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16話:母親と僕

 ……幻聴、だろうか。

 予想だにしなかった父親の声が聞こえてきた。


「本当に、良かった――」


 (うわ、ついに幻覚まで現れた)


 いやいっそこれが夢かもしれない、あの近衛アキヒトが、磨き上げられた玄関ホールの壁に寄りかかり、両手で顔を覆っている――

 有り得ない。


「アキヒト様!?」

「っ、お坊ちゃま……戻って来て、下さって」


 警備員の足立が父親に駆け寄り、使用人の中野は感極まったように口を押さえる――

 何だろう、このホームドラマばりの寒い光景は。


 僕はまだ厚い扉を支え呆然と立っている、それだけで精一杯なのに、勝手に感極まった風になって、散々僕を否定し支配してきた暴君が、声まで震わせていて――


「よくぞ、戻って来てくれた。愛した女たちを失い、残されたお前まで居なくなったら、俺は、」


 ――グループホームで暮らしている正妻に、愛情らしきものが残っていないのは知っている。

 それなら、僕を残して居なくなってしまった実母が、僕にとっては写真の中で微笑むだけの少女が『愛した女たち(・・)』――?


(なんで、複数系?)


 最初の衝撃さえ超えてしまえば、思ったより早いタイミングで頭が動き始める。

 ガウンを着込んだ父親の手には深い皺が刻まれ、シミが点々と浮き出ている。頭頂部はまだ生えそろってはいるものの髪は白く、腰を丸めた佇まいは随分と弱々しい――


 そうか、この男はもう七十歳だった。


「お坊ちゃま。中に入って、アキヒト様の手を握って差し上げて下さい」


 いつも僕を叱責していた中野は、今や中年太りした腫れぼったい瞼をくしゃくしゃに歪め涙を流している。


「アキヒト様はご自分が居なくなった後のお坊ちゃまをずっと案じていらっしゃったんです」

「おい、言うな」

「いいえ、今だけは言わせて下さいませ。お坊ちゃまが入り浸っている相手の身元が怪しいと気付いて、どうにかお坊ちゃまを傷付かせずに止めようとしていたのに、結局行方不明になってしまって、どこで脅され売り飛ばされているかと心を痛め、」

「っ――ちょっと。ちょっと、待って」


 僅かに産まれた、老いた父親への同情が一度に引いていく。


(僕が、入り浸っている相手って。どう考えても、シンヤ――)


「――勝手に、調べてたのか。僕が、付き合ってる相手のことを」

「当然だろう――あの男は、週に何度も男相手に身体を売っていた。それで日々の暮らしや学費を賄っていたんだ」


 ――聞きたくない。


「だがな、ある時を境にぴたりと売春を止めた。いつ頃からか分かるだろう」


 ――ああ、本当に聞きたくない。


「お前と出会って、数ヶ月が経った後だ」


 ――もう何も聞きたくないのに、僕の身体は扉を開けたきり指一本も動かない。


「あの男は、お前の情報を売って金にしていた。金を出した奴の目的は知らんが、近衛の家を害するためだろう」

「……お坊ちゃま、アキヒト様のご心労が分かったでしょう。聞かせて下さいまし、この一週間と少しの間に、一体何があったのか」


 シンヤが、僕の情報を金に換えていた。

 ……それが本当だとしたら、シンヤの情報を買った相手の目的は、近衛の家を害する為……?


(いや、違う(・・)


 僕が持っている近衛家の情報なんてたかが知れているし、実際、シンヤに父親や実家について話したことは殆どない。

 それに、僕のセクシャリティが公にされたとして、同性愛者であることをネタにして貶められるような時代じゃない——尤も、近衛の親戚連中は違うだろうけれど。


「何も言わないなら、話してやる」


 もしも……もしも、父親の主張が事実で、シンヤが入手した、僕の情報に金を払っている相手が居たとして。


(そんな相手、正体は分かりきってるじゃないか)


「あの男が金を受け取っていたのは、西洋の怪しげな宗教団体絡みの会社だ」


 僕自身を知ることに、価値が有ると思っている人間なんて、まず居ない。


 万が一、億が一にでも居るとしたら――


「BABグループ。宿泊業の蓑を被って、不動産やら貧民の保護やら、怪しげな事業に手を出してる得体の知れん会社だ」


(――ああ。聞いてしまった)


 けれど、BABグループがヒルコ病患者の支援をしているのなら、内部にもマヒルをはじめとする遺児が居るなら、シンヤがヒルコ病なら、何の不思議もない。


 シンヤに頼んで、大金と引き替えに僕を殺すように持ちかける。

 死ねばそれで終わりだし、警察の伝手でいくらでも証拠隠滅は請け負える……父親との不和が原因で自殺した浪人生なんてニュースにもならないだろう。


(そして、僕が『聖人』だと知っていたなら……知らなかったとしても、『聖人』である可能性があると気付いていたなら)


 シンヤに僕を殺させた後、もし蘇って『聖人』と分かれば、すぐ迎えに行けば良い。

 ……あの時、天使が僕を迎えに来た時が。まさに、それだ。


 シンヤはきっと、今後の生活は保障される。

 金銭面の不安もなく大学生活を続けられる。

 男子学生ひとりが生きていくのに充分なお金なんて、BABくらいの企業にとっては痛くもかゆくもない筈だ。


(そうだ、シンヤは孤児で、胎児性のヒルコ病だった)


 公害病の被害者支援を、数十年にわたり続けている、とマヒルは言っていた。


 ……そして、マヒルも天使も、ヒルコ病により人生が変わったと言っていた。


(どうして、あの時点で気付かなかったんだろう)


 ヒルコ病と、近衛家の因縁。

 僕の周囲に現れた人達の、奇妙な一致。


(いや、気付きたくなかったんだ)


 だから、何も考えようとせず、誰かの望む自分になる為、ここまで来た。


 ……足元が、ぐらつく。

 もう、今の姿勢を保つことすら難しくなる。


「こっちもあの男の身柄を捕らえ、BABの正体を掴もうとした一歩手前だった。ユウグレ、お前さえ出て行かなければ」

「ッ――もう、何も聞きたくない。話したくない」

「お坊ちゃま……!」


 中野の、金切り声が響いた。

 それと、同時。


「ぅぐあ……っ」


 黙って老いた当主の身体を支えていた、警備の足立が崩れ落ちた。

 コンマ数秒遅れて、首から噴き出る鮮血――武骨な筋骨隆々の身体が、呆気なく崩れ落ちる。首の動脈を、斬られている。


「ぎゃあ――――――」


 悲鳴をあげる隙すら殆ど与えられず、中野も倒れた。


「ぅ、ごぽ、が、……」


 獣のような呻きとともに、突っ伏した身体は動かなくなる、血が滝のように溢れ出す。


「お、ぉ……」


 尻餅をついた父親は逃げようともせず、サバイバルナイフを振り上げる天使をただ見上げ、吐息を漏らしていた―――


「っ、ゃ―――止めろ!!」

「へっ」


 僕が叫んだのと、天使がナイフを振り下ろしたのが同じタイミング。


「っ、と、ぉ――」


 少女の振るった刃の切っ先は、ほんの僅かなところで老人の喉元をすり抜け、空を切る――


 数秒遅れて、皺が刻まれた片頬から赤黒い血が流れ出した。


「どうしましたかー?」


 こちらを向いた天使のセーラーは、赤い血がべっとりこびり付いている。

 ……純白の制服に鮮血は実によく映えて、怖いくらいの美しさだ。


「遅くなってごめんなさいーです、大人のひとがいっぱいいたので、ちょっと、時間がかかっちゃってですねー、でも、どこにも連絡されてないと思う、ですーよっ」

「……止めて、くれ」

「えーっ、どうしてー、……です?」

「頼む、止めて…………」


 全身が、わなわなと震えていた。

 けれど崩れ落ちることも、土下座をして懇願することも出来ず未だ扉に身体を預けている――僕は、無力だ。


(――どうしよう、どうすればいいんだ、もう何も見たくない、聞きたくない、全部嫌だ――)


「観音、菩薩さま」

「ふぇっ?」


(――は?)


 沈黙を破ったのは、父親だった。


 頬から流れ出る血を拭おうともせず、四つん這いになって跪き、両の手を合わせる――

 なんでだ、どうして天使を拝んでるんだ。


「あの世に逝く時、最も会いたい人の姿を取って下さるのが、真実だったとは」


(何を、言ってるんだ)


 死ぬ時、最も会いたい人の姿になる?


 ……僕が見えているのは、血塗れの天使、サバイバルナイフを握った美少女、ただそれだけなのに、……

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