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12話:悪徳の日

3. 悪徳の日



 薄らとした圧迫感、むかつき、生理的嫌悪――

 そんなものがずっと、身体中の隅々を満たしていて気持ちが悪い。


 全てを吐き出してしまいたいと思う一方、胃がカラカラになるまで体液を絞り出しても、何も解決しないと知っている。




『――女を抱けないなんて、お前は生物として失格だ』


 僕はあの日、必死に嘔吐を堪えていた。




『――折角知り合いの理事に口を利いてやったのに、多少調整しても合格ラインに届かない点数しか取れないとはな。とんだ恥さらしだ』

『――お前が大学を卒業する時には、生年を誤魔化すことも考えねばならん』


 僕はあの日も、必死に嘔吐を堪えていた。




『ほらほら、もっと呑めよ、辛気くさい顔してんじゃねえ』

『君みたいな子は、もっと自分からいかないと相手なんか見つからないよ』


 グラスを持つ手は正直震えていて、どこからどう見ても場に馴染めていなかっただろう。

 結局ここにも居場所は無いのだと悟り、ただただ少しでも認められたくて、馴染みたくて、必死に酒を飲み干そうとしていた、必死に嘔吐を堪えていた、その時。


『ねぇ。ちょっと』


 グラスを握った僕の手を、武骨で大きな手が包み込んだ。


『――君みたいな子は、こんなとこ来ないでちゃんと恋愛しなよぉ』


 野暮ったいくらいの笑顔が、かえって眩しかった――




 + + +




 ――ぼんやりと、意識を取り戻す。


 僕は眠っていたんだっけ――いや、違う。

 死んでいたのだ。


(ここ、は……)


 海の上にしては、横たわる床が柔らかい。


 それに――何だか、生温い。

 熱くもなくて、寒くもなくて、肌に馴染むような、けれど無性に泣きたくなるような、不安と幸福がない交ぜになって溢れ出してしまうような、そんな――


(――人肌の、温もりだ)


 柔らかくて温かい……予期しない動きをする、他人の身体。

 肌をそろそろと撫でるように揺らめき、段々と大胆になり、動く。


 伸しかかる熱は僕を包み込もうとするけれど、触れる範囲はほんの一部で、僕は『それ』がひどく小さいものだと気付く。


(シンヤじゃ、ない)


 ――そもそも、彼は僕を裏切り消えた。


(じゃあ、一体――……)


 一向に働かなかった思考が、徐々に覚醒していく。


 僕はナイフで刺され、死んだ。

 そして、僕は恐らく蘇る。


 時刻は翌日0時、場所は鎌倉、海の上――


 だけど、蘇ったばかりの天使はしばらく起き上がれず呻いていた。

 僕も同じように生き返るとしたら(マヒルの話からすると血を吐きはしないだろうが)、意識を失っているうちに身体を運ぶことは容易だろう。


 ――胸元に、熱く、濡れた感触がする。


 唇が肌を啄む音。

 生温い舌が肌を這う控え目な音。


僕に与えられるそれらの感触は、記憶の中にあるものよりもずっと不出来で、貧相で、健気に同じことを繰り返す仕草がより、哀しみを誘う――


「――ぅ、わ」


 薄目を開けるよりコンマ数秒早く、先に嫌悪の呻きが漏れた。

 その温もりを与えるひとの正体に、薄々勘づいていたせいかもしれない。


 純白のセーラー服は、そこにはなかった。

 少女は上着を脱いでいて、青白い肌と簡素な下着、……それから、ふたつの乳房が露わになっていた。


「……ぁ、ユウグレ、」

「うぁああああああああ!」


 相手が女と分かった途端、衝動で身体が動いた。

 全身全霊の力を込めるまでもなく、はね除けた両腕に少女の身体は簡単に吹っ飛び、ごつりと鈍い音がする——ベッドサイドに、ぶつかったらしい。


「っ、ごめ、――」


 半身を起こし、下着だけの身体を直視したのがいけなかった。

 薄らとした圧迫感、むかつき、生理的嫌悪――


「ぅ、え、ぉええええ……」


 湧き上がる吐き気に、天使の前を横切りユニットバスへと駆け込む――吐けない。

 とにかく気持ちが悪くて生理的な涙が滲んで全て出し切ってしまったら楽だろうと思うのに、何ひとつ出て来ない。


 胃液と唾を便器に流し込みながら潤んだ視界でユニットバスを確かめ、BABホテルの一室に連れ帰られたのだと冷静に判断する自分も居るのが滑稽だった。


「……だい、じょーぶ……?」

「――あ」


 特徴的な声が、背後から聞こえた。


 その声は初めて、恐れとか、戸惑いとか動揺とか、僕に対する気遣いとか――

 悲しい色に満ちていて、振り返らざるを得なかった。


「わたし、ダメでしたー……?」


 覚悟を決めて視線を向けたから、幾分マシだった。

 けれど、ふたつの乳房がお椀のように膨らんでいる身体はどうしたって僕にはグロテスクだ。


「っ、違う――そっちがどうとかじゃなくって僕は、…………」

「ふぇ?」


 青白く、滑らかで貧相過ぎると分かる肌、その胸元から出来るだけ目を逸らした、その結果。


 視界に入った下腹部――ヘソの、すぐ下あたり。

 赤黒い、稲妻型の痕が、いくつも出来ていて――


「その……アザ? 痛く、ないの」

「ほぁ……あー、ああー!」


 自らの腹を指で辿った美少女が、ふっと笑った。

 訳の分からない反応を見せていた相手が、ようやく答えられる質問をしてきたことに安堵した様子だ。


「これはですね、ちゃんと赤ちゃん産んだよーって、しるしなんだよー、ですーよっ」

「…………。は?」

「?」


 人は全ての感情や疑問がショートすると、一番近くの事象にしか反応出来なくなる――


「とりあえず風邪引くから服着て……」


 いや、ダメだ。

 いくらなんでも、今の言葉は捨て置いちゃ、ダメだ。


「……それにごめん、何か今、聞き間違いしたかも」

「あっ、そうですかー。これは、子どもを産んだ時ので、ニンシンセンっていうんですー……」

「……な、……」


 聞き間違えようがない、決定的な言葉を聞いてしまった。


(え? いや、嘘だって、待てって。どう見ても十三、十四歳……もし制服がコスプレでだいぶ大人びてるとしても、十歳は絶対超えて、いや、つまり、逆に言うと)


 十歳にも見える女の子は、かつて妊娠し、子を産んだのだ。


(本人の意志……な、訳ないよな)


 有無を言わさない、先ほどまでの唐突な行為。

 少女を少女とも思わず、神を視たかのように崇め奉る人々。

 そして、蘇った少女が血を吐いても平然としている、マヒルという女——


「……っざけんなよ」

「ぇ、ユ、ユウグレ?」


 拳を壁に叩き付けると、未だ半裸の身体がびくりと揺れる。


 大人の都合で、子を産まされる少女。

 若すぎる死。


 顔も知らない僕の母親の勝手な像とリンクして、怒りが弾ける。


「……本当、ふざけんなよ」


 少女を怯えさせたことにも他人事なのに昂ぶっている自分にも苛立って、衝動的に部屋を飛び出す。


 天使の方は、振り返らない。

 少女を傷付けてしまったのは僕も同じだと、確かめたくないから――

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