タイトルはない
「住野 遥です。残された高校生活、この3組の皆さんと過ごしていけることを大変嬉しく思います! 話すことが好きなので、気軽に話しかけてくださいね! どうぞよろしくお願いいたします!」
彼女が転校してきたのは、男子による歓声が飛び交う高校生活2回目の1学期を迎えた頃だった。
ストレートに伸びた艶めく黒髪、青味を帯びた黒瞳、留められた第一ボタン、膝の見えないスカートの丈。
お嬢様を連想させる外見だが、それを感じさせない、計算し尽された仕草に明るい笑顔を振りまく。
優等生という言葉は、まさに彼女のような人に用意された言葉なのだと、今は皮肉を込めて心の中で思う。
筆記授業では白く透き通った腕を挙げ、先生の問いに難なく答えていく。
運動授業ではしなった棒を扱い、見事な高跳びで校内カーストトップ男子の視線を集めるほどの魅力を発揮する。
その他芸術においても、ゲスト講師として赴いていたプロに原石だなんだと評されていた。
優等生の姿は見てくれだけでなく、成績は文句なしのトップ。
非の打ちどころがない。
有名大学への進学合格率で国内トップと謳われるこの進学校「峰ヶ咲高校」が誇る、まさに完璧な優等生であると世間は言う。
世間もあながち間違ってはいない。
成績下位の僕に勉強を教えてくれるほど、彼女は優等生を演じていたのだから。
雪の降る冬の夜、僕は家にいた。
1日1ページ、それ以上はページをめくってはいけない。
勉強を見てくれる上で、彼女に託された一冊のノートにはそういうルールが課されていた。
そして。
最後の1ページをめくり終えると、そこには一枚の写真が裏返しに挟まれていた。
嫌な予感がした。
これを見た瞬間に、今まで積み上げてきたものがすべて、崩れて壊れてしまうような、そんな予感。
だが、写真の裏にはこう書かれている。
大切な君に贈る、私のかけがえのない、大切な宝です
彼女が遺した1枚の写真。
彼女が今まで宝物としてきた、1枚の写真。
大切な君とは誰に向けられた言葉なのだろう。
僕のことではないのは確かである、はずだ。
では彼女は、なぜ大切な宝であるこの写真を、僕に託したのだろうか。
手が写真へと引かれていく。
下から僕の名前を呼ぶ母親の声。
外では雪を踏みしめる足音が遠ざかっていった。
「それ、私の大切な宝物なんだ」
学校の生徒会室。
一日の授業を終え、生徒会長専属補佐としての務めを果たすがべく、生徒会長の机周りを整理していた僕に住野 遥が言う。
専属補佐などという肩書きを持ってはいるが、僕は必要以上に何を考えているか分からない彼女と関わりたくはなかった。
だが不幸にも、この空間にいるのは僕と彼女だけで、彼女の視線は僕に……正確には僕が手に持つ1冊のノートへと注げられていた。
さすがにこの状況下で彼女の言葉を無視することは出来ないので、仕方なく僕は反応を示すこととする。
「この古いノートが? 一見、普通のノートに見えるんだけど」
彼女はこの数十分間、無視され続けた僕にようやく反応を示されたことが嬉しかったのか、
分かりやすく態度に示し、僕のそばへと寄ってくる。
「そう! 本当に大切な宝物なんだよ。まだ誰にも見せたことないんだから」
「そうか。ならこれからもその宝物は誰にも見せずに……」
「あ、せっかくだし、君に見せようかな。でもただでは見せてあげない。私の宝物だもん。見られるの少し抵抗はあるし。そうだなぁ……これからたまに私から課題を出すから、その課題を解いたら見ていいよ。でも見るのは1日1ページだけね!」
「あからさまに僕の言葉を遮らないでもらえる? それに抵抗あるなら見せなくていいよね?」
「というわけで、君は私に連絡先を、今、ここで、教えなさい」
「すごい、会話のキャッチボールを成り立たせない強引さは生まれて初めてだ」
「もう。いいから、早くしないと課題、毎日君の家まで赴いて出すことになるよ?」
「わかった。今すぐ連絡先交換しよう」
僕のその言葉に、またもや彼女は嬉しそうに小さくジャンプをしてみせる。
「うーん……君ってあだ名はあるの?」
彼女は自身の携帯画面を見つめ悩み入るように聞いてくる。
「特にないけど、あったとしてどんな意味が?」
「表示名をあだ名にしようと思って。んー……りっくんとかどう? なんだか恋人みたいじゃない?」
「恋人みたいなあだ名にして何を企んでる? 却下」
「いけず。とりあえずりっくんで登録しとこっと」
どうやら今日の優等生は、僕の意見を聞く耳は持たない強引キャラで押し通すようだ。
全くもって彼女の考えていることが僕には分からない。
「あぁ……お前達まだいたのか。熱心なのはいいが、下校時刻はしっかり守れよー」
そう気怠そうに言いながらドアを開けて入ってきたのは、シャツを出した生徒指導の先生だった。
生徒指導の先生だというのに、ノックもせずに入ってくるとはなんて無礼な。
僕の妹なら”お兄ちゃん! いつもノックしてって言ってるよね!?”と赤面しながら腹パンを入れてくるところだ。
「はい! 丁度やる事を終えたので、これから帰るところです! それじゃあ、立花くん。また今度!」
さすがは優等生。
先生の前ではその徹底した姿勢に心底関心する。
別れの挨拶を終えた彼女は、生徒会室を出ていく。
彼女が出ていったところで、1通のメッセージが届く。
「あ、僕はまだやり残したことがあるので」
「あぁ……この後本格的に雨が降り出すらしい。恐らく台風が近づいてる影響だろう。今年は異常気象ばかりだからな。お前も、気をつけて帰るんだぞ」
そうしてすぐに、先生も生徒会室を後にする。
一人残された生徒会室で、残りの備品や書類の整理を終えた僕は、届いていたメッセージを確認する。
”図書室に向かうこと! 今日の課題!”
意図の分からない内容だった。
てっきり勉強に関する何かだと思っていたから、ただその目的地に向かうという課題に困惑していた。
ただ向かうだけ、そこで何をするわけでもない。
ほんと、優等生の考えることは分からない。
「あれ? 立花じゃん。図書室で会うとか珍しー」
「この時間に図書室に来るのは初めてだ。住野さんに向かうよう言われて来た。といっても、何をするまでとは言われてないけどね。とりあえず、文庫本でも借りていこうと思う」
「そっか、住野ちゃんにね。オッケー。早いとこ選んじゃってよ。もうそろそろ帰ろうと思ってたとこだからさ」
「雨も降ってきてるのに悪いね。少し待っててほしい」
図書室に向かうと、そこにはクラスメイトで元・生徒会メンバーの夏目 明がいた。
生徒会を脱退した後は、こうして図書委員を務めている。
この進学校では、数ヶ月に一度、委員やクラブを自由に変更することが認められている。
「え、マジ? うわ、ほんとだ。あたし傘持ってないや」
美しい夕暮れの空が見えるはずの窓の外を眺めながら、あちゃー、と頭を掻くような仕草を見せる彼女。
「僕の置き傘を貸すよ……ってあれ? ごめん、家におき忘れてきてた……こっちの傘使って。風邪引かれると困るし、僕は大丈夫だから」
ここでこのまま夏目を雨の中帰したら、あとあと厄介なことになりそうだ。
主に1人の優等生によって。
しかしリュックの中をいくら漁っても、置き傘は出てこない。
いつも閉まってたはずなんだけどな……。
「立花に風邪引かれるとあたしも困るから。悪いけど、立花の傘に入れてもらおうかな。幸い帰る方向同じだし。相合傘になるけど、変な期待はするなよ〜?」
「まぁ夏目がそれで良いと言うのなら。大丈夫、僕は何も期待なんてしないし、気にもしない。安心してくれ。それと、この本を貸してもらいたい」
「それはそれで、傷付くんだけど……。まぁいっか。その本ね。じゃあ貸出の手続き済ませてくるから、ちょい待っててー」
夏目が元・生徒会メンバーであるからか、不思議と一緒に帰ることに抵抗などはなかった。
クラスメイトでもある夏目は、教室でもよく会話をする。
……あれ? 今回帰るの初めてじゃないっけ?
「ん、お待たせ。返却期限は今月末までね。それじゃ、帰ろっか」
夏目が受付奥の一室から出てくる。
借りた本はライト文庫で実写・アニメ映画化もされた人気作だ。
裏を見てみると、今時珍しいアナログな貸出記録に僕と夏目の名前が書かれていた。
室内の照明を落とし、戸締りを確認し、昇降口で靴を履き替え、校門を潜る。
そうして僕達は同じ帰路に着いた。
「じゃああたしはこっちだから。またね、立花」
また、と返す前に夏目が立ち去っていった。
帰る方向が同じとはいえ、まさか最寄駅まで一緒だとは思わなかった。
ふと、見上げた先は顔を手で覆い隠すような曇天で、大粒の雨が地面に打ち付けていた。
地面に咲く花も、雨風によってその身を散らしている。
台風の時期は夏から秋と言われていた気がする。
だがここ最近の天気は、異常気象だと言われている。
観測史上最大規模の台風が4回も続いている。
最早、異常気象などではなく、これが本来あるべき形ではないだろうか、逆に今までの天気が異常気象だったのでは、などとくだらない考えへ至っているうちに自宅に着いてしまった。
「おかえり、ご飯温めなおしておくから、先に体温めてきなさい」
玄関の音を聞いたのか、リビングから母親の声がかかる。
言われるがまま、お風呂場へと向かい、湯に浸かる。
僕はお風呂が好きだ。
露天風呂など温泉などではない。
1人の時間、僕だけの時間、何も考えなくていい、嫌なことも良い事も、ここでは忘れられる。
自宅にある、このお風呂が好きなんだ、僕は。
だというのに。
「あのノート、見てもいいんだよね」
最近はこの空間、時間を邪魔する人物が現れた。
その人物はある日突然、生徒会長補佐に僕を指名した。
成績が物を言うこの学校で、成績下位のこの僕を。
学校中が大騒ぎになり、僕も相当迷惑な思いをした。
何かの間違いだろうと、直々に聞きにいくこととした。
すると、彼女は言った。
決して間違いなんかではない、好きで貴方を選んだ
しかし、生徒会などの戯れに興味はなかった。
時間は有限だ。
僕は一刻も早く、成績下位というこの遅れを取り戻さなければいけない。
当然、生徒会長といえど、頼みを聞いてやる義理などない。
そこで生徒会長はとある2つの提案を出してきた。
1つは、生徒会長補佐の座に就けば、生徒会長直々に勉強を見てもらえること。
僕の勉強を見れば、さらに私の評価が上がるとか言ってはいたが、実際、この案はとても魅力的で効果もあった。
小テストで徐々に点数が上がっていくのを実感しながら、
期末テストでは見事に学年順位2桁を獲得した。
そしてもう1つが、
貴方が知らない、貴方自身の秘密を教えてあげる
というものだった。
僕はまだこの秘密を教えてもらえていない。
教えたい時に教える、とだけ言われており、悶々とさせられている。
ご飯を食べ終え、自室のベッドにダイブをする。
ふかふかのベットに体を預けながら、1冊のノートを手に取る。
「よし、見ていいんだよな……見るぞ……花?」
ノートに描かれているのは1輪の花だった。
そして花を見たと同時に、携帯からコール音が鳴る。
慌てて手に取った携帯の液晶画面には、連絡先を交換したばかりの彼女の名前が表示されていた。
「……はい、立花です」
『うわ、律儀ー。私って分かってるんだから、そんな固くならなくてもいいのに。まぁいいや! ねね! それよりさ! 見た!? 見たよね!? 私のノート! どうだった!?』
「どうって……絵、上手いんだね」
『ほんとに!? やったー! うれしー! 頑張って練習した甲斐があったなぁ』
「君ほどの人間でも、練習するんだね」
『私を何だと思ってるのよ。そうです、私が優等生演じている住野 遥です! なんちゃって』
「はぁ……ちなみに、なんて花なのかも聞いた方がいい?」
『よくぞ聞いてくれました! その花は、エーデルワイスという私の一番好きなお花なのです。小さい頃に一度、海外へ行った時にね、偶然見つけたのがその花。光り輝く真っ白な花が一面に咲く光景に、一目で心を奪われちゃってさ。どうしても、その日見た光景を忘れないようにーって。でも日本では滅多にお目にかかれなくてねー。記憶は曖昧だけど、私の中では確かに大切な思い出だから、沢山練習して絵に残したんだ』
驚いた。
なんせ、彼女のこんなに弾んだ声を聞くのは初めてだったから。
その時の彼女は本当に、本当に楽しそうに、話していた。
こんな僕にもその感情が伝わってくるほどに。
そして自分自身にも驚いた。
その話を聞いていた時、心のどこかにぽっかりと穴でも空いたような、虚しさを感じた自分がいたのだから。
『ねぇ、聞いてる?』
スピーカー越しに彼女の声が届いた。
気付かぬ内に、彼女が話し終えてから間が空いてしまっていたのだろう。
慌てて返事をする。
「あ、うん。聞いているよ。素敵な思い出、だと思う」
『でしょー! もう一度あの光景を……今度は日本で見るのが、私の夢なの。だから……応援、してね』
そして、僕はまた驚かされた。
てっきり彼女なら、一緒に見ようとかからかい気味に言ってくるだろうと思っていたからだ。
「応援は、気分次第かな」
『えー、ひどーい。……ふふっ、まぁいいや! じゃあ今日はこの辺で! またねー!』
また、と返す間も無く、電話を切られてしまった。
時計を見ると針は0時を回ろうとしていた。
時間を意識したせいか、急激に眠気が襲ってくる。
そのまま眠気に身を任せ、瞼を閉じる。
そこから先のことは、翌朝目を覚ますと記憶されていなかった。
夏休みを間近に控えた朝の登校時間。
夏の気温と高い湿度によってじめじめとした蒸し暑さが身体を襲う。
「おはよー……」
気の抜けた聞き覚えのある声がすると、夏目が機嫌の悪そうな表情で隣に並ぶ。
夏目もこの暑さに参ってる様子だ。
ちなみに登校中に夏目と会うのは今回が初めてだった。
「おはよう」
衣替えが始まってから、夏目の学生服もシャツスタイルへと変わっている。
大きなシュシュが目立つポニーテールの髪型で覗き見えるうなじが女子特有の魅力を醸している。
顔立ちも整っており、外見は美少女と言えると思う。
言動や振る舞いといった性格面ではサバサバとしており、一部で熱狂的なファンが根付いているとか。
当の本人は全く相手にしていないようだけど、そこもまた夏目らしい一面だと思う。
「期末テストどうだった?」
「それを成績下位の僕に聞くのは間違っていると思うよ」
「でも住野ちゃんに教えて貰ってるんでしょ?」
「そうだけど、ぼちぼちだよ」
「じゃあ夏休みは? 何か予定ある?」
「勉強だよ」
「遊ばないの?」
「時間が惜しい」
「遊ぶ人いないだけでしょ」
その後も当たり障りのない会話を続けながら、学校に向かう。
学校に着くまでの間、羨み恨むような視線を感じたのは気のせいであって欲しいと切に願う。
「こんにちは、立花くん」
一日の授業を終えた放課後、僕は彼女に呼び出され生徒会に来ていた。
「この前の課題はちゃんとこなしたんだね。えらい、えらい」
「あの課題には一体どんな意図が?」
「偶然、あの時夏目さんが傘を持っていないのを見かけてね。下校時間に雨が降るから、風邪でも引いたらいけないと思って」
同級生の身を案じるいい優等生じゃないか。
「なるほどね。それで? 本音は?」
「君と夏目さんのきゃっきゃうふふな展開に期待してみた」
彼女はやはり優等生などではなかった。
「それじゃあ、次の課題だね」
図書室に向かって以来、彼女が僕を呼び出すのは、決まって新たな課題を出してくる時だった。
いつしか僕と彼女は、課題のこと以外ではあまり会うことも話すことも無くなっていた。
それでも僕がこうして彼女のもとへ通うのは、やはりあのノートが気になるからだと思う。
「次の課題はー……私の買い物に付き添うこと! 明後日の午前10時。駅下の時計台で待ち合わせね。遅れたら変な噂流してやる」
こうして彼女の課題を断ることもできず、見事に取り付けられてしまった。