13話:好意の代償
――扉を出て直ぐ、廊下の向かいにマヒルが立っていた。
「あら、セクシーね。そんな姿でどこ行く、」
「……!」
マヒルの言葉に、初めて胸元がはだけていることに気付く――その揶揄するような口調さえも気に障り、詰め寄る。
数センチ先の女を、睨み付ける。癪なことに、ハイヒールを履いた彼女は僕より目線が高い。
「何を怒っているの? ……少しは良い思いが出来るチャンスだったのに」
「っ――あの子が、何してきたか知ってるんだな。お前が、命令したのか」
思い切り胸元を掴み上げても、マヒルは表情を崩さなかった。
「もしも私が強制した、なんて考えてるならとんだ思い違いよ」
「あの子が自分からやったっていうのか」
「あなたも聞いたでしょう? 天使はユウグレくんを運命の人だと思ってるの。それに、彼女は家族を作って幸せに暮らすのがずっと夢で、私はそのお手伝いをしただけ」
「っ、だから。そんな夢、おかしすぎる――あの子に適当な嘘でも吹き込んで、そう信じ込ませたんだろ」
「――……。人の話は最後まで聞くものよ」
こちらが熱くなればなる程、マヒルの言葉は冷たく、鋭くなっていく。
「廊下で大声を出して、天使に話を聞かせる気? あなたの勝手な正義を押し付けて、彼女をこれ以上傷付けるのってどうなのかしら」
「……それ、は」
怯んだ隙を見逃さず、彼女は胸元の手を振りほどいた。
「悪いけど、こちらにはこちらの事情があるのよ――時間を取ってあげるから、少し話しましょうか」
マヒルに案内されたのは、フロントの裏にある従業員の休憩スペースと覚しき部屋だった。
表には昨日と同じ初老の男が控えていて、僕を隅のオフィスチェアに座らせマヒルは部屋を出た――
数分の後、帰ってきた彼女は穏やかな振る舞いに戻っている。
「――天使は他の女性従業員に任せてきたわ。泣いてたみたいよ」
「……それが、何ですか」
「あら、思った以上に攻撃的ね」
「僕にどうしろって言うんですか……」
「分からなかったとしたら、少し貴方は鈍すぎるんじゃない?」
「——本気、なのかよ」
冷静になろうと一瞬敬語に戻ったが、続かなかった。
目の前の女は淡々と喋り続けていて、どこからどう見ても正気だ——それが益々、怖い。
「そんなにあんた達は……子どもを、産ませたいのか」
「天使が子どもを産んでいたって、そんなにショックだったかしら? 全ては天使も合意の上の話なんだけれど」
「その合意を、あんな小さい子にさせるのかよ。合意したって言うなら、父親は何してるんだ」
「今はもう傍に居ない、とだけ言っておきましょうか。それに、産まれた子もすぐ死んでしまったの」
「な――……」
ずしりと、胸の内が重たくなる。
……眼前の女は、何一つ傷など負わず、また、誰にも傷など付けていないような顔で背を向けた。
「ユウグレくん。天使は、普通の子じゃないわ」
マヒルがコーヒーメーカーのスイッチを入れると、コップに黒い液体が注がれていく。
どうやら自分の分しか淹れないつもりらしい……別に要らないけど。
傍らに置いてあったスティックシュガーを、一個、二個、三個、四個、……胸焼けしそうになるくらい注いで、マドラーで混ぜる。
共用スペースと覚しき場所にあった砂糖は、あっという間になくなってしまった。
「天使は現状、我が国唯一の『聖女』で、BABが擁する最も重要な資源――戦略的に使っていかないと、ね」
「資源で、戦略って――もう、何なんだよ。死んだら蘇るってだけで、そんな扱いになるなら絶対協力なんてしない。こんなところ、一秒だって長く居たくない」
「ふふ、そうね。BABの掲げる理念の重要性、天使や私達が何に取り組んでいるのか、そしてその意義――あなたには何ひとつ分からないかも」
「何だよ、それ……」
「弱者の救済」
ミルクなし、砂糖だけ山盛りのコーヒーを、マヒルはすぐに飲み干した。
「――自分のことで精一杯のお坊ちゃまは、考えたことのないテーマでしょう?」
「!」
僕だって、弱者だと言いたかった。
女性を好きになれないだけで、親の望む成果を出せないだけで、いかに虐げられてきたか主張したかった。
けれど、シンヤの言葉が、ふっと頭をよぎったから――
(……『お坊ちゃまには何ひとつ分からないよね』、か……)
思わず、口をつぐんでしまった。
「コーヒー、飲む?」
「……いや、要りません」
「あら、てっきり飲むと思ってスイッチ入れちゃった。飲んでくれるかしら」
「はあ……」
頼んでもいないのに、マヒルは勝手にミルクを入れた。
砂糖は彼女が全部使い切ったせいで、ない――いや、別にブラックコーヒーでも飲めるけど。
マヒルみたいに極端な甘党じゃないし、ミルクと砂糖が適度に入ってた方が飲みやすいくらいで。
「……天使はね、産まれた時からずっと天使だったから。家族に憧れているのは本当よ」
渋々、甘くないコーヒーを受け取る。
彼女は穏やかに、けれど明朗に語り続ける。
「私は昔から一緒に居るけれど、本物の家族になりたいなら、誰かと夫婦になって、子を産み育てるのが一番でしょう?」
弱者救済を掲げる割りに、その口から語られる幸せは随分と旧時代的だ。
少しでも仕返しをしたいような、僕は傷付けられたと主張したいような気分になって、わざと意地の悪い問いをする。
「……あなたは、家族を作りたいとは思わないんですか」
「あらやだ、そんなに独り身って感じする?」
「家族が居るなら、四六時中あの子の傍に居る世話係なんて続けないでしょう」
「ふふ――……そうね。ユウグレくんは? 幸せな家族には憧れない?」
差し出された紙コップを受け取り、口に運ぶ――
ミルクしか入っていないインスタントコーヒーは、やっぱり少し苦い。
「……特には。僕の家のこと、調べてるんですよね……あんなんじゃ、想像出来ません」
「想像出来ないからこそ、追い求めるのよ」
「――え?」
「天使は、産まれた時からずっと一人ぼっちだった。私も、幼い頃に両親が死んで、身寄りもなくて――BABグループのお陰で、今、こうして生きている。私にとっては、この組織こそが家族なの」
マヒルの表情は、分からなかった。僕に背を向け、棚の上からスティックシュガーの箱を取り出している――
予備があるなら砂糖を入れて欲しかった、別にいいけど。
それきりマヒルは喋ろうとせず、僕も黙ったままだった。
けれどこのまま部屋を出る雰囲気ではなく、つい、聞いてしまった。
「……。BABグループのお陰で、って。孤児の支援を、BABはしてるんですか」
嫌な予感がした。
確か、シンヤも捨て子だと言っていたから。
「ええ。特に、公害病の被害者支援は数十年以上にわたって重要なテーマよ」
「――――…………」
……振り返ったマヒルは、今や満面の笑みを浮かべていた。狙いすました顔だった。
忘れかけていた、いや、忘れようとしていた。
自分にとって都合の悪いシンヤの言葉は聞こえなかった振りをして、考えないようにして、やっぱり僕は何も気付けなかった、何も知ろうとしなかった僕のままで、――……
「ああ、安心して。私達は、一族郎党皆殺しにしようなんて思ってないわ」」
「ユウグレくんは、ユウグレくんよ。奇病の発生が報告されていたのに工場からの排水を止めなかったお祖父様とも、住民訴訟を度々妨害して地元に分断を招いたお父様とも違う」
ならば、僕に今それを言う意味はあるのだろうか。
「それに――あなたはお父様と良好な関係とは思えない。彼さえ居なければ、って思う気持ちは私達と同じじゃない?」
「……そんなに、あの人が憎いですか」
あの病の裁判について、僕が知ることは多くない。
補償の金を切り詰める為、病気の認定基準を厳しくした。
一方で地元の有力者に金をばらまき、分断工作をして訴訟の取り下げを狙った。
そして、それから。
それから――
(僕の母親を、不幸にした)
けれど『あの病気』にまつわる不幸は、驚くくらいありふれたもので。
弁解のように付け加えると、大きな公害病は数十年前にいくつかあり、実家の財閥が関わった『あの病気』は、そのうちのひとつに過ぎなくて。
——母親の不幸は、より声の大きな人々の不幸にかき消され、誰も同情する人は居なかったらしい。
「――私の両親はヒルコ病で死んだ。その娘を引き取ってくれる場所なんて何処にもなかった」
「っ……」
そして目の前の女性もまた、ありふれた悲劇に見舞われたうちの一人で。
「BABグループと関係のある孤児院に引き取られて、私の人生は変わった。高校にまで通えたし、立派なホテルに就職出来た。……でもね」
でも、それでもね。
……それでも、時々考えてしまうの。そうマヒルは続けた。
「もしも、ヒルコ病がなかったら」
「風光明媚なあの村で、漁師の父に魚売りの母、都会暮らしに憧れるけど、地元の同級生と結婚して平凡だけれど幸せな家庭を作る――」
そんなもしも、僕だって何十回、何百回と考えた。
――意味はない。
いくら考えたって、夢想したって願ったって何の意味もない。
それはきっと、この人だって分かりすぎる程に分かっている筈だ。
「――今も、国が決めた厳しい認定基準のせいで、苦しんでいるヒルコ病患者が、二世が大勢居る。中には胎児性ヒルコ病って言って、産まれた時から症状に苦しむ同志も居てね」
「……はい」
シンヤはきっと、その一人なのだろう。
突き落とされる前の言葉が蘇って、胸が痛んだ。
(あいつに症状が出ていたなんて、一切気付かなかった)
パスタを一人分ずつしか作れなかったのも、今考えれば料理の動作が遅かったように思うのも、ヒルコ病のせいなのだろうか。
「近衛アキヒトさえ居なくなれば、近衛財閥が国にかけているプレッシャーが弱まる。より多くの患者の救済に繋がる――そう、言われてるの。ユウグレくん」
天使より生温く、白粉を塗ったような柔らかい手が僕の手を包み込んだ。
……咄嗟に沸き立つ不快感を押さえるだけで精一杯になる。
「近衛アキヒトを止めることは、あなたにしか出来ないの。私は今のコーヒーに薬を入れても良かったし、あなたを助けず毎日溺死させ続けて、脅して命令することも出来た。……それでもしないのは、あなたの意志で力を貸して欲しいから」
「……っ」
呼吸が荒くなるのを感じながら、掴まれた手を振りほどく。
「……あの子は、天使はどうなんですか。あの子の親も、ヒルコ病で……?」
「そうね。間違いなく、あの公害で影響を受けた一人で――」
ふいに、扉をノックする音がして、こちらの返事を待たずに戸が開いた。
ドアを開けたのは、さっきまで居た初老の男。
中に入ってきたのは……純白の、セーラー服。
「あのね、ユウグレ。ほんとー、なんですー……」
「え?」
泣き腫らした目に、胸が痛む――けれど、僕には何も出来ない。
「ほんっとーに、わたしにとってユウグレは運命のひとで、家族になりたいんです。……ならせて、ください」
「……っ……」
その言葉に、嘘は無いと思う。潤んだ目が僕を熱く見詰めている、その感情は本物だと思う。
――けれど。
「その気持ちには、応えられない。それに、僕が好かれる意味も理由も、僕には全然分からない――」
それこそ、マヒルが僕をBABに取り込む為、洗脳でもしたに違いない。
「僕が『聖人』だからって言うなら、買い被りだ。僕は天使みたいなことは出来ないし」
「違うー、ですー……ほんっとーに、なりたいでーす……」
「っ、理由がないだろ」
「気持ちに、理由が必要なのかしら」
言葉を差し込んだのは、マヒルだった。
「ユウグレくんだって、どうして女性が嫌いで男相手がいいの、って聞かれたら嫌でしょう。そこに理由はないでしょう?」
「――!」
「ユウグレ……」
ざあっと血の気が引いた……のは三人のうち僕だけ。
マヒルは『そんなのとっくに知ってた』とでも言わんばかりの視線を向けてくるし、天使に至っては僕の表情が変わったのを心配そうに見上げている。
「……ちょっと、待って。じゃあ、あんたらは僕のそういうことまで全部知って、寝込みを襲うとか……」
「ごめんなさーいー……わたし、したかったんです。喜んでくれるかも、って思ったからです」
「私も、それについては謝るわ。天使も傷付けると分かっていたなら、許可するべきじゃなかった」
このままずっと詰られるものと思っていたのに、素直に頭を下げられると返す言葉がない。
これが、飴と鞭っていうやつだろうか――いや、違う。
きっと、僕がこの状況に弱いだけだ。
「……別に、あなたに直接手を下して欲しいって話じゃないのよ」
「えっ? だって前に、あの人を殺して僕が死ねば、って」
「あくまで体裁上、そういうことになれば良いの。例えば天使が近衛アキヒトを殺す。ユウグレくんも殺す。そして舘を焼く――天使の存在さえ隠せば、ユウグレくんが父親と無理心中を図ったように見えるでしょう」
「それは――そう、かもしれないけど」
「ユウグレ、おうちに連れてってください、ですー。会わせてくれれば、あとはだいじょーぶっ、ですますよ」
「……僕は、殺さなくて、いいのか?」
「ええ、勿論よ」
最初の要求より、遙かにハードルの下がった提案に心が揺れてしまう。
だって、僕は今、ふたりに必要とされている。
「……ほんの少し、手伝いをして欲しいだけなの。今後、絶対BABに所属してとも言わない。実家のセキュリティを突破するのは、あなたなら簡単でしょう?」
(それくらいなら、僕にだって出来る――)
――嫌われたくない。目の前の人達に、失望されたくない。
「あの男さえ居なくなれば、病に苦しむ多くの患者さんが助かるの」
「お願いしまーすーっ、ユウグレ……」
とにかく、自分を好きになってくれる可能性のある人に好かれたい。
また悪い癖が出てる、誰かに批判されたくない、誰かに価値があると言って貰いたい、必要だと言われたい、今ここで息をする理由が欲しい――
「――あの人と話すとか、暴力を振るうとかは、無理。絶対に、無理です」
マヒルと天使の表情は変わらない。
「っ――……でも」
「でも、邸の門の虹彩認証を開けるくらいなら――……」
二人の表情が、ぱっと明るくなった。
……ああ、また同じだ。
僕は結局、誰かの望みに流され生きている。