霧峰岬かく語りき
おいしい。
喫茶店で噛み砕くお冷の氷は、何故こうも美味なのか。一転して静寂を取り戻した店内の雰囲気が、本来持ち得ないはずの氷に絶妙なテイストを与えるのかもしれない。
冷えた頭で考える。
やってしまったと思っている。
焦りすぎたと反省している。
彼が明らかに機嫌を悪くしたことには、私でなくても気が付いていたのに。
「あの子怒ってたぞ。お前は話が急すぎるんだよ」
ほら。日本で見ても有数のバカでおなじみの妍治でさえ察していた。
今回彼を怒らせたのは私だから、何も言い返すことが出来ないのがとても歯痒い。本当に歯痒い。
「とりあえず追おうか。みすみす彼を襲わせるわけにはいかないからね」
「みすみすあの子を一人にしちまってんだけどな」
妍治の嫌味を無視し、彼が机に叩きつけた千円札を回収して二人で喫茶店を出る。店からすればこの上なく迷惑な客だっただろう。本当に申し訳ないと思っている。
「随分遠くに行っちゃったね」
私は手に持った端末を見ながら呟く。
「でも行き先は家だろ」
「たぶんね。……それにしても変な道通ってるなあ」
私がそう言うと妍治は端末をひったくり、私の頭上で画面を確認し始めた。
あれは私が彼……岸辺雪に声をかけた時に、彼の肩に付けておいた発信器の位置を確認するものだ。勿論発信器はすぐに回収するか、もう少しまともな場所に付け替えておくもりだったが。そうさせてもらう前に彼は帰ってしまった。ひとえに私のミスだ。
妍治がこっちだ、と指差す方向へ私達は早足で歩き始める。
「気付かれねえ程度に近付かなくちゃなぁ」
彼は明らかに私達を警戒している。
私達が再び接近していると彼が気付けば、少々面倒臭い騒ぎになるだろう。
「そういえば岬。獲物持ってきてないけど大丈夫なのか」
「彼を見つけるのが思いのほか遅くなっちゃったからね。それじゃ妍治、万が一の時の為に取って来てくれないかな。あと君の分の端末もね」
私は妍治から端末を奪い取りそう言いつけた。妍治は「一つ貸しだ」と言って立ち止まり、電話をかけ始めた。
それを視界で端で捉えた後、改めて岸辺雪の居場所を確認する。
よしよし、このペースなら後五分もすれば丁度いい距離につける。
……彼を失うわけにはいかない。やっと見つけた貴重な手がかりだ。早急に保護したいんだけど、問題はどうやって信頼を得るかだよね。さっきは焦りすぎたから――
彼の信用を勝ち取る為の策を頭の中で色々と巡らせていると、手に持つ端末がピーという耳に障る音を発した。
まさか――
この音は対象が急に移動速度を速めたり、発信器に強い衝撃が与えられた時に鳴るもの。
慌てて画面を確認する。
今回は前者のようだ。端末上の地図を動くポイントが、先ほどとは比べ物にならない速度へと変わっている。
私は歩くのを止め、走行へとシフトした。幸いな事に私と彼の距離はそう遠くない。
……妍治は間に合うかな。
*
目が覚めると、枕元の時計は午前十一時半を指していた。
頭がズキズキと痛む。昨日は何があったんだっけ……。
寝起きだからなのか、ぼんやりとする頭でどうにか思い出そうとしながら、俺は寝室からリビングへと移動する。
中途半端な時間のブランチを作ろうと冷蔵庫へ近づいた時、冷蔵庫の扉に磁石で固定された紙を見つけた。
「なんだこれ」
俺はその紙を手に取る。一枚は千円札、もう一枚はメモだった。
『おはよう。
このメモを午前の内に君が見ている事を期待してるよ。
さて、君は昨日の出来事を覚えてるかな。気を失ってしまったから覚えてないかもしれないね。
どうだろう。少しは私達の事を信用してもらえたかな。
君は私達にとって大切な存在なんだ。改めて話をさせてもらいたいから土曜日十二時ごろにもう一度訪ねさせてもらうよ。』
反射的に再度時計を見る。時計は十一時半のままだった。
その手紙は誰が書いたかは一切記されていなかったが、おそらく昨日の女性、霧峰岬だろうと容易に推測できた。
まだ完全には思い出していないが、俺は多分彼女に救われた。そしておそらくこの家まで送られたのだろう。
霧峰達が言っていた事は本当なのか? 少なくとも吸血鬼はいた。
そして、彼女達が嘘をついていないならーー
俺も吸血鬼という事になる。
にわかには信じられない。というかそれだけは全く信じられない。
そもそもあの吸血鬼だって、彼女らの自作自演かもしれない。俺の記憶が正しければ、霧峰はあの吸血鬼の首を跳ね飛ばした。
逆に自演では無かった場合、彼女は躊躇なく人を殺したという事になる。いや、人ではないのか?
……分からない。考えていても分からないので、俺は考えるのを止める事にした。
メモによると、彼女達は十二時に俺の家へ来る。何はともあれ、もう一度話を聞いてみるしかない。
俺はメモを置いて、適当に選んだ食材を食パンに挟み、ブラックコーヒーで流し込んだ。
遅い朝食と早い昼食を終えた俺は、ソファーに横たわりながら不吉な訪問者をじっと待つことにした。




