不協和音のオン・パレード
ピリリ ピリリ
電子音が響く。音の発生源は亜里堅さんのポケットだ。恐らく俺の二世代ほど上の人間が使っているような着メロ。いやメロディじゃないが。とにかく彼は携帯を取り出して耳に当てる。
「はい、亜里堅です」
『やあ。私だよ』
「ああ、岬か。そっちはどうなった。捕えられたか」
『撒かれたよ。この渋谷で逃げられるなんて初めてだよ』
「は? マジかよ。大失態じゃねえか」
『大失態だよ。とりあえず一度アントレまで来てくれないかな』
「ああ、わかった」
『それよりさ――』
妍治と電話をしながら、私は表通りを目指して歩を進める。如月を追って随分と入り組んだ所まで来てしまった。
彼を捕まえられたら、きっとこの事件が大きく進歩する。そんな情報が手に入ったに違いない。
失態だ。大失態だ。二年間吸血鬼を追ってきて、やっと訪れた獲物だったというのに。如月という男は私の目の前で、まるで蝋燭の灯が煙に変わるように、フッとと消えてしまった。見失ったというのが表現として正しいが、如月に限ってはその存在そのものが宙に溶けてしまったようだった。
『は? マジかよ。大失態じゃねえか』
私が思った事を妍治がそっくりそのまま言ってくる。うるさいな、わかってるよ。
だけど仕方がない。私の落ち度だ。
何はともあれ、とりあえず彼等と合流しなければ。幸いにも近くにはバー「アントレ」がある。ドルルーサと関わりのある男がマスターの店だから、秘匿性は十分。
「大失態だよ。とりあえず一度アントレまで来てくれないかな」
電話先の妍治の了解を確認して、私の歩は速まる。
急ごう。路地を曲がってさらに路地。
あ、そういえば妍治の近くに片桐が居るんだった。彼が如月の事を詳しく知っているなら、その力を借りる必要があるかもしれない。気は進まないが。とても気が進まないが。
「それよりさ――」
角を曲がりながら、妍治にその旨を伝えようとする。
……が。
そこで私は。
眼。
目。
め。
あれ――。
「ん。切れちまった」
「霧峰さんですか」
「ああ。何か言おうとしてたみたいなんだがな」
亜里堅さんは不思議そうに、そして少し不機嫌そうに携帯をしまった。
「とりあえず移動するぞ。岬と合流しねえとな」
そう言って亜里堅さんは俺を引き連れ歩き出した。
「どこへ?」
「近くのバーだ」
端的にそうとだけ言うと亜里堅さんは再び黙ってしまった。
いくら彼等を信用しようと、疑問はやはり湧き水のように出てくる。
霧峰さんに何かあったのか、そのバーとはどんな所なのか、如月という男は何者なのか。
聞きたい事は山のようにあるが、後々分かる事だろうと口を噤んだ。
ピリリ ピリリ
電子音が再び亜里堅さんのポケットから聞こえる。
亜里堅さんは軽い舌打ちをし、携帯を取り出した。
「あい。亜里堅です」
『私だよ。あんた何してんの?』
「あ? アントレ向かってんだよ」
『何でさ? それにあんた何で岸辺君と一緒にいるの』
「は? 何言ってんだ。お前がアントレで合流しようって言ったんだろが。それにさっきまでお前もこいつと一緒にいたろ」
『……どういう事さ。とにかく君達はアントレに来るんだね。私も丁度近くにいるから、すぐ向かうね』
亜里堅さんは通話を終えると、乱暴に携帯をしまった。ゲームに負けた学生がコントローラーに当たるときのような乱暴さだった。
「また霧峰さんですか?」
俺は歩を進めながら尋ねてみる。
「ああ。だが様子がおかしい。とにかく急ぐぞ」
どうしたんですかとも聞いてみたが、今度は答えず、ただ足を早めるだけだった。
*
俺と亜里堅さんがアントレに入店した時、すでに霧峰さんは一番奥の席に座り、白い陶器のカップに口を付けていた。バーの内装は俺のイメージしていたものとはずいぶんと違っていた。バーといえばカウンターの奥には酒瓶がずらりと並び、申し訳程度の照明が店内という洞窟を薄明るく照らし、
四十台かそこらの太った婦人、もしくは厚みのある笑顔をする紳士がグラスを丁寧に拭くのだ。しかしアントレはというと、確かに店内の雰囲気はそれとなく仄暗いが、カウンターだけではなくテーブル席があり、マスターのいるカウンター内には酒の類が一切ないように見える。まるで田舎で老夫婦が経営する喫茶店のようだと思った。俺はこの(俺にとって)奇妙なバーの店主がどんな人なのか確かめようとしたが、不思議な事に彼の顔を見る事が出来ない。不審に思われない程度に角度をかえて覗き込んでみるも、常に何かの陰になっていたり、グラスに遮られたりで、結局俺はその顔を拝むことが出来なかった。この暗くしっとりしとした空間が、彼をひそやかに守っている気がして、俺は少し不気味に感じた。
「おう」
「やあ」
亜里堅さんと霧峰さんは気の抜けた挨拶を交わした。霧峰さんは霜柱のように透き通った細い指でカップを持ち、くるくると回している。彼女がカップを回すたびに、ほんのりとコーヒーの香りが振りまかれる。
見た感じ霧峰さんの様子に変わったところはない。亜里堅さんの言うような様子のおかしさとやらは感じ取れず、如月を追う前の彼女そのもののように見えた。だが――
「なあ岬。色々聞きたい事はあるんだが、まずは如月の話から聞かせてくんねえかな」
「如月?」
当然話題になるであろう名前を聞いても、彼女はさも初耳かのような反応をみせた。
そんな彼女を見て、亜里堅さんは明らかに機嫌を悪くした。彼は機嫌が悪くなると耳が痙攣するようだった。
「笑えねえ冗談はやめろ。つい三十分前の話だろが」
「だから何の話なのさ。私達は岸辺君の動向を追っていたのに、いつの間にか君が岸辺君の所に居たんじゃないか」
霧峰さんは抑揚のない声で言った。しかしその語勢は少し強くなっているようにも感じられた。
はっきりと理解できる彼女の違和感。
まるで話が通じていない。
「お前――」
そこまで言って、亜里堅さんはふーっと深い深い溜息をついた。
俺も彼も同じ心境だろう。さして霧峰さんの人間性について明るい訳ではないが、彼女はこんな嘘を付く人ではない。
霧峰さんは亜里堅さんがお前は何を言っているのだと言わんばかりの顔でカップに口を付けている。
「俺達だけじゃ埒が明かない……か」
亜里堅さんはそう言うと立ち上がり、また携帯を取り出した。
「どこ行くの」
「電話だ。片桐を呼ぶ」
「片桐? なんでさ」
霧峰さんの驚愕を無視して亜里堅さんは電話をかけ始めた。
霧峰さん……。明らかに亜里堅さんと彼女は話が噛み合っていない。如月の事も俺の元へ駆けつけてくれた事も忘れているみたいだ。というより、そもそも初めから一連の出来事を知らないようにも見えた。
とにかく、俺は亜里堅さんが席を外している間に彼女と少し話をしておくことにした。片桐って人が来ると俺の発言権なんて全くなくなる、そう予想したからだ。
「亜里堅さんは何で片桐さんを呼んでるんですか?」
「多分あいつが私達の知り得ない事を知っているんじゃないかな。だけど私はあいつが来るのは少し嫌かな。面倒臭いんだよ」
俺の質問に彼女はほぼ間を置かず答えたが、その内容に些か違和感を抱いたようだ。
「それより何で君が片桐の事知ってるのさ」
「本当に覚えてないんですか。さっき俺が如月って人に絡まれていた時に、片桐さんが助けてくれたんですよ」
「あいつが君を、ねぇ」
「僕の為ってよりかは個人的な因縁って感じでしたけど」
「ふぅん……。でもあいつの事良い人だなんて思わないほうがいいよ」
彼女はそう言って再びカップに口を付けた。
やはり彼女も片桐さんに対していい印象を持っていないみたいだ。それでも今亜里堅さんが彼を頼ろうとしている事に鑑みるに、それほど現状は手詰まりなのだろう。
「それに――。霧峰さん達もすぐに駆け付けてくれました。」
何とも言えない間が開いたのでそう言ってみたが、霧峰さんはふぅん。と答えただけだった。
俺自身どういった反応を求めていたのかは分からないが、霧峰さんのローテンションぶりはなんだか少し残念だった。
俺達の話が一段落した時、ちょうど亜里堅さんも席に戻ってきた。
乱暴に腰掛けて再び深い溜息をついた。
「すぐ来るってよ。というか、もうこの店の前に居るらしいわ」
「もういるの? ……ちょっと岸辺君」
亜里堅さんの言葉を聞いた霧峰さんは机に右手を置き、俺の方へと手を差し伸べてきた。
俺はその意図が理解できず、ただ俺の肩をめがけて近付いてくる彼女の左手の指を見ていた。
誰にも触れられていないキャンパスのように白く、細い彼女の指がまさに俺に触れる、その寸前だった。
「よお。来たぜ来たぜ~」
俺の背後、店の入り口から、淑やかな店内の雰囲気には間違ってもマッチしない軽い調子の声が聞こえてくる。
全員の目がそちらに向く。
「……片桐」
片桐は先程と同じようにやけに大きなファー付きのフードを脱ぎ、俺達の前へいかにも堂々と歩いて来た。
霧峰さんの指は止まり、片桐さんはカウンターに完璧に並べられていた椅子を一つ掴み、俺達の囲むテーブルの傍へ乱暴に置いた。マスターは何も言わなかった。そしてやはりマスターの顔は確認できないままだ。
「で、俺を呼んだ理由はなんだ。そんなガキまで連れてよ」
片桐さんの切れ長の目が俺を見る。
ムカッ。自分で言う分にはいいけど、他人に言われると腹が立つ。ムカッとしたけど、がまん。ここで言及しても話は進まない事を俺は知っている。
「説明しないでも分かってるんでしょ」
立ったままだった霧峰さんは腰を下ろし、俺をちらりと見た後冷たく言い放った。
「えー分かんないなぁ。教えてくれよぉ」
明らかに嘘だ。顔がそう言っている。
片桐さんは分かりやすくニヤニヤして亜里堅さんをと見た。
亜里堅さんは軽い舌打ちをして、腕を組んだ。その眼は多分、サングラスの下からしっかりと片桐さんの顔を射抜いていた。
「岬の様子がおかしい。如月を取り逃した後、こいつは俺に電話をかけてきたんだが、その事を覚えていないみたいなんだ。いや、それどころか俺達が岸辺とお前に接触した事すらだ」
亜里堅さんの説明を受けた片桐さんは、少し考えてふぅんと答えた。
「ねえ岬ちゃん。君が亜里堅に電話する以前の最後の記憶ってなんだ?」
「……妍治と一緒に岸辺君の動きを追っていたところだよ。でも気が付いたら妍治が居なくなってたんだ」
「それって何時頃かな」
「えーと……四時頃だったかな」
それを聞いて片桐さんは右に付けた腕時計を見る。
ついつられて俺も携帯で時間を確認する。ただいまの時刻は五時半です。窓の無いこの店からでは分からないが、きっと空は綺麗な茜色なんだろうなあ、なんてふと思いを馳せる。
で、それがどうかしたのかと、時計を見始めた張本人へ視線を向ける。
彼のその顔は心なしか少し笑っている様に見えた。
「やっぱりか……。岬ちゃんは出会っちまったんだよ」
「出会っちまった?」
「ああ。シャルル・バーロレールにな」




