えないかなぁ。まだかなぁ」
「……まだ、駅出たばっかりだし」
「とか言って海探したでしょ、今」
「それは一応……」
録音のひどく単調な声すら観光客や僕らを心躍らせるには充分で、横向きにしたスマホを構え始めるグループすら居る中で、地元の人らしきお婆さんはぐっと下を向いていた。
「結構、乗るんだっけ。この電車」
「それなりにねぇ。だから海も、そのうち見れるよ」
「……そう」
彼女らを視界から外すようにして、恋人に向き直る。
僕らは他大勢の乗客と同じようにはしゃいでいて、お婆さんからは周囲と同じ観光客に見える筈だ――
たとえ、僕の鞄に大量の睡眠薬が入っていたとしても。そんなもの、他人には分からないのだから。
「人、多いねぇ」
「うん。……何か、予想以上」
まだ七月の始まりで平日の午後、今にも降り出しそうな厚い雲が広がっているのに、薄暗がりの車内では各々が楽しげに、他人の楽しげな声に負けないように、声のトーンを高くして喋っていた。
彼ら・彼女らは列車の片側へ、何故か集まっている。逆側の座席は空いているのに、立っている人も珍しくない。
「――ねぇ、見て。これ」
恋人は、画面の右側が割れたスマホを僕に掲げた。
「『進行方向から右に座ると、海一面を見ながら乗車できます』って」
「……そういうことか」
「みたいだよぉ」
何度も『いい加減修理したら』と声をかけ、『いくらかかるか知ってるの』と返された液晶画面も、今日で見納め。
苦しくない死に方だって、睡眠薬を大量に買う方法だって、恋人がこのスマホで探してくれた。
僕は父親の口座に請求が行くクレジットカードで諸々を買いこんだ。死に際まで情けない自覚はある。
――いくつかの駅を過ぎて、海が見えた。僕らは窓にカメラを向け、灰色の空と海を写真に収める。
――またいくつかの駅を過ぎ、海は見えなくなった。ほとんど同時にスマホを下ろす。
『次は……、…………。お出口は……』
「着くよぉ」
「……分かった」
死に場所を探したのも恋人だった。
僕はなんでも受動的で流されやすくて――というのは父親の言だが、なんでも人任せなところは間違いなくあった。恋人はそれを怒るでもなく、率先して諸々を教えてくれるから、相性も悪くないんじゃないか、なんて――……
そんな関係も、今日で終わる。
まだ、実感はない。
柔らかで機械的なメロディを聞きながら、順に駅のホームへ一歩、踏み出した。
マイナーな駅らしく、僕らの他に降りる人は誰も居ない――
「――――」
恋人がぴたり、立ち止まる。
僕もコンマ数秒、遅れて止まる。
海は見えない。僕も恋人も、同じところに目が釘付けだ。
いかにも地方の住宅街にあるローカル駅といった風情で、寂れた駅舎と短いホームと掲示板、
不釣り合いな整備されたばかりの券売機と自動販売機――そんなものは勿論眼中にない。
一度来ただけで理解した気になってしまいそうな景色、その中に一人、理解しがたい美少女が居る。
無表情でも、はっきり目に映るもの全てが美しいと分かる顔のつくり。
曇天の下でもつやつや輝く、腰まで伸びた真っ白い髪。赤みがかったような大きい目。
数メートルは離れているのに、白いまつげや潤んだ血色の唇や小ぶりの鼻、ひとつひとつの細かなパーツに目を奪われてしまう――人間離れした色素の薄さは、アルビノ、って奴だろうか。襟だけ薄い水色で、後は純白のセーラー服を身に纏い、決して高くない背を真っ直ぐ伸ばし、止まった電車に乗り込もうともせず、宙のどこか一点を見つめている――
彼女と周囲の世界は隔てられ、突如そこだけ宗教画が嵌め込まれたような神々しさだ。
「――天使」
思わずぼそりと呟いた。
ほとんど無意識だった。
隣の恋人にもその声が聞こえたのかどうか、無言でこくりと息を呑んだ。
僕も、恋人も、数秒、身動きもせずに彼女を見つめた。
僕らのような人種でさえも魅入らせる、女がどうとか嗜好がどうとか、そういうものを全て越えた、純粋な造形としての美が有った。
赤い瞳が、僕を向く。
ドアが閉まった。
電車が去って行く音が、ごおお、と、どこか遠くで響く。
列車が、遠くなる。
視線が、交わる。
「っ、……」
「ユウグレ?」
漏らした吐息に、恋人が振り向いた。
――美しい、のに。何故だろう。
一瞬、強烈な既視感を覚えた――きっと気のせいだ。
美少女の目が、見開かれる。視線はずっと、交わったまま……
そして。
「……うげ、やば。です……」
「――……。は?」