傀儡は白い家の夢を見るか?
私は目を閉じたまま、自分の頭に衝撃が与えられない事に違和感を覚えた。いつまで経っても、最後に見た拳が振り下ろされない。タキサイキア現象とはこんなにも長く発揮されるものなのか?
私は目を瞼を開き、現実が如何なるものかを確認した。
山崎さんの殺意に満ちた拳は、一つの手によって止められていた。それは驚くべき事に、同じ大きさの、同じ色をした、山崎さんの手だった。別の彼女が、私を殴らんとする彼女を止めていた。
目の前で何が起こっているのか分からなかった。
ただ、この機を逃すまいと最後の力を振り絞り、私の襟を掴む吸血鬼を蹴り、その場から這うように離れた。何が起こっているのか理解できていないのは彼女も同じだったようで、それは簡単に成し遂げることが出来た。
「何……やってるの? どうして私を止めた?」
「わ、分からない。咄嗟に……。何となく、止めなくちゃって……」
「ふざけないで! こいつらは私の目的の障害! 殺すんだッ!」
「そ、そうだよね。分かってる。分かってる。私達は一人……同じ人間なんだから」
私は妍治と片桐の様子を見た。彼らの元に居る山崎さんの間でも、同じような事態が発生しているようだった。妍治にとどめを刺そうとする彼女を、別の彼女が止める。片桐に攻撃を与えようとする彼女を、別の彼女が妨害する。
そして私は岸辺君を見た。岸辺君を包むどす黒いオーラは一層濃いものとなっており、そんな彼は……山崎門出を殴りぬいていた。
「き、岸辺……」
「チャラだ……」
「え?」
殴られた衝撃でしりもちをついた山崎さんに、岸辺君はユラユラと揺れながら近付いた。そして彼女の前にしゃがみ、もう一度、彼女を抱き寄せた。今度は胸に収める様にではなく、肩に顎を乗せた、親愛のハグだった。
「今ので……チャラにしてやるっつってんだ! 俺の母さん……父さんの事……今まで隠していた事……全部だ。清算してやるって言ってんだ!」
「岸辺……」
放心状態の山崎さんを、依然変わる事無く岸辺君は抱きしめている。私達を殺そうとしていた彼女達は、今は岸辺君の事をじっと見ている。奇妙な事に、彼女達も私達と同じく、観客の一人へと変わっていた。
「……いいんだ。無理しなくても。岸辺が私を許せるはずが無いのは分かってる。岸辺は私を恨むべきなんだよ。私にはその覚悟が出来てるんだから」
「……馬鹿野郎。俺はお前を恨んだりなんかしない。お前は悪くないんだ……その事を俺は知ってる……中原だってそう言うよ。だって俺達は……家族だろ。血は繋がってなくたって、ずっと一緒にいた、正真正銘の家族だ。違うか?」
山崎さんは何も答えない。岸辺君の放つオーラが、彼女の表情を見せようとしない。
「それに……お前だって本当は止めて欲しかったんだろ? だからドルルーサに依頼をして……手紙を渡した。目的を果たしたい気持ちと止めて欲しいって気持ち……お前はその狭間で、ずっと苦しんでたんだろ? 気付いてやれなくて……ごめんな」
永遠とも思える静寂の時間が訪れる。私達は動けない。動くことを許されない観客。主役は岸辺君。ヒロインは山崎さん。私達はその推移を見守るだけだ。
突然に九人の彼女がその場に座り込む。トンビ座りをして、体中から力を抜いているように見える。彼女達からは魂が抜けだしたように瞬き一つしない。光りのともった確かな目で、山崎さんと岸辺君を見ている。
私は岸辺君を見る。比べる様に、座り込んだ山崎さん達を見る。
やがて、私は先程座り込んだ彼女達の瞳から、涙が流れているのに気が付いた。一筋の綺麗な水脈が彼女達の頬を伝っている。まるで感動映画を見た時の様に、彼女達は声を上げることなく頬を濡らしている。
そして岸辺君と抱き合う山崎さんが声を上げる。
「この計画で……一番の失敗は……あんた達に会った事だよ……」
ぽつり、ぽつりと彼女は言の葉を紡ぐ。
「私は……あんた達に出会わなかったら! あんた達がいるこの世界が!」
彼女の声は少しずつ大きくなり、同時に湿っていく。
「門出……俺達に出会わなかったら……本当にそう思うか?」
「私は! あんた達が好きなんだ! 好きになっちゃったんだよ! でも憎い! お母さんを殺したこの世界が! お父さんを壊したこの世界が! 憎いんだ! 憎いんだよお! うわああああああああぁん……。岸辺ぇ! 私! 間違ってたのかなぁ!」
彼女は猛りながら泣いた。大きな声を上げて泣いた。岸辺君はより強く、彼女を抱きしめた。
「お前は間違ってないさ……この世界を憎めばいい。俺もお前らが好きなんだ。お前らが道を外せば、俺は正す。どうしようも無く苦しいなら、分かち合う。何もかもが憎いなら、それも分かち合う。だけど、なぁ、門出。俺と中原の居るこの世界を……それでも崩壊させたいか?」
岸辺君の声は私達の耳にもはっきりと聞こえた。それほどまでに今、この空間は静かだ。音は音もなく死んだのだ。
岸辺君の問いに、山崎さんは何も応えなかった。しかし私達の傍で座り込む彼女の体は少しづつ黒煙のように空気に溶けていき、そしてオリジナルの彼女の元へ吸い込まれるように消えていった。それが彼女の答えだった。
岸辺君は消えゆく彼女達を見なかったが、何かを悟っている様だった。
「そうか……ありがとな」
山崎さんの耳元でそう呟き、もう一度、今までで一番強く彼女を抱きしめた。彼の体が、少しだけ震えているようにも見えた。
岸辺君は山崎さんが泣き止むまで、ずっと彼女を離さなかった。彼女はそれはそれは長い間泣いていた。まるで十年間溜まり続けた涙が一度に溢れでいるようだった。その間私達はじっと抱き合う二人を見ていた。私達が見ているのは奇妙な友情ではあったが、それを知らない私には、彼らの関係がとても美しいものに見えた。
山崎さんが泣き止むと、岸辺君は立ち上がった。
「ほら、門出。立てるか?」と、山崎さんに手を差し出す。「うん」と彼女は答え、手を重ねた。
そして岸辺君は辛うじて上半身を立たせて座る私達の方を振り向く。
「霧峰さん達……大丈夫ですか」
「……大丈夫だよ。何とかね」
私達への岸辺君の声には、山崎さんの時のような温かみがあまり感じられず、私は露骨だなあ、と少し笑ってしまった。
「山崎さん……元の世界では今、吸血鬼化した人達が暴走していると言っていたね。それを戻す方法はあるのかい」
「うん……。あなた達にも酷いことした……ごめんなさい」
彼女は一転、しおらしく私達に頭を下げた。
「謝るのは全部終わってからにしな。山崎……戻す方法があるのなら、すぐにそれをしてくれないか」
妍治の言葉に、彼女は頷いた。
そして彼女は、叫びを上げた時と同じように、大きく天を見上げた。私達は咄嗟に耳を塞ぐが、今回彼女から聞こえてくる声は、先程のような奇怪なものではなかった。
湖の湖畔を少女が踊っている。水面は静かに揺れ、風は少女の髪を柔らかに撫ぜ、花の香りは少女を見守る様にその場を包んでいる。少女は鼻唄をうたう。
彼女の叫びは、声量こそ先程と変わりないものの、その印象はまるで違っていた。安らかな彼女の声は、少女の鼻唄だった。耳に優しく、聴く者をリラックスさせる、そんな効果がある様に思えた。しかし、先程も思った事だが、山崎さんのあの小さな体のどこからこんなにけた違いな音声が出てくるのか、私には不思議でならなかった。
岸辺君の体からはどす黒いオーラが消え始める。その時初めて気が付いたのだが、彼の体には吸血鬼の身体的特徴は顕現していなかった。牙も爪も瞳の色も、私達が普段接している彼とまるで同じだった。それでも癒しの叫びを聞くまでの彼が吸血鬼であることは明白だったし、今の彼が元の岸辺君に戻っていることも分かり切っていた。私には彼の変異を考察するだけの知識と身体的余裕が無かった。それに、彼にどんなことが起ころうとも、そういうものなのだと受け入れられる気がしていた。
今度の叫びは体感で三十秒ほど続いた。
「……これで吸血鬼はその力を失った……というより、もとの人間に戻ったはずだよ」
「君は叫びに呼応した吸血鬼は見境なく人を襲うと言っていたね……岸辺君はそんな感じでは無かった……彼に特別な暴力性は見られなかった気がするけど」
「岸辺に関しては私も分からないよ。理性を保ったスマイルユーザーの吸血鬼……少なくとも私は初めて見たね」
山崎さんに分からないのであれば、私達に分かるはずもない。もちろん、岸辺君にも。つくづく、彼は異例の存在なのだな、と私は改めて認識する。
「そんな事より岬。外の世界だ! 吸血鬼達が荒らしたのなら、後の処理をしねえと!」
私達を見て、妍治が上着を脱ぎながら言う。そうだ、外の世界では吸血鬼が人間を襲っていたんだ。一刻も早く、様子を確かめなくては。
「そうだね。急ごう。……山崎さん。君も手を貸してくれるかい?」
私は山崎さんの目を見て言う。彼女の目はこすったせいで少し充血しているが、私は悪意を一切感じなかった。まるで先程までの彼女とは別人のようだった。
山崎さんは何も言わずに頷いた。
「俺も手伝います。出来る事があるかは……分かりませんけど。門出の引き起こしたことなら、俺にだって責任はありますから」
岸辺君が服を脱ぐ私に言う。
「心強いよ」
とだけ私は答えた。私は本心からそう言った。私は――いや、この世界は彼に救われたのだ。大袈裟でもなんでもなく。




