『幸せ』になりたくない
フィクションに登場する悲劇的なキャラクターを観て、カタルシスを感じる。誰だって経験のあることだろう。
僕は自分の人生でそれを感じる。
自分で言うのも変だけど、僕は不幸だ。そしてこの不幸な状況を打破して幸せになりたいと毎日もがいている。そんな生き方をする自分に僕はカタルシスを感じてしまう。おかしなことだろうか。いや、多分こういう人間はどこにでも居るのだ。自覚していないだけで。
多分、僕は幸せになったら壊れてしまうと思う。だって幸せになったらあとは惰性で生きるだけだから。ただ幸せが壊れぬよう惰性で生きていくなんて居心地が悪すぎる。ハッピーエンドの先など、観たくもない。そんな退屈なスピンオフには一ミリも興味が湧かない。
だからと言って不幸である状況に居心地の良さを感じてはいけない。苦しんで苦しんで、そんな中で本気で幸せを求めて手を伸ばす……そんな必死な自分が最高に尊いし、痛々しい人生にはエモさを感じてしまう。
奇妙な感覚だ。「幸せになりたい」ともがく自分を俯瞰して「そのままもがき続けろ」と願う高次元の自分が居る。
思うに『幸せ』とは、宗教における『神』のようなモノだ。みんな自分の救い方が分からないので『幸せ』という漠然としたイメージにすがっている。ちょうど『神』という謎の存在に人々がすがるかのように。さしずめ幸福教とでも言ったところか。
でも冷静に考えて。幸せってそんなに良いもの?
本当に幸せになりたきゃシャブでも打つのが手っ取り早い。脳に幸福物質がドバドバ出て幸せの局地に行けるだろう。でも大多数の人間はそんなことしない。重要なのは幸せに至るストーリーであって『幸せ』そのものではないのだ。「シャブ漬けになって超ハッピー! めでたしめでたし!」だなんてエモさの欠片も無いもんね。