19話:最後の家出
「天使を出し抜くなんて悪い子ね。一体、何があったの?」
黒いヒールが視線の先に見え、顔を上げなくても誰か分かる。
「何か気になることがあったのなら、BABホテルで話すから」
僕はと言えば――利き手で、天使からもらったナイフを大事に、大事に握りしめていた。
「来ないで下さい。……僕を、放っておいて下さい」
「あら、あら? まあ――」
頭の天辺から爪先まで震えながら、切っ先を対面に向ける。
彼女は一歩も動かない。
「慣れないことはするものじゃないわ。……それとも、父親の死がショックだったとか、今になって言うつもり?」
「……そういうんじゃない。ただ、どうしても一人で行きたい場所が」
「ほら、こっちに来て」
「っ、あ、」
躊躇なく距離を詰めてくるマヒルに怯み、じりじり後退った——すぐ、実家の塀の際に追い詰められる。
ナイフの切っ先を向けているのに、彼女は一向に怯まない――車のライトが角を曲がって、だんだん大きくなってくる。
「ああ、やっとワゴンが入れたわね。こんなところにユウグレくんが来るから、車体擦るかもって迷惑かけちゃったのよ――」
「……退いて下さい」
「明日、ホテルに戻ってから話しましょう」
「だから、退いて――!」
いくら堂々としてるといえど、若い女性。天使のように戦闘に長けているとも思えない。
だから、ナイフを振り回せば退いてくれると思った。
――なのに。
「っ、ぅ。うう……」
「――――。え?」
サバイバルナイフの先が、女性の腹に食い込んでいて――マヒルが、僕の手を握り身体を寄せる。
「……もう、逃がさないわよ。天使、このままユウグレくんを殺して」
「っ、なんで……!? 何だよ、これ」
「ここまで、来たのよ。あきらめる、わけ――」
「――マヒル様!」
少し離れたワゴンから、運転をしていた初老の男が駆けてくる。
刃の先は女性の腹に確と食い込み、赤い血がゆっくり制服を染めていく。
(何だこれ、何だこの状況、まさか本当に僕、人を殺して、)
「ユウグレーっ」
(……!)
ワゴンの中から、ぴょこりと天使が顔を出した。相変わらず顔は血塗れだ。
「のってくなら、今ですよーっ」
「な、」
「っちょ、ぅぅ、天使、なんで……!」
「マヒル様、どうか無理は――!」
迷っている暇はなかった。
ナイフから手を離し、全速力で男の脇を駆け抜けワゴンに乗った。
「出てくれ、早く!」
「いきまーすーよっ」
天使は小さな身体をいっぱいに伸ばして、アクセルを踏み込みハンドルを切る――
見事、ワゴンは壁を擦りながらUターンし路地を出た。
「……! 、……! 裏切り者っ、……!」
鬼のような形相で叫びながら男が追ってきたが、すぐに見えなくなった。
蹲ったままの、マヒルの身体が遠くなる――サバイバルナイフは、腹の深いところまで食い込んでいた。
「……いいのか。今の行為は完全に、マヒルに逆らうような、」
「ユウグレが行きたい場所、行けた方がいいかなーってー。それに、マヒルもユウグレに好きになって貰うように頑張れーって、ずっと言ってくれててー……」
ボートを操縦するような少女だ、どう考えても免許を取れるような年齢じゃないのに車を運転しているのは……
(いや、お互い人を殺した後に、何考えてるんだ)
率直に言うと、もう軽犯罪なんか構ってられるか。
「……それに、ユウグレのおねがい叶えたら、好きになって貰えるかなーってー……」
「っ……」
ハンドルを捌いているのは血を拭いた痕が頬に残る美少女で、健気な年相応の台詞はひどくだみ声で……
「多分もう、そういう段階じゃないよ。だって僕は、マヒルを刺した」
「あー、はーいー」
わざと露悪的な声を出したのに、天使の返事はひどく呑気だ。
「さっき、痛そうでしたねーっ」
「っ、正気か!? 君にとって大切なマヒルが、もし死んだら」
「? いーじゃないですかー、死んじゃった方が」
「……は?」
「……ほえ?」
話が通じない、とはこういうことか。天使も僕も、お互いの感情が全く分からない。
「……あー。もしかしてユウグレ、知らないの、ですかー?」
車は表通りへ戻り、天使はアクセルを踏み込む――
すれ違った対向車が、ギョッとした顔でこちらを見ていた。
「マヒルは元々、聖女さまなんですよー。今はちょっと、引退してますけどー」
「……な、」
「だから、どんどんどんどん死んじゃった方が、元気に蘇るから、いーんですー」
まるで何でもないことのように、マヒルは運転を続ける。
「……ところで、これからどこ行けばいーですかー?」