ラブ・ラブ・ラブ
「シャルル・バーロレール?」
聞き覚えの無い名前だった。
それは俺以外の二人も同じだったようで、亜里堅さんは誰だそれ、と呟いた。
「君ら単眼娘って聞いた事ある? 巷で話題の都市伝説なんだけど」
「まあ、名前くらいは」
「そうだ。単眼娘と目が合うと、一時間程度の記憶を消失してしまうってやつだ。だけどそれがなあ、その単眼娘ってのはどうも実在するみたいなんだよ」
そんなまさか――
少々蚊帳の外感のある俺は、思わず喉まで出かかった言葉を飲み込む。
そうだ、俺はもう「そんなまさか」を経験している。やはり都市伝説の話をすんなり信じる事は出来そうもないが、しかしまさかはあり得るのだ。
「私がその単眼娘に記憶を消されたって言いたいの」
「多分ね?」
片桐が即答する。
「馬鹿馬鹿しい。そんな都市伝説まがいの話、私に信じろっていうの?」
「岬ちゃんがそれを言うなよ? 俺みたいな一般ピーポーからすれば、君達が追ってる吸血鬼だって馬鹿馬鹿しい話だぜ」
「あんた、何でそれを――」
片桐の煽りに乗った霧峰さんを、亜里堅さんが手で遮ってそれを制止する。
「こいつの事だ、ほっとけ。それでなんだ、今の岬の状態は如月に何かされたからって訳じゃないのか」
「それも多分」
「その根拠は?」
「同様の事案をいくつか耳にしているが、その被害者はほとんどが一般人で、その年齢、被害時刻、場所に関連性は見られない。それが根拠だよ。ま、場所に関しては渋谷に限定されてはいるけどねん」
「たったそれだけか」
「そだよ。確かに如月は一般人にも手を出す様な奴だが、意味も無くアクションを起こす事は無い。『単眼娘』が如月のせいなら、それらには必ずつながりがあるはずだかんね」
「その共通点が無い以上、私が単眼娘に出会ったのはあくまで偶然。そう言いたいんだね」
霧峰さんは渋々ながら納得した、といった感じだった。
「そういう事だよん」
話が一度途切れ、亜里堅さんは本日何回目かの深い溜息をついた。しかしその顔色はさっきと違いどこか気を緩めたようにも見える。
霧峰さんを見ても幾分か緊張が解けたようで、無表情ではあるが安堵感が伝わってくる顔をしている。
……そうなのか? 目の前にいるこの片桐という男の言葉はそこまで信用に足るものなのか?
俺がこの男について知っている事といえば、職業が情報屋という事だけだ。その情報屋なんてものもよく分からない。フィクション中にしか存在しない物だと思っていた。そんな男の口から出る荒唐無稽な話をどうして信じられようか。二人は違うようだが。
どうも俺が突っかかってみないと彼に対する懐疑の念は晴れそうもないみたいだし、俺はそうしないとどうも納得できない。それに、ここで言及すれば亜里堅さんも彼についてもう少し教えてくれるかもしれない。
そんな画策を抱いて俺は立ち上がり、片桐さんを指差して言う。
「ちょっと待ってください。片桐さんの言う事をどうして鵜呑みに出来るんですか? この人は如月とも関りがあるみたいだし、事実と違う事言っているかもしれないじゃないですか」
そんな俺を見て、言葉を聞いて、片桐は「あん?」と小さく呟いた。
対立する俺と片桐の顔をチラチラと見比べて、口を開いたのは霧峰さんだった。
「なに、妍治。片桐の事彼に言ってないの」
「ん、ああ。こんな事になるとも思ってなかったからな。如月の事もドルルーサ単独で調査するつもりだったからよ」
「なあ亜里堅よ、俺の方こそ教えてくれ。何でこの場にこんなガキが居るんだ」
ムカムカッ。
「あー……。そうだな。うん。そうだな」
亜里堅さんはやはり少し考えた後、今度は観念したような顔をしてこう言った。
「もうちゃんと紹介しておいた方がよさそうだ」
そうして亜里堅さんは息巻いて立っている俺をなだめ、座らせた。
彼は背もたれに大きく体重を委ね、胸元から煙草を一本取り出し火を付けた。
「こいつは岸辺雪だ。吸血鬼騒ぎ、お前も把握しているみたいだが」
「ああ、知ってるさ。君達がこそこそしてるのもね」
「とにかくこいつはその吸血鬼だ」
それを聞くと、今まで落ち着いた風だった片桐の態度が一転、興奮して鼻息を荒げて立ち上がった。
「マジ? マジ? じゃあお前、血ィ吸えんのか? 牙とか隠してんのか? 生まれつきそうなのか? 太陽浴びれねえの? ニンニク食えねえの? 何が目的なんだ? やっぱ子供と女の方がうまいのかああああああ!?」
急に耳に訪れる大音声が俺を怯ませる。
な、なんなんだこの人は――
ブチ切れながら現れたり、軽い感じのお調子者だと思ったら静かにイラついたり、一転ハイテンションで問い詰めてきたり――
なんというか掴みどころのない人、実体がよく分からない人だ。
そんな少し辟易した俺を見かねてか、亜里堅さんが片桐をなだめる。
「一旦落ち着けよ。こいつから吸血鬼に関する情報は期待できそうにねえよ。なんせこいつには吸血鬼だって自覚がねえからな」
そう窘められた片桐は「そうなのか?」と至極冷静に尋ね、腰を下ろした。
おれは肩身狭く「ハイ」と小さく返した。その途端彼は興味を失ったようで、あからさまにつまらなさそうな顔をした。
「んでだ、こいつは片桐遊子。情報を食い物にしてるやつだ。情報を売ったり、横流ししたり、印象操作したり……。まあ、胡散臭いとは思うが犯罪者じゃあねえ。一応な。ギリギリ。んで、拠点は渋谷だが俺達とは関係ないところで活動してる」
「それで、お二人とはどういう関係なんですか」
「ただのガキの頃から付き合いがあるってだけだ。いけすかねえ奴ではあるが、お互い基本的にやってる事は治安維持。こいつの持つ情報はそれなりに信用できる」
「ま、後でお金は貰うけどね」
亜里堅さんの紹介に満面の笑みで答える。何故だか知らないけど、すっかりご機嫌のご様子。素性が多少分かれど、人間性は誰も彼も理解できないままだ。
「私も聞きたいことがあるんだけどいいかな」
俺達の紹介の間寡黙を貫いていた霧峰さんが、間を割って再び話始める。
「岸辺君さっき如月って人に絡まれてたって言っていたよね」
「ええ」
「何で岸辺君は如月に絡まれていたの? そしてなぜ片桐はその場にいたの? そもそも如月って何者なの?」
今度は霧峰さんからの質問攻めが。よくよく考えて、この人と片桐はどこか通ずるものを持っている……気がする。しないかも。
とにかく俺は、俺が答えられる事にだけ答える事にした。
「俺が少し人気の無い裏路地に行ったら、突然後ろから肩を叩かれたんです。振り向いたらそこには如月って人が居て、何かクスリみたいなものを買わされそうになりました」
「ふぅん。それで、君はなんでそんな所にいたの?」
一つ答えればまた一つ聞いてくる。疑問が山盛りなのはどうやら彼女の方も同じのようだ。
「俺には自覚が無いんですけど、三週間前にあの場所に言って以来、俺はどうも様子が変わったみたいなんです。その時何があったかが分かれば、吸血鬼化のヒントになると思って」
「その時何があったか分かれば、ってまさかその時の事覚えてないの?」
「ええ……。なぜだかそこだけすっぽりと、記憶から抜け落ちた様に。でもま――」
その時、俺の脳裏に電流が走った。
三週間前から変わった俺。
過去に如月と会っている俺。
そしてそれを覚えていない俺。
その結論にたどり着いたのは、俺以外の三人も同じだったようで。
「……さ……か」
「そのまさかみたいだねぇ」
片桐遊子が悪戯をする子供のような口調で言った。俺達三人はそれを見ずにはいられなかった。
「このガキも出会ってたみたいだなぁ。噂の単眼娘によぉ」
俺達の顔が確かに強張る中、一人片桐だけがにんまりと口角を上げて笑っていた。
*
俺が出会っていた?
単眼娘に? 三週間前に? 出会った事すら忘れてしまうなんて都合のいい話だ。
だけど今の話の流れだとそういう事になるのもおかしくはない。
「まてまて片桐。そうなるとさっきの話も変わってこねえか」
「なんだよ」
「如月と単眼娘の関係だよ。如月に接触したこいつと如月を追いかけた岬。その両方が記憶を失ってるんだろ。やっぱり何かつながりが――」
「いや、それは無いと思います」
亜里堅さんの話の腰を折って口を挟む。
「如月って人が俺に話しかけてきた内容は、俺に記憶がある事を前提としたものでした。まあ彼は俺が彼を覚えていない事に関して、何か思い当たる節があったみたいですが」
「……そうなのか?」
俺が頷くと亜里堅さんは喉に何か詰まったように納得した様子だった。
「ふうん……。ならやっぱり如月の仕業ではないんだね。で、あそこに片桐が居た理由は何なのさ」
「偶然だよ。俺は個人的に単眼娘について調べてっからよ。それがたまたま如月を見かけてな、鬱陶しいからゴミ投げてやったんだ」
鬱陶しいからって……。鬱陶しいからわざわざあんな重いポリバケツを投げるのかこの人は。
「本当に?」
「ああ、本当だよ」
霧峰さんの疑い深い目に片桐はヘラヘラと答えた。
そして話を変えたいのか、間髪入れずに話を続けた。
「如月はなあ……実は俺もよく知らんのだよ。ここ数年急に現れては一般人にちょっかいだしてっから、その度に俺が追いかけてたんだ」
「そんな男の話今まで聞いた事無かったけどなあ」
霧峰さんは亜里堅さんを見て、首を傾げながら尋ねた。
亜里堅さんは頷いてそれに答えた。
片桐は「あいつは蝙蝠みたいなやつだから」と付け加えていた。
「それで、片桐さんは如月って人が持っていたあの錠剤についても知ってるんですか?」
「ん、ああ。あれはただのスマイルって麻薬だぜ。ここらでそれなりに出回っててな。気分わりいからどうにかしたいんだがなあ」
「え、スマイル? 私達もスマイルについてはある程度把握してるけど――」
「ああ。スマイルと吸血鬼の関連性は特に見つかってないぞ。重度のヘビーユーザーの血液からもヴリコラカスは検出されてないしな」
片桐はヴリコラカスについて知らないようで、小さく「ヴリコラカス?」と呟いていた。
「後で教えてやるよ。とにかく如月はただのスマイルの売人で、岸辺はその毒牙にかかっちまったってだけなのか」
「今の話をまとめるとそうなるね」
麻薬? スマイル? 如月は確か依存性がどうのこうの言ってたっけ。あの錠剤が麻薬なら納得がいく。でも依存性が低いって麻薬として成り立つのか?
そして如月はただの売人だったのか? そういうのは何かの組織の下っ端がやるイメージだけど、彼はそういう立ち位置なんだろうか。
……本当に俺の吸血鬼化の原因はあの如月には無いのだろうか。
俺の疑問の地下水脈は枯れる事を知らないようだ。次から次へと湧き出ては、解消されないまま溜まっている。
三週間前、俺は確かに如月と出会い、おそらくスマイルという麻薬を口にした。それ以外に思い当たる節は無いのだから――いや、忘れているだけなのか。もう何もわからない。
「とりあえず今日のところはこんなものかな」
そう言いながら霧峰さんは右手首に付けた時計を見た。
気が付けばもう六時だ。
そうだ、そう言えば明日から夜間校内修学泊だった。まだ準備も済ませていないから早めに帰らないと。
「ああ、これ以上はここで話し合う意味も無さそうだから、こっからは足で調査しなくちゃな」
亜里堅さんは立ち上がって、大きく伸びをしながら言った。それに続いて俺達も続々と立ち上がる。
「俺はとりあえず如月とスマイルについて調査すっから、岬は引き続き岸辺の身辺を頼む」
「分かったよ。で、片桐はどうするの」
そう言われた片桐さんは、座っていた椅子を元の場所へ戻しているところだった。
「俺? 俺も如月が何企んでるのか気になるからねぇ。ちょっくら追いかけてみるかな――」
そこまで言って片桐さんは振り返り、亜里堅さんを見てまたまたにんまりと笑った。
「そうだ亜里堅、俺達組まねえか? 一緒に動いてもいいし、別でもいい。あいつに関してとにかく新しく知り得た情報は共有しながら追っていこうぜ」
「ああ? 何で俺がお前なんかと――」
「いいじゃん妍治。お互いの目的は一致してるんだし、如月の事は私達より片桐の方が詳しいんでしょ」
霧峰さんに賛成され、亜里堅さんは後頭部をガリガリと掻いてしぶしぶ了承したようだ。
その一連の流れを見て思ったが、どうも俺は片桐さんの笑顔が苦手だ。
心底楽しそうに笑っているのに、事実今彼は心底楽しいのだろうに、心の底に黒い靄のようなものを感じられずにはいられない。それがいいモノなのか、そうでないのか。俺には判断できない。
霧峰さんが会計を済ましている間に、亜里堅さんは片桐を引き連れて一足先に店を出てしまった。
続いて俺達も店を後にする。
六月半ばの夜空はやや暗い茜色に染まっていた。
「さて、如月とやらは妍治達に任せるとして、私の仕事は君を危険な目に合わせない事だからね。家まで送るよ」
「あ、待ってください。ちょっと買いたいものがあるんですけど――」
明日必要な携帯歯ブラシとか、適当なジャージとか、そういった生活用品もついでに買おうと思っていてんだ。
俺の希望は、しかし霧峰さんの「ダメ」という言葉に一蹴された。
「いい? 岸辺君は今、何時襲われるかも分からない状況にあるんだよ。吸血鬼だけじゃなく、如月に単眼娘なんて脅威も出てきたんだ。必要なものは後で私が買いに行く。君には家で大人しくしていて欲しいんだ」
霧峰さんが俺の身を案じて言っているのはよく分かる。
しかし俺は、蚊帳の外に居るのがどうしようもなく歯痒いのだ。
「俺にできる事は無いんですか? 面白半分じゃありません。俺が自分自身の分からない事の為に何かしたいと思うのは間違えていますか?」
霧峰さんは真摯に俺の目を見つめていた。
俺より十数センチ下にあるその瞳は、子供ではなく、一人の男を映している。
それに気が付いて、俺は少し嬉しいと、そう思った。
だが――
「その気持ちは分かるよ。でも君はついこの間まで一般人だった。特殊な私達とは違うんだよ。君を危険な目には極力合わせたくないんだ」
「でも――」
言葉が詰まった。
確かに霧峰さんが言っている事は何一つ間違っていなくて、事実俺は吸血鬼に追いかけられた時、ただ逃げ惑い、二人に助けられただけだ。
人の首を剣で跳ねるような人達の世界……。
俺はここで指を加えて見ているべきなんだろうか。それがこの吸血鬼問題解決に向けて俺ができる事なんだろうか。
諦めかけて、素直に彼女の言う事を聞こうと思い、思わず下を向いてしまった俺を見かねてか、霧峰さんは優しい声でこう続けた。
「分かった、君にも協力してもらうよ。ただし、君はあくまで猫の手だ。今が圧倒的に情報が足りていない状況なだけだから、すぐに手を引いてもらうからね」
まるで母親が子をあやす様な眼差しだった。それでも俺は素直に高揚した。好奇心と厄介事にかかわっていきたいという心が俺を喜ばせた。
「本当ですか!? それで俺は何を」
「そうだね――」




