1 望まれぬ子
不定期更新です。気長にお付き合いいただければ幸いです。
「おなかすいた……」
かつて衣服の一部だった布きれを引きずりながら、6歳とは思えぬほどに小さな少女は、魔冷箱の前まで這いずってきた。
魔冷箱というのは、冷気の魔法を封じた《魔石》の力で、箱の内部を低温に保てる魔道具の1つだ。食材の保管に使われたり、箱の中だけでなく室内全体を冷やして空調のように使われたりもする。
少女の暮らす家には魔灯が無い。日が落ちかけて薄暗い室内では、魔冷箱の中に何が入っているのか、大人でもすぐには判別できない。
それでも、少女は飢えを凌ぐために手を伸ばした。
最初に手に触れた物、これは今日の晩ご飯でママが食べ残した葉っぱのサラダかな? 噛むとしゃりしゃりと気持ちいい音がする。振りかけられた香辛料もほどよくおいしい。
こっちのは、たぶんお肉だ。お肉は生で食べちゃいけないんだっけ。
久しぶりのまともな《食事》に夢中になりすぎていたせいか、少女は、背後から迫ってくる足音に気づくのが遅れてしまった。
「何をしているの、フォスティア?」
自分の名前を呼ぶその冷たい声は、少女、フォスティアにとっては死神の呼び声に等しかった。振り返っちゃダメだ。でも、振り返らなかったらもっと怖いことになる。
「ご、ごめんなさいママ」
「まったく、意地汚いところまであの男そっくりになってきて」
「もうしないから、ママゆるし痛いっ!」
迫ってきた《死神》、中年というにはやや早い年齢の女性は、フォスティアの髪を無造作に引っ張った。
髪を引っ張られるのは痛い。立ち上がれば引っ張られなくなる。そうすれば痛いのはなくなる。
痛いのはなくなったけど、今度は目の前に身を屈めた死神の顔が迫っていた。
迫った口から、鋭利な言葉が吐き出される。
「あのね、あたしはあの男に無理やり孕まされて、産むしかなかったから、仕方なくあんたを産んだだけなの。おろすお金がウチには無かったからね。なのに何? あんたときたら、髪はアイツと同じ色だわ、目元も似て──」
「痛い! 痛いよママ!」
「あたしが喋ってる時は静かにしてなさいって言ったでしょ!」
母親のつま先がフォスティアの腹部にめり込む。
蹴飛ばされたフォスティアの体が、魔冷箱の中身を飛び散らせた。
「う……げ……ママ、ごめんな……さ……」
それきり、フォスティアは動かなくなった。
日没間際の窓から入り込む弱い日差しが、母親の手からこぼれ落ちる数本の金色を赤く照らす。
「……あ、あたし、何を……! 分かってるはずなのに……」
母親は虚ろな目でそんなことを呟いた後、フォスティアを抱えて寝室へ戻った。
●
母の機嫌が良い時に、お出かけのついでに買ってもらった掌灯を、フォスティアは特に大切にしていた。片手で握れるくらいのアルミの筒、その先端に、明かりを出す魔法を封じた魔石が取り付けてあるだけの、簡素な魔道具だ。
寝室で目覚めたフォスティアは、母が眠っているのを確かめた後、この掌灯とサラダ1皿だけを持って、家を出た。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、あたしのことは嫌いみたいだし、ママもあたしが居ると《あの男》を思い出すんだよね。……ごめんね、ママ」
町の方へ行くと、大人たちに見つかってこの家へ連れ戻されるかもしれない。前に1度だけ、おじいちゃんに無理やり連れていかれそうになった《壁の外》のことを覚えていて良かった。
フォスティアはそんなことを考えながら歩きだした。
町の周囲には、盗賊や魔獣などといった侵入者を防ぐ壁が張り巡らされ、町全体が砦のような構造になっている。
その壁の一部が崩れているのだが、それが目立ちにくい場所であることと、崩れているといっても幼児1人が這って通れるかどうか、というくらいであることから、修繕されずに放置されていたのだ。
その穴を、フォスティアはくぐり抜けた。さっき食べきってしまったサラダの皿は、穴の手前に置いてきた。
もしかしたら、その皿を手懸かりに母が探しに来てくれるかもしれない。そんな最後まで母を信じていたいという気持ちがあったのか、それとも、食べ終えたのがちょうど穴の前だったというだけなのか。
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「おなかすいた……」
最後のサラダを食べ終えてからどれほど歩いたか。かつて衣服の一部だった布きれを引きずりながら、もはや這いずる力も尽きかけたフォスティアは、目の前の雑草に目を向けた。
これも葉っぱだ。サラダも葉っぱだ。もしかしたら食べられるかもしれない。香辛料があればおいしく食べられるだろうけど、今は無いから仕方ない。
まだかろうじて動く手を使って、おいしそうな葉っぱを口へ持っていこうと──
「そのようなものを食しては腹を壊すぞ」
頭に直接響いてきた声に、フォスティアは思わず手を止めた。首を持ち上げる力が残っていれば、声の主がどこにいるのか、視線を巡らすぐらいはできただろうか。
フォスティアに理解できたのは、自分の近くに何か巨大な物が着地したらしいことと、意識を手放す直前、自分の体がふわりと浮き上がる感覚に包まれたことだけだった。