ゴミ箱は投げられました
渋谷駅をハチ公口から出る。
スクランブル交差点を渡り、ビルの隙間を縫う。
ここに三週間前に来たのは覚えている。オカ研の申請が思ったよりすんなり通った事に浮かれて(主に門出が)、ビル群の間の、よくわからない裏道に来たのだ。もちろん裏路地に来ることが目的ではなく、JK一本釣りのスイーツ食べ放題店で祝賀会(仮)をして、その後に……。
あれ? 何をしたんだっけ。あれ? あれ? 思い出せない。たった三週間前の、友人と来たイベントエピローグ。鮮明に覚えていなくとも、何をしたかくらいは覚えているはずだ。
確かにこの場に来たことは覚えている。ここに来たところまでは覚えている。しかしただそれだけ。ここに来たという記憶だけが残っている。というよりかは、ここに来た以降の記憶だけが虫に食われたようにだぽっかりと消えている。
その場で立ち止まって、悶々としたどうしようもない記憶の渦に飲まれていると、そんな俺の肩が叩かれる。
まさかこんなビルの隙間で声をかけられるとは思っていなかったので、俺は少しではなく動揺した。
「やっと来ましたか。貴方みたいなのは珍しいですよ。いくら依存性が低いとはいえ、そう我慢できるものでもないんですけどね」
振り向くとそこに居たのは、スラリと細い体にスーツを纏い、髪を七三に分けた糸目の男だった。身長は百七十五くらいだろうか。モデル体型の線の細い男。赤子が叩けば割れてしまいそうなほど細い眼鏡の奥から、多分その男も俺の事をじっと見つめている(霧峰岬や吸血鬼の時と同じように)。まあ、糸目のせいで本当はどこを見ているのか分からないのだが……。
「だ、誰ですか」ともかく俺は男に返答した。不審者には挨拶をするのがと効果的なのだ(してないけど)。
男は俺の事を知っている様子だったが、俺の方は見たこともなかった。
男の印象はなんとも不気味で、ただそこに立っているだけなのにえもいえぬ気味悪さを醸し出している。『ハゲワシと少女』を撮ったカメラマンの顛末を知った時のような、吐き口のないえぐみが俺を支配していた。
俺の男に怯んだ様子を見て、男は少し不思議そうな顔をした。
そして一瞬の間の後、男は身に纏うスーツの内ポケットから、何やら錠剤の様なものを入れた小袋を取り出して言った。
「これをお求めなのでしょう。さあ、おいくらで」
首筋がピリピリと痒くなるのを感じた。それは吸血鬼と対峙した時と同じ感覚だった。
俺は彼が言っている言葉の意味をはっきりとは理解できなかった。
しかし彼の持つ明らかに異常で異質で不気味な存在感を俺が認めた時、俺は今自分が置かれている状況を冷水で顔を洗った時のようにさっぱりと理解できた。
俺は知っている。
男と男が持つあの錠剤。あれが俺の記憶の不鮮明さ、延いては吸血鬼化の原因なのだと。もちろん確証などない。思うに生活上の事象の原因は大抵が確証が持てないものなのだ。大方の予想が立っていたとしても(その確率が限りなく百パーセントに近かったとしても)それが絶対に正しい場合は非常に稀だ。
しかしいくら自分の置かれている立場を理解しようとも、その状況に慣れていない俺は、どう動くべきか、何をするのが正解かが分からず、懐疑の目だけを男に向けていた。いかにも訝しんでいる様子の俺を見て、男は何か指に刺さった棘が抜けた時のような合点の言った表情を浮かべた。
「貴方もしかして――」
何かを言いかけた男だったが、しかしその言葉が俺に届く事は無かった。
なぜか?
なぜならその言葉は、彼の体ごと遥か後方へ吹き飛んだからだ。
目の前にいた男が突然背後へと飛んで行ったという事実。
あまりに急な出来事だったが、俺の目は「2・3F 松屋専用」と書かれた文字をはっきりと捉えていた。それが書かれた”何か”が男の体に大きな衝撃を与え。そして弾き飛ばしたのだ。グレーの大きな塊。それはまるで裏路地を支配する大きな鼠の怒りのように思えた。
薄暗いアスファルト上に散乱する生ゴミ、遅れてくる様に聞こえるプラスチックが地面に当たる音。まごう事無きゴミ箱だった。形状は公園や学校なんかに設置してある円柱状の物とは違い、こういったうら汚れた路地にどかんと置いてあるそれだ。散乱する中身の量を見れば、およそその重量が軽くなかったことがよく分かる。下水のような匂いが周囲を満たす。
俺の後ろから飛んできたであろうそれの射出源を確かめるべく振り向くと――
そこには呆れを交えたため息もらし、激高にまみれ肩を回す別の男がいた。糸目の男もそうだったが、すらりと長い脚はまるで黒鍵のように滑らかで艶めかしく見えた。しかし、先にゴミ箱を投げたこの男の雰囲気は粗暴極まりないように思える。初夏にさしかかろうという六月のこの季節に太陽光をよく集めそうな黒いトレンチコートを着て、見ているだけで暑くなってくる程長いズボンに足を収めている。
「如月ィ! てめぇぶち殺すぞ!」
新しく現れた男は突如怒鳴り、深くかぶっていたファー付きのフードを上げた。気温と服装、そしてゴミ箱を投げて怒鳴るという極めてカロリーの消費効率が良さそうな行為の後にも関わらず、男は息が上がっていないどころか汗一つ見せていない。こんな人間がいるのか? なんて疑問を浮かべながら、俺は二人の男の内臓に染み渡る圧倒的な存在感に息をする事すら忘れていた。
状況を今一つ正確に飲み込めていない俺をよそに、ゴミ箱を投げた男のさらに奥から、今度は聞き覚えのある女の声が聞こえた。
「岸辺君! そこにいるね!?」
声の主は俺の最近の悩みの源泉である霧峰岬で、その横にはやはり亜里堅も佇んでいた。
急な問いかけにも答えられなかったが、それは俺の気が動転していたからではない。彼女の問いに対する相応しい答えが思いつかなかったからだ。そこにいるか? という問いには、単にここにいますとかえすべきなのだが、俺にはどうもその言葉が正しいようには思えなかった。自分が本当はここにはおらず、革命期の西洋の激動を描いた物語に迷い込んでしまったような気分だった。
「って、片桐? 何であんたがここにいるのさ」
俺への慌てた言葉とは違い、今度はかなり冷静なトーンで霧峰は男へ尋ねた。ポリバケツ肩ぐるぐるの男は片桐というようだ。
「俺は如月がまた下らねえ事してるからぶん殴りに来ただけだ」
さっき片桐とやらが呼んでいた通り、あの糸目の男は如月というらしい。うん、覚えた。
「如月? 誰さ」
「た、多分あの男です。あの人、俺に錠剤を売りつけようとして来ました。俺は覚えてないんですが、以前俺はその薬を貰っているみたいです」
片桐の代わりに、俺が霧峰にそう伝える。あの男から話が聞くことができれば、吸血鬼事件も解決すると直感しての行動だった。
すると霧峰は俺の話を聞くや否や男へ走り出した。俺が言葉を最後まで言い終わるよりも先に彼女は走り始めたかもしれない。それはもはや反応というよりかは反射に近い速度だった。
しかしそれと同時に、今までへたり込んでいた如月も立ち上がり、俺達にも聞こえるほどの舌打ちをして逃げ出した。
「妍治! 岸辺君と片桐をよろしく!」
亜里堅にそう言い残した霧峰は、激しい勢いで奥へと消えていった。彼女はその走行スピードも抜群に速い。並みの単距離走の選手の比ではなかった。霧峰と如月の間にはそれなりに距離があったが、あの分だとすぐにでも追いつけそうだ。
あいよ〜と気怠げに返事をした亜里堅。その声はおそらく霧峰には聞こえていない。彼が承諾すると確信して彼女は走り出したのだろう。
「おい片桐。お前話聞かせろよ」と亜里堅は辺りをきょろきょろしながら言ったが、声をかけられた当の本人の姿はもうそこには無かった。
あれ? 今さっきまでそこにいたのに、あの男はいつの間に居なくなったのだろうか。音もなく、気配もなく、彼はもうそこにはいなかった。
彼は何者なのだろう。少なくともあの時俺は困っていたから、まあ結果的に助けてくれたのだろう。彼は個人的な憂さ晴らしのようだったが。
「亜里堅さん、片桐さんって何者なんですか? 彼もドルルーサの一員ですか?」
分からないことがあるなら分かっている人に聞くのが一番だ。人間素直が何よりだと俺は思う。
予想では軽く教えてくれるはずだったが、亜里堅は黒く大きなサングラスの下で明らかに鬱陶し気な目をした。
「あー、うん。あいつはな。ただの情報屋だ。何でもねえ、何でもねえよ」
その返答と態度から感じられたのは曇り混じりっけのないの無い秘匿だった。
予想(希望)とはほぼ真逆の反応だったからか、その態度が気に入らなかったのか、俺は無性に腹が立った。
「教えて下さいよ。俺も言わば当事者でしょう。それに関わる事を隠すのはやめて下さい。人をこんな訳の分からない事に巻き込んでおいてそれは無いでしょう」
こういう口を叩ける態度じゃないとは重々承知だが、一度零れ落ちた水を塞き止める事は出来なかった。俺は昔からこういう節があるのだ。頑固というか、意固地というか。
俺の言葉を受けた亜里堅は多少キリリとした真面目な顔に戻り、今度ははっきりと俺の目を見て言った。
「何も意地悪で教えねえ訳じゃねえよ。ただな、あいつは出来れば関わるべきじゃない人間なんだ。お前ももう子供じゃねえ。お前のためを思って言ってる事くらいわかんだろ?」
改めて受ける拒絶に、中途半端な納得を覚える他無かった。
お前のため。大人たちは皆そう言う。それは大人達の善意も悪意もごちゃ混ぜにして有耶無耶に塗りつぶしてしまう卑怯な言葉。本当に俺達の事を思っていても、大人達に都合が悪い事を隠すためでも、その真意は大抵俺達には届いていない。その真意に気づくのは常に、俺達がそれを言う立場になってからなんだろう。ムカつく。
俺はまだ子供だ。そう思いながら何も言わずに拗ねていると、亜里堅は一人言のように話しを続けた。
「俺達はな、その力を使ってお前を拉致し、体の隅から隅まで調べる事だって出来たんだ。お前の友人だろうが何だろうがダシに使ってな」
それを聞いて、俺が初めて彼等と対面した時、俺に恐怖心を植え付けた彼等の言動を思い出す。
「当初はその予定だったさ。でもあいつ、霧峰岬はその方法に反対したんだよ。もっと許される方法があるだろうってな」
あの人が? とてもそんな風には見えなかった。言葉こそ鋭くないものの、その態度から人間味の薄い印象を抱いていていた。AIに表情のヴェールを張ったような人間だと、どことなくそう感じていた。そう思わせるだけの要素が彼女にはあった。
「だから今あいつは走ってる。危険さ。本来なら俺が行くべきなんだろうぜ。でもこれは責任なんだ。俺達が課してるんじゃない。あいつは自分でお前を守る道を選んだから、自分でケツをふいてるんだ。ただそれだけだ」
亜里堅は俺の両肩に手を置いて、目線を俺の高さまで下げ、一息ついてこう続けた。
「俺達はお前を守る為に命さえ賭して動いてる。それがお前らに伝わるとは思っちゃいねえが――これは事実なんだ。俺も岬も、長生きしちゃいるが、口はどうも下手なんだ……おまえの混乱はわかる。本当に申し訳ないとも思っている。だからってわけじゃねえが……俺達の事をどうか信用してほしい」
サングラスが透けて、奥にその瞳が見える。人の目の事なんて分からない。詐欺師の目も、いい人の目も同じに見える。だから今、目の前にある二つの印の真意も理解できてはいない。だけど――
「……俺は俺の事すら最早信用出来ません。それなのに得体の知れないあなた達の事なんて尚更です」
俺は肩に置かれた亜里堅の手を下ろし、口を開いた。
彼の目を見て、彼女の行動を考える。
吸血鬼に追われていた俺を助けたのは誰だ? その直前に俺が怒鳴りつけた女だ。
彼らがここへ来たのはどんな時だった? 俺がよく分からない男、如月に絡まれた直後だった。
霧峰が走り出したのはなぜだ? 俺の言葉を聞き、信用したからだ。
俺はもう気付いてる。彼女達は信用のおける人間だ。少なくとも今、この特殊な状況下において、俺が唯一頼れる人達だ。俺はただ日常に介入してきた異物を認めたくなかっただけだ。
何が長く生きてもだ――。あんた達どう見ても二十代前前半だろ……。
ハハ、バカみてーだ。
「ああ、そうですね……。俺は自分の事すらよく分からない。不安だ。だけど……だからこそ俺は俺の言葉を信じたあなた達を信じます。よろしく、お願いします」
俺は何て都合のいい男だろう、そんな思いを孕みながら、亜里堅さんへ右手を差し出した。
それを見た亜里堅は一瞬驚きの表情を見せた後、俺の手を力強く、固く握った。
よろしくな、と言う彼の顔は確かに笑っていた。




