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Ace of thin ice  作者: 小鳥遊
吸血鬼編
31/32

狼は坂に踊る

「さて、帰ってきたはいいものの……」

 私達は妖精の草原から帰還し、入った時と同じ、聖ストゥルヌス高校の校門前に足を着けた。

「妙に静かだね……暴走した吸血鬼がいたとは思えない」

「ああ。いくら山崎の叫びで沈静化したからといって、あまりにも静かすぎるな」

 私は腕時計をちらと見る。今は五時半。人々が最も活発になる時間のはずだ。

「山崎さん。スマイルユーザーが吸血鬼化した時、この世界は何時ごろだったか分かる?」

「明確には分からない。妖精の草原はこの世界よりもゆっくりと時間が流れるけど、一秒ごとに比率は変わるんだよ。あの空間については申し訳ない、私も詳しいわけじゃないんだ」

「そう。じゃあ妍治。とりあえず君は警視庁へ話を聞きに行って。私は本部に戻ってはづきに街の様子を教えてもらう」

「分かった。おい片桐。オメーはどうすんだ」

「僕? 僕は好きにやらせてもらうよ。なにせ僕はドルルーサとは関係ない人間なんだからね」

 片桐はそう言って手をひらひらと舞わせながら、一人どこかへ行ってしまった。彼はそういう奴だ、仕方がない。むしろ、ここまで手伝ってくれた事が奇跡といえるだろう。

「それで岸辺君達は――」

 私は岸辺君に、これからどうしたいのかを尋ねようとする。しかし彼は、何やら切迫した表情で携帯を耳に当てている。しばらくそうした後で、彼は少し焦りながら私達を見た。

「霧峰さん……中原が――」



 私の車の助手席には岸辺君が座っている。後部座席には山崎さんが小さくまとまっている。

「次、左です」

 岸辺君のナビゲートに従い、私はハンドルを切る。

 交通量はいたって普段どおりであり、私が想像していたような人々のパニックの様子は見て取れなかった。車内は岸辺君の携帯が鳴らすコール音を除いては、ほぼ無音に近かった。


 岸辺君の携帯には、中原君からの留守番電話が残っていた。午後四時ごろに連続して入っていたそれには、中原君が自宅で吸血鬼に遭遇したと思われる音声が録音されていた。岸辺君と山崎さんには足が必要だということで、本部に行くのは妍治に任せ、私が彼らを中原君の家へと運ぶ事に相成った。


「ここです」

 岸辺君は住宅街の中の、わりに小綺麗なマンションを指差した。高校生が一人で住むには少し立派すぎると思ったが、山崎さんが彼らの親御さんを”眷属”にしているのなら、金銭的な援助も何かしら行っているのだろう。彼女の力があれば、綺麗でなくとも金ならいくらでも捻出できるはずだ。

 岸辺君は中原君の部屋番号を入力し、コールを鳴らす。反応は無かった。岸辺君は反応が無いと分かると、今度は別の番号を入力する。すると自動ドアは開き、ロビーが私達を向かい入れる。

「早く行こう。中原が……」

「そうだな。急ごう」

 エレベータで三階に上がる。三〇二号室のドアノブに、岸辺君が手をかける。鍵はしっかりとかかっており、閑静な廊下にはドアノブが揺れる音が虚しく響く。山崎さんがチャイムを鳴らすも、同じく反応は無かった。彼らが家の住人を呼んでいる間、私はその間、マンションの廊下を見回した。どの部屋も特に慌てた様子はなく、おそらく普段通りの空気が流れていた。

「霧峰さん。鍵、開けられますか」

 少し気を逸らしていた私に、岸辺君が訊く。私は少し躊躇ったが、開けられると答えた。財布から三本の針金を取り出し、鍵穴に差し込む。折れ曲がった針金を操作していると、カチャリという感触が私の手に伝わる。

「開いたんですね」と、岸辺君は言い、私の返事を待たずにドアノブに手をかけた。


 私達は中原君の部屋へ入る。

 部屋は見るも無残に荒らされていた。机や椅子は倒れ、切り裂かれたソファーからは溢れる様に綿が飛び出している。本が散らかり、食器の数々がそこかしらに割れている。そして何より……隣の部屋とつながる壁に、大きな穴が開いている。丁寧に削られのではなく、鉄球をぶつけた時の様に壁が粉砕されている。明らかなる異常だった。

 強盗に入られた以上に荒れた部屋の真ん中に、中原君は仰向けに倒れていた。

 岸辺君と山崎さんは慌てて彼の元に駆け寄り、中原君の名前を呼ぶ。私も彼を見るが、彼は生きている。外傷は無く、顔色も良好。呼吸で胸が膨らんでいるのも分かるし、ひとまず彼に問題は無さそうだった。

 なので私は、この部屋に入ってまず初めに気が付いた違和感を探る事にした。


「おい、中原!」

 俺は中原の顔を叩きながら呼びかける。この状況、あの留守番電話、不安にならないわけがない。俺が中原を覚醒させようと、ゆすったり叩いたりしていると、門出が中原の首筋と手首に指を当てた。

「大丈夫。脈はあるよ」

「生きてるのか?」

「うん。呼吸は普通にしているし……気を失ってるだけみたい」

 良かった……と俺が胸を撫でおろした時だった。

「ん……んぁ? 門出……? 岸辺も……なんで居るんだ?」

 と、まるで朝寝ぼけた時の様に怠い声を上げながら、中原が目を覚ました。

「良かった。気が付いたみたいだね」

 と、窓に手を置いている霧峰さんが声をかける。

「霧峰先生まで……。あ、そ、そうだ! 岸辺大変なんだよ! テレビでやってた化け物が! 壁破って来たんだ!」

「うん……」

 中原が思い出したかのように慌てだす。状況から察してはいたけど、隣の住人がスマイルユーザーだったんだろう。そして中原の部屋に侵入してきた……。門出は中原にバツの悪そうな、なんとも言えない表情で相槌を打った。

「中原……その化け物について、私から謝らないといけないことがあるんだ……。聞いてくれる?」

「な、なんだよ話って……それに、なんだよこの空気……お前ららしくねえじゃん……?」

 戸惑う中原に対して、門出は少しずつ口を開いた。門出が吸血鬼である事。この世を恨んでいた事。スマイルを作っていた事。吸血鬼を暴走させたこと。そして……両親を眷属にしていた事。妖精や霧峰さん達についてはある程度伏せてはいたが、門出はありのままを中原に伝えた。そして最後に深く頭を下げた。


「……なるほどな」

 黙って話を聞いていた中原は、門出の謝罪を見ると、そう呟いた。

「門出……まず頭を上げてくれ」

 深々と地面に頭を付ける門出に、中原は言った。どう反応していいのか分からない、といった感情が目に見えて分かる。混乱するのも無理は無い。

「信じろって方が無理な話だな……門出が吸血鬼で。あの化け物はスマイルの使用者で。俺と雪の親も手中にある。信じられねえよ。意味分かんねえ馬鹿だとは思ってたけどここまでだとは……」

 中原の反応は当然だった。俺だって、吸血鬼の話を初めて霧峰さん達にされた時は馬鹿らしいと一蹴したのだから。

 疑心を孕んだ目で、中原が俺の顔を見る。俺は何も言わずその目を見返した。

「まあでも……お前らがこんな真剣に言うんだからそうなんだろう。実際、俺はあの化け物を見てるわけだしな」

「中原……。私の事……嫌いになったよね。恨めしいよね……ごめんね」

 門出が消え入るような声で言う。俺は門出をフォローする事も、中原に声をかける事も出来ずにいた。彼が受けたショックはおそらく俺よりもはるかに大きいものだろう。霧峰さんは相変わらず窓際で、何かを考える様に腕を組んでいた。

「……雪はこの話を聞いてどう思ったんだ。門出と一緒にいるって事は、当然お前も知ってたんだろ」

「俺は……」

 俺は門出に目をやる。門出は今にも死にそうな顔をしながら、少し涙ぐんだ目で中原を見ていた。やれやれ、今泣きたいのはお前じゃなくて中原だろ、と俺は少し呆れてしまった。

「俺は門出を許すことにした。俺達は六歳の頃からずっと一緒にいた正真正銘の親友だ。門出の背負っているモノに気が付けなかった事に、俺は責任を感じている。だけど……こう言っちゃなんだが、中原は中原だ。お前がどう感じるかは、お前が決めるべきだ。俺はお前の選択が何であろうと受け止めるし、尊重するつもりだ」

 中原は門出を見なかった。だけど、中原は予想外に冷静だった(あるいは混乱しているだけかもしれないが)。喚くことも、狂乱すことも無く、ただ黙々と頭を回転させていた。


「――時間をくれ。お前ら、今日は帰ってくれ」

 少し間があって、中原は言った。そして立ち上がり、やはり考え込んでいる様子の霧峰さんの元へと歩み寄った。

「霧峰先生。門出の説得を手伝ってくれたそうですね。ありがとうございます」と言って、軽く頭を下げた。

「うん。君には考える時間が必要だね」

「ええ。失礼だとは思いますが、今日はお帰り下さい。少し、一人になりたいんです」

 霧峰さんは中原の言葉に頷いた。

「だけど中原君。君をこの部屋に残す訳にはいかないね。今夜泊まれる場所を用意するから、適当に身支度をして後で降りてきてくれるかな」

 荒らされたこの部屋を見渡し、そして確かに窓を少し見た後、霧峰さんは言った。中原は「いえ、大丈夫です」と遠慮したが、霧峰さんは譲らなかった。

「先生の顔を立てさせてよね。君はかわいい生徒なんだ」と霧峰さんが作った笑顔を浮かべると、中原は分かりましたと頷いた。


 エレベータで階下に向かいながら、私ははづきに電話をした。岸辺君と山崎さんを本部へ連れて行ってもらうためだ。彼女の車に乗ってもらう事を二人に説明すると、岸辺君が分かりましたと承諾した。エレベータが鳴るまで、それ以外に私達の間に会話は無かった。

 はづきの運転する車が二人を乗せた頃に、中原君は降りて来た。私が勧めると、彼は頷いて助手席に乗り込んだ。

 彼は都内にあるホテルに泊まってもらう事にした。ドルルーサを知る人物が運営している、信頼の出来るホテルだ。彼も同意してくれた。

 中原君は移動中、ずっと難しい顔をしていた。無理もないと思った。彼の心境は正確には分からないが、慮る事は出来る。十五歳の小さな体に、彼は事実を背負いきれるのだろうか。私は心配だった。誰もが岸辺君の様に強い人間ではないのだ。当たり前だ。

「中原君……君はさっき、私が山崎さんの説得を手伝ったと言ったね」

「はい」

 少し間をおいて彼は答えた。

「それは少し違うんだ。私は実のところ、何もしていない」

 それは事実だった。私達には山崎さんを止める事が出来なかった。中原君は黙って私の話を聞いた。

「山崎さんを改心させてくれたのは、岸辺君と彼女自身、そして中原君。君なんだよ」

「……どういう事ですか」

 中原君はひどく丁寧に返した。彼もまた、岸辺君と同じようによくできた子だと私は思った。

「それは君自身が知っているはずだよ」

 私がそう言うと、彼は何も答えずに窓を見た。助手席から見える街灯を、彼はぼんやりと眺めていた。そしてホテルに着くまで、一言も口にしなかった。

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