永久に終わることのない告白②
「私の中にある空腹や疲労感はすっかり無くなっていた。一日ぐっすりと寝て、爽やかな朝日を浴びた時のようなすがすがしい気分だった。私は手元から無くなった赤い皮の本を探した。
でもそれはどこにもなかった。本棚にも机の下にもありはしなかった。まるで元からその本自体が幻想であったかのように、一切の痕跡を残すことなく私の視界から消えてしまっていた。私は本を探す事を諦め、父の元へと向かった。
父は地下にある研究室にいた。私が木製のドアを開いたことにも気付いていなかった。父は研究室の中で一生懸命何かの機械を組み立てていた。時折何かを呟き、笑った。岩の裏側の虫のようにくすんだ笑みだった。私はその父の姿を見て、腹の奥底に沸々と感情が湧き出てくるのを感じていた。しかしそれが何なのかはその時分からなかった。そして私は父に声をかける事もなく、そっと扉を閉めた。扉は初めから何もされていない、ただそこに扉として生きているだけなのだと言わんばかりに無言だった。
私は地下から上がり、父の書斎に戻った。そこには相変わらず山のような数の本が静かに並んでいた。私は私が、この家に、いやこの世界に唯一生きている人間のように感じた。あまりに周囲は静寂に包まれていて、その空間では時計の針の音すら静けさに飲み込まれ、息を殺されていた。私は目についた本を取ろうと、脚立に足をかけた。普段私が使っていた木の脚立だ(それは父が私の為に用意してくれたものだった)。しかし、私の体の重みを感じ取った時、脚立は壊れた。軽快な木の漏らし、脚立はその機能を失った。深い森の奥のように静かな部屋に、木製の断末魔がこだました。だけど、やはりそれも深い森の中へと吸い込まれるように消えていった。脚立はそこまで古くなかったし、破損の兆候も今まで見られなかった。
そして私は理解したんだ。脚立は自然に壊れたんじゃない。私が脚立を破壊したんだ。私の体がそれに必要以上の圧力をかけ、そして脚立は当然砕けた。私が行ったのは豆腐にバットを叩きつけるに等しい事だった。私は無残に散乱した木の破片を拾った。そして私が指にほんの少し――母親の胸の中に眠る赤子の手を触るみたいに――力を入れると、その破片はザルで梳いた砂のようにサラサラと空中へ飛散していった。脚立は自然に壊れたのではない。私が壊したんだ。
私は当然恐れた。人間が生きていくうえで――あるいは死ぬうえで――必要以上の力を手にしてしまった事に。それは言うまでもなく吸血鬼から授けられたものだった。そして私は同時にこうも思った。私は力を持っているのだ。この力は他人には無いものだ。強盗がお母さんを殺したように、お母さんの死が父を狂わせてしまったように、吸血鬼が私をフォロワーに選んだように……この世界では力の無いものは淘汰され、消えていくんだ。弱者には強者の決定を揺るがすことはできないんだ。それが(皮肉にも)自然界の掟だと。私は強者側に立ったのだと。ならば使うべきではないか。揮うべきではないか。私は肉食動物なのだ。ヒエラルキーの頂点に君臨し、生を失うものかと奔走するシマウマ、ガゼル、ヌーを狩るものだ。
私は書斎の中のどこかを舞う木粉を想いそう感じた」
「そして私が今現在行っている計画――あらゆるイレギュラーによって凹凸はあるものの、順調と言える――を思いついたのはその次の日だった。
あの時の私は比較的利口だったと思う。むやみに力は使わずに、ただ出来る事を一つずつ、そして確実に理解していった。傷がすぐに治る事、私に従順な”眷属”を作ることが出来る事……眷属を作るのは効率が悪い事……私は少しずつ(もはや私のものではない)自分の体への理解を深めていった。そんな事を書斎で実験していた私を、父が呼んだ。随分懐かしい声のように聞こえた。そして、随分と遠く、崖の淵から淵へと呟かれた声のようだった。私はその声の元へ行った。それはやはり件の地下室だった。私は木の扉をゆっくりと開けた。それは以前にも増してずっしりと重く感じられた。そこに居た父は予想の通り衰弱しきっていた。床に伏した体勢で、近くにある機械は完成しているように見えた。ほら、そこにある培養器。それだよ。父はそれを作っていたんだ。父は体が大きい分、私よりかは長い間その生にしがみつくことが出来たようだった。
「おお、門出。かわいい門出……来てくれたのか。おいで……こっちへ、おいで」
父は私の顔を虚ろな目で見て言った。私はその言葉で愚かにも父への愛情を取り戻してしまった。凍り付いて冷めきった父への信愛を、私はいともたやすく取り戻してしまった。そもそも私は父への愛を――冷めきってはいたけど――うしなっていた訳ではなかったんだ。幼少の頃ってのはそういうもんなんだ。愚かではあったけど、実に仕方がないと弁明させてもらうよ。仕方がなかったんだって。情を再び抱いた私は、弱り果てた父の姿を見た。助けてあげなくてはと思った。
「お父さん……だいじょうぶ?」
私は父に言った。父は「門出……かわいい門出」とただ繰り返すだけだった。私は何とかしなければと思い、近づいた。だけどそれが間違いだった。
父は私の腕を掴み、そして溶媒機へ私を放り込んだ。突然の父の行動と、私が気を許してしまった事。その二つが理由で私は父に抵抗することが出来ずに、素直に溶媒機の中へ入ってしまった。緑色の硝子の中はヒンヤリとしていて、まるで井戸の底のように孤独だった。「私は母さんを生き返らせるんだ……お前には手伝ってもらう事にしたんだ……そのためにお前は居るんだ……私はそう理解したんだ……なあ門出。私を恨んでいるか? 門出も母さんにもう一度会いたいだろう? 協力だよ。なあ、お父さんと一緒にお母さんを蘇らせよう。私はその為の機会と機械を作ったんだよ……実験だ。人間での実験が必要なんだ」
父はガラス越しに私にそう言った。でもそれは私に向かって言っているというよりかは、自分自身に言い聞かせているように感じられた。私は父の言っている意味がよく理解できなかった。言葉の意味は一つずつ、それとして理解は出来た。ただ、それらがつながりを持ち一つのセンテンスとなった時、私の脳はその真意を適切に処理することが出来なかった。
「お父さん……なに言ってるの……大丈夫?」と私は素直に訊いた。 だけど父は何も答えなかった。ただ静かに手元のボタンをいじり、そして私の足元からは緑色の液体が沸き始めた。そのアメリカのお菓子のように毒々しい液体が私の足首を浸した時、私は自分の体が震えていることに気がついた。それは地下室で父を見たときに、心の源泉から滲み湧いたあの感情ととてもよく似ていた。私の体全体が私の感情そのものになったようで、激しく静かに、そして小刻みに震えていた。吸血鬼になった私の力があれば、いくらそのガラスが分厚かろうと、シャボン玉のように簡単に割ることができるはずだった。だけどそのときの私には培養器を壊すことが出来なかった。父の行動のせいだったのだと私は今になっては思っている。だけどやはり当時の私は愚かだったので、私は父を心のどこかで信用してしまっていたんだ。
すぐに液体は私を包み込んだ。筒の天は私の体よりもはるかに高かったが、液体は時とともに加速的に勢いを増し、満杯になるのに五分もかからなかったと。私は液体の中で息が出来なくなることにも恐怖していたけど、液体の中でも私は息が出来ていた。呼吸が出来ていたわけではないから、明確には息をしていたというのはおかしい表現かもしれないけどね」
山崎門出はそこでくるりと回った。私はそれを見て、花園の中で踊るいたいけな少女を連想した。周りは透いた山に囲まれ、空は静かに青く、吹き抜ける風は花粉を乗せてどこまでも走っていく。黄色い小鳥が少女の周りで楽しそうに歌い、花はその空間を彩りながら微笑んでいる。彼女の動きはそんな絵画のような風景を思い浮かばせた。それほどまでに今の山崎門出は、先ほどまでの彼女とはまったくの別人だ。それが岸部君の前だからなのか、それとも幼少の頃を思い出しているからなのかは分からないが。
「ほら。某ロボットアニメのオレンジ色の液体だよ。あんな感じだよ。色は緑色だったけどね。ああ、あれをロボットアニメって言ったらコアなファン層から怒られるんだっけ? 私は特別好きな訳じゃないからいいんだけどさ」
「ま、話を戻すけど。その液体はやたらめったら甘くてさ。気がつけば私はその中で眠ってしまっていた。まあ、これも正しい表現じゃないかも知れない。私は絶望と失望の中で意識を失ったんだ。その瞬間の事はちゃんと覚えてない。あまり心地のいいものでは無かった。かといって不快だった訳でもないんだけどさ。とにかく私はその液体に全身を侵され、いちど精神は私の元を離れた。
目が覚めた時、私はソファーの上だった。体はじんわりと湿っていて、まるで私の存在を隠すように毛布が被せられていた。私はぼんやりとした意識で仄暗い地下室を見渡した。そこにはやはり父が相変わらず背中を丸めて地面に座っていた。
「おお……門出。目が覚めたかい。ふふ……完成したよ。成功だ。私は人智の先に踏み入ったのだ。これを見てみなさい」
父はあくまでうつろがかった目で私に言った。私はその目が嫌いだった。優しかった時の父の目を思い出して辛くなるから。私は父から目を逸らし、彼の抱いているものへ関心を寄せた。父はそれを赤子のように大切に抱いていた。私は父の影に隠れたそれを目を凝らして見た。
それは――子供だった。その子供は私だった。私と同じ大きさで、同じ髪の色をし、つめの形も、腕の長さも胴の太さも全てが私と同じだった。似ているのではなく、私がそこにいたんだ。まるで私は鏡を見ているようだった。鏡の中で、私は父の腕の中で眠っていた。
「お父さん……それ、何……?」
「ふふ……お父さんの研究の成果だよ。以前から研究していたクローン技術の賜物だ。門出の遺伝子情報を一度「エニグマ」という液体に溶け込ませ、そして構築した。この液体は人間必要な栄養素が凝縮されている。門出、お前は生きている人間だからこの門出はすくすくと育ったし、記憶も引き継がれているはずだ。この技術があれば……母さんを造ることが出来る。母さんはすでに死んでしまっているから、記憶を全て継承することは出来ないが、姿かたちは完璧に出来上がる。門出……お前も母さんにもう一度会いたいだろう? ふふ……母さんの成熟した体が出来上がるには今回よりかは時間がかかるだろうが、ふふ……もう一度会えるのだよ。今度は何度死んでもだ……私たち家族は永遠に共にいられるんだ。幸せだろう? 母さんと父さんとずっと……ずっと一緒なんだ」
それは多分、父が私に向けて言った言葉だった。しかし私には、父があくまで自分自身に言い聞かせているようにも感じたし、純粋に私に向けられていたとしても、その対象が胸の中で眠る私なのかソファーで上半身だけを起こしている私に向けていたのかは分からない。
とにかく私は父の言葉を聞いた時、とても悲しくなった。と同時に、少しばかりの期待をしていた。お母さんにもう一度会える。優しかったお母さん。時にはお母さん。私が大好きだったお母さん。私の(その時点での)人生の大部分を占めるお母さんにもう一度会えると聞いて期待しないわけがない、嬉しくないわけがない。しかし私はとても悲しくなった。それは父が私を実験台にした事、そしてすでに父が私の知っている父ではなくなってしまっていた事。多分それが理由だった。感情に理由を求めるのはナンセンスだとは思うけど、私にはそれ以外が思いつかない。私はなんと答えればいいのか分からなくなっていたので、話題を逸らすことにした。
「それ……私なの? 私がもう一人いるの?」
「そうさ……門出は今二人いるんだよ。素晴らしいだろう? この門出は完全にお前の記憶を持っているはずだし、体調や癖まで全て同じのはずだ。これはクローン技術じゃない。コピー技術なんだ。お父さんだからこそやってのける事が出来たんだ。我ながら天才だよ。お父さんはたった数日で……ふふ、やってのけたのだ」
「でも……お母さんが生き返ったとき……私が二人いたらきっとびっくりするよ……」
私がそう言うと、胸の中の私を地面にそっと寝かせ、無言で立ち上がった。そしてふらふらとおぼつかない足取りでソファーに近づき、私の顔をぐっと両手で挟み込んだ。
「勘違いするんじゃあない門出。母さんは生き返るんじゃあない……もう一度造り直せるのだ……ただそれだけだ。記憶は無く、私達への愛情はフラットな状態から産まれる。だがな……私はそれでいいんだ、それが私の望みなのだから」
父は血走り、深淵のように重く黒い眼で私を見て言った。かと思えば、急に興味を失ったかのように私の顔を離し、そしてもう一人の私へ視線を向けた。
「しかし……そうだな。母さんが産まれた時……確かに混乱するかもしれない。不安の種は取り除いておくべきだな」
そして父は腕を組み、少し考える様相を見せた。
「よし――やはり棄ててしまおう。門出、お前を一人殺す事にしよう。……いや、お前ら両方殺してしまうのもいいかもなぁ……そうすれば母さんの愛情を父さんが一身に受けることができる。ふふ……そうだ、そうしよう。なぜ今まで思いつかなかったのか……ふふ、不思議だよ」
そう言って父は再び私を見た。ソファーの上で毛布を握る私を。そして父は私の首に手をかけ、私をソファーに押し倒した。父の顔はまるで熱に浮かされた時の夢のようにひどく歪んで見えた。
私は存外にも冷静だった。気の狂った父が私の首を絞めようとしている事。そしてもう一人の私すら殺そうとしている事。私は客観的にそれを見ることが出来た。私はやはり深い絶望の中にいた。父は私の首を掴む力を強くした。徐々に酸素の供給口は狭くなり、私の頭はどんどん熱を帯びてくる。息が出来なくなったら私は死ぬのだろうか。吸血鬼といえどもさすがに酸素は必要なのだろうか。私はそんな興味も少し沸いていた。
そんな時だった。先ほどまで父がいた場所で、地面で静かに眠っていた私が目を覚ましたんだ。彼女は彼女を包んでいた絹の布を指で擦り、私達のほうを見た。そして私は私と目が合った。
その瞬間、割れる様な頭痛が私を襲った。あまりに唐突な痛みに、私は思わずうめき声を上げてしまった。父は私の反応を見て、咄嗟に手を離した。「ど、どうしたんだ」と、父は私を見て狼狽えていた。だけど父の反応などどうでもよかった。それほどまでに強烈な痛みが私の脳内を巡っていた。
それは私ともう一人の私の”同期”だった。同じ世界に存在する二人の人間の同期だった。胎児の頃の記憶にない記憶から始まり、産湯の温かさ、初めて声を上げた時の嬉しさ……そして今に至るまで、すべての記憶が映画のフィルムのように私の脳内に流れ込んできた。滝のようにとめどなく、不可止の勢いで私の中に入り込み、そして私の中へと流れ出て行った。私は無意識に泣いていた。涙が数滴零れ落ちた。その理由は私には分からなかった。小さい頃の私には分からない事ばかりだった。
その激痛はいとも容易く私の意識を刈り取っていった。もう何度目の失神だった。
目を覚ましたのは(恐らく)数秒後。私が初めに見たのは、父の背中と、ソファに横たわる私の姿だった。私は裸で地べたに座り、サラサラとした白い絹の布に身を包まれていた。私の意識はもう一人の私の体へと入っていた。しかし同時に、ソファの上で再び首を絞められている私も、私の意識を持っていると理解していた。同じ意識を二つの私が共有している……私はその時初めて私になったんだ。
私は――裸の姿の私は――立ち上がり、ソファに近付いた。焦燥に駆られて私の首を絞める父は私の接近には気が付いていなかった。私は右手を固く握り絞め、父の頭に――」
山崎門出はそこで話を止めた。彼女は心なしか汗ばんでいるように見えた。
「それで……君は君のお父さんを殺したのかい」
私がそう聞くと、岸辺君がチラリと私を見た。
「父は私が殴りつけたら、その瞬間に息絶えたよ。熟したトマトのようにぐしゃっと。破裂したね」
山崎門出は大変な仕事を一つ終えた時の様に、大きな伸びをして小さな声を漏らした。彼女は肩の重荷が下りたふうで、とてもリラックスした表情をしている。
「これが私が吸血鬼になった理由……そして沢山いる理由だよ。納得してもらえたかな」
「納得って……」
岸辺君は困り果てた声で呟いた。顔には汗が流れ、病気の時の様に青白い顔をしている。彼は今にも倒れてしまいそうな程に憔悴していた。私は彼が心配だった。彼の精神はもう限界だと悟るに現状は十分だ。
「岸辺君……大丈夫かい」私は彼に訊いた。
彼は何も答えなかった。無視しているというよりかは、彼に私の言葉自体が届いていないように思えた。私は仕方がなく、それ以上声をかける事はしなかった。山崎門出も岸辺君の体調を心配しているように見えた。彼女が岸辺君にとって親友であるように、彼もまた山崎門出にとっての親友なのだ。少なくとも岸辺君から聞く彼女は、間違いなく私達の知らない少女、山崎門出だった。
「岸辺……許してくれとは言わないよ。私は岸辺を……中原を騙してたし、それに――
「分かったぜ――門出。俺はお前を許すつもりだ……」
山崎門出も岸辺君に話しかける。その言葉を遮るように、岸辺君が声を出す。私が一瞬目を離しただけなのに、彼の顔つきは、まるで冷水で洗ったかのようにハッキリとしたものに変わっていた。先程までは墓から掘り起こした死体の様な顔をしていたはずなのに、今の彼は何か決意のようなものに支配されている。そんな印象を私は受けた。
私は不思議だった。私達を含めるこの空間の中心は、ついさっきまで山崎門出にあった。それが今、岸辺君がこの世界の中心に居る気がしてならないのだ。物事の見かけの焦点は確かに山崎門出のままだ。この先話が展開されていくとして、それは間違いなく山崎門出の言葉が発端になるだろう。それでも、その中心に位置するのは多分、彼だ。あくまで予感……雰囲気だけど、私はそう思っている。そして、それは(恐らく)良い意味で物事に働かない。私はふんわりとした悪い予感を胸に抱きつつ、私は次に誰が、どう動くのかを注意深く観察していた。




