太陽の日は晴れだろうか?
「ちょ、ちょっと雪君? どうしたの! さっきから変だよ!」
俺は晶の袖を引っ張り、彼女の言葉を無視しながら走り続け、我がマンションのロビーにまで辿り着いた。晶は額に汗を滲ませ肩で息をしていた。
「ホントにどうしたの……。ここどこなんです?」
「ここは俺のマンションのロビー……。さっきの事は本当に悪かった……。苛ついていたんだ。むしゃくしゃして……本当に悪かった。最低だよ。本当に。怖がらせて悪かった。もう大丈夫なんだ。それを謝りたかった」
俺は晶に頭を下げた。俺は彼女の足元しか見えなかったが、彼女が困惑していることは良く分かった。それは先程の困り方とは違う、焦りの無い困惑(だと思われる)だった。
「あ、頭上げてよ雪君。ボクなら大丈夫だから……。そりゃあさっきはちょっと怖かったけど……。別に大丈夫だから、ね? ほら」
俺は重い頭を素直に上げた。彼女は優しそうな微笑みを掲げたまま、本当に嫌悪感を抱かずに俺を見ていた。
「ボク、雪君の事良く知らないけどさ、きっと雪君はあんな事する人じゃないと思うんだよ。ね? ちょっとお話しようよ。ボク、人間とお話するの凄く好きなんだ。人ってさ、いろんな事考えながら生きてるでしょ。ボク達だって何も考えてない訳じゃないけど、それでも人間みたいな複雑な生き物じゃないんだ。妖精は単純なんだよ。だからさ、悩んでたり苦しんでたりする人間を見て、ちょっといいなって思うんだよ。変な意味じゃなくてね。悩めるのって凄く素敵。だからさ、雪君の事――人間のことをちゃんと教えてほしいんだ」
確かに彼女は単純な生物のように思えた。底抜けにまぶしく、どこまでもお人よしのように思えた。彼女の性格なのか、妖精の特質なのかは分からないが、彼女の言葉は無意識的に俺に癒しを求めさせた。つくづく自分の事を都合のいい人間だと思った。ひどい事をしたんだ。それなのに、俺はその屈託無垢な妖精という存在に、逆に自分が癒されようとまでしている。
だが、都合のいい俺はそれを好奇心だと思う事にした。一度は消えかけた未知の存在――妖精――に対しての知的欲求……。俺は妖精を知らない。だから、彼女と話をするのも悪くはないんじゃないかと思った。俺は首を縦に振る事で彼女の提案に答えた。彼女はやったねと言って笑った。
「あ、でもさ、先に水が浴びたいんだけど、いいかな? 汗かいちゃったからさ。ここのマンションに住んでるんだよね? お風呂貸してよ」
彼女はパーカーの襟をパタパタと仰ぎ、体温が上がっている事を示してくる。
風呂場からはシャワーの音が響いてくる。妖精――瑞樹晶が汗を水で流しているところだ。彼女は自称雪女の子孫なので、お湯は苦手らしく、最低温の水しか浴びることが出来ないそうだ。それにしたって……先にあんなことがあったにもかかわらず、男の家でシャワーを浴びるだなんて、なるほど、妖精と人間ではそもそもの感覚が違うのかもしれない。ううむ……いやあ、さっきは一時の気の迷いだったとはいえ、彼女の幼気溢れた容姿は正直言うとかなり目に毒だ。
「雪君、シャワーありがとう! さっぱりしたよ」
「ん、ああ……。風邪ひかないようにな」
そんな邪な事を考えていると、俺が貸したシャツに身を包んだ彼女が、浴室から帰ってきた。コーヒー飲みますか、と聞くと彼女はコーヒーは苦くて飲めないと答えた。ジュースでもあれば良かったのだが、生憎俺は甘いものを飲まないので、代わりにミルクを出しておいた。カップを置いた途端、彼女はいただきますと挨拶をし口を付けた。
「雪君てさ、高校生なんだよね」
「そうだよ。一六歳」
「学校っていろんな人が居るんでしょ? 同い年の友達がたくさん。いいなあ、羨ましいよ。この世界に来てボク、学校が一番行きたいんだ」
「学校が羨ましい? 学生からしてみれば信じられない言動だよ」
晶は納得がいかないといった顔をしていた。
「晶はここに来て何してるんだ? 迷いこんで来たって言ってたけど、それは自分の意志で来たって訳じゃないんだろ」
「うん。ボクは妖精界に帰る方法を探してるんだ。いろんな人に支えてもらいながらね。人間いい人ばっかりだよ。あったかくてさ。ボク、何だかこの世界では働くことが出来ないみたいなんだけど、お家の近所の人達が助けてくれるんだ。おばちゃん達、すごく優しいんだよ」
「働くことが出来ない?」
「なんていうんだっけなぁ、証明? この国の人間だって証明ができないらしいんだよ」
「ああ、戸籍とかかな。確かに妖精はそんなもの無いだろうしな」
彼女は少し寂しそうな、悲しそうな表情を浮かべていた。
「そもそも迷い込んできたって……具体的にどういう事なんだ」
「分かんないんだよね。穴に落ちた時みたいな感覚を妖精界で感じたんだ。ヒューって落ちる感覚。妖精界でボクは穴に落ちたんだ。そして気が付いたらここに居たの」
穴に落ちる感覚……。そしたらここに居た。人間界と妖精界が物理的に繋がっているのか?
「そういえば、人間界の事を何故理解してたんだ? 俺達は妖精界の事なんてまるで知らないし、この事件に関わって初めて認識したんだ。妖精はそうじゃないのか」
「ボクもこっちに来て初めて人間を見たんだ。でも元から人間界ってのはなんとなーく存在を知ってたよ。前にも言ったけど、妖精は昔から人間界にちょくちょく姿を現していたんだ。その知識というか記憶というか、頭の中に元から刻まれてたんだと思う、ハッキリしたことはボクにも分からないんだけど」
何となく存在を知っていた、か。それなら俺が妖精界に迷い込んだとしたら。俺はそこが妖精界だと認識出来るんだろうか。
「それで、戻る方法は見つかったのか?」
「ううん。何にも分かんないの。図書館とかに行ってみて、難しい本とか読んでみたんだけど、妖精界について書かれてる本なんてほとんど無かった。妖精について書かれてる本はいっぱいあったけどね。それに帰るどころか、迷い込んでくる妖精が増えてるんだ」
「妖精が増えてる?」
「うん、本当に感覚的なんだけど、肌で感じる妖精の雰囲気が増えてるんだ。原因も理由も分からないんだ」
「そうなのか。でも妖精が増えてるのなら、一緒に帰る方法考えたりできるんじゃないか?」
「妖精はあんまり仲間意識が無いの。たまーにくっついて動いてる妖精もいるけど、ほとんど居ない。皆一人が好きなんだ。妖精は基本的に一人で生きてるの。そういう生き物……。だからボクの事を構ってくれるこの世界の住人がすごく好きなんだ。それにボク、この世界の住み心地……いいって思い始めてさ。なんか、やっぱりいいよ、人間。ボク、ずっとここに居たいなんて……ね」
そう話す彼女は笑みを浮かべたり、悲しみを仄めかせたりと、喜怒哀楽のお手本のような感情を顔に映していた。そんな彼女は俺が今まで会ってきた人間――親や親友、ドルルーサの人達――よりも人間臭いと感じた。彼女は人間よりも人間味に溢れていた。
それにしても、妖精が増えている……その事実は何を示すんだろうか。いずれは人間よりも妖精の数の方が多くなったりして――なんて、バカらしい。日本における妖怪が、いわゆる妖精なのだとしたら、まあそんなことは起こらないだろう。日常のささいな違和への言い訳として妖精は認められていたのだから、日常そのものを脅かすような存在には成り得ない。
「でさ、雪君。聞いていいのか分かんないんだけどー」そう彼女は前置いた。そしてミルクを一気に飲み干した。
「さっきはなんであんな感じだったの? ボク、何かした? それならちゃんと謝りたいの」
「むしゃくしゃしてたんだ……自分でも自分を抑えられなかった。感情が別の誰かに支配されたような、そんな感覚だったんだ。悪かった。怖かっただろ」
「まあ……怖かったよ。びっくりしたしさ。でもなんでそんなにむしゃくしゃしてたの?」
俺はその質問には答える気が起きなかった。理由があまりにも幼稚だからだ。俺は用済みだと宣告され、それに対して腹を立てていただけだ。不必要な存在は捨て置く、ドルルーサは多分そういう組織なのだろう。しかし、その場で反論するでもなく、ただ怒りの矛先を晶に向けただけだった。俺が勝手にドルルーサに期待をし、そして裏切られただけだ。そんな事を晶に説明しなければならないのか?
俺は席を立ち窓際に行った。夜の鏡に映る時計は八時半を指していた。マンションの五階から見える夜空は澄み切っていた。俺は今日、やけに空を見ているなあ、と思った。俺は空が別段好きというわけでもないので、何か考える事があると空に逃げる癖があるのかもしれない。
「何でもないさ。人間特有の、一時の気まぐれってやつなんだ。本当に悪かった。心配をかけたのかもしれない、でも、本当に何でもないんだ」
俺は卑怯な逃げ方をした。振り向いて見えた晶は少し寂しそうな顔をしていた。少しだけ心が痛んだ。
「そういえば晶はどこに住んでるんだ?」
ソレは話題を変えるためではなく、ふと浮かんだ単純な疑問に過ぎなかった。晶の顔からは寂しさが消えたように思えた。俺はこの話を振って良かったと思った。
「んーと、誰もいない病院? 廃病院? そこに住んでるよ。水も出るし、ふかふかのソファーも置いてあるんだよ」
「は、廃病院?」
そういえば神泉の方向に一つあった気がするな。確か病院ぐるみで怪しげな事をしていた所を摘発され、経営が出来なくなった話を聞いたことがある。その後なぜか取り壊しもされず、他の何かになる訳でもなく、ちょっとした心霊スポットとして学生なんかに名が知れている。
俺はそんなところに住んでいるという、目の前の少女が幾分不憫に思えた。そして見渡したのは俺のこの部屋。一人暮らしの学生には広すぎるこの部屋。金は親が出してくれているのだが、安いとは思えないこの家賃をよく払ってくれているものだと思う。感謝しなくては。
「晶が良ければだけど、ここに居てもいいぞ。廃病院よりかは大分ましだろ。ま、あんな事しちまった俺が言うのもおかしい話だけどな」
その誘いをする時、正直言うと俺はかなり緊張していた。捉えようによっては、意中の女性に対する告白のようにも聞こえると思ったからだ。
「え? いいの?」と晶は明るく言った。「ああ、別にいいよ」と俺は答えた。
「でも、やっぱりそれは遠慮するよ。ボク、あの場所気に入ってるんだ」
しかし少し考えた後、彼女は俺の誘いを断った。彼女の言葉に嘘がない事は、彼女の表情と話からは明らかだった。晶は本当に(俺の見たことがない)廃病院を気に入り、そこに居ついているのだ。そうなら仕方ないと、俺はそれ以上彼女を誘いはしなかった。
「でも、今日は泊めてもらってもいい? もうこんな時間だし、ボク疲れてちょっと眠いんだ」
俺は当然快諾した。
その夜俺は夕食を取らなかった。妖精が何を食べるのか気になったので聞いてみたところ、人間と同じものを食べるそうだ。妖精界にいるころは空腹こそ感じるものの食事をする必要が無かったらしい。つくづくよく分からない生物だと思った。
この部屋には寝具が一つしかないので、晶の申し出により同じベッドの上に寝た。俺は拒否しなかった。俺は彼女に欲情しない自信があった。向かい合う晶の髪からは我が家のシャンプーの匂いがした。たまに触れ合う肌はひんやりと冷たく、六月後半の夜には少し寒かった。電気を消し、俺は眠りについた。程よく疲労した俺はすぐに睡魔に満たされた。夢に入る直前に聞こえた「誰かと一緒に寝るのは初めてでうれしい」という言葉が、やけに頭に強く刻み込まれた。
*
晶が泊まった翌朝、俺は簡単な朝食をふるまった。彼女はそれをゆっくりと食べ、家を後にした。彼女の居なくなった我が家はひどく静かに感じられた。しかし、その静けさを俺は嫌いではなかった。今思えば、昨夜、晶が俺の誘いを断ってくれてむしろ良かったのかもしれない。俺は食器を洗い、学校へ向かった。
教室に入ると門出と中原が仲睦まじく折り紙をしていた。鶴に兜、花やクワガタなどが俺の机の上に並べられていた。その中にはすさまじく精巧に作られた龍もあった。
「あ、岸辺おはよー! 見てよこれ、凄くない? 中原の意外な特技だよ特技! これ、ヤバいよね。この龍!」
門出は一際目立つ紙の龍を指差した。それはまるで今にも飛び立ちそうな迫力を持っていた。鱗の一つ一つが丁寧に作られており、撫でればぬめらかな鱗の触感が伝わってきそうだった。
「これ中原が作ったのか?」
「まあ、そうだぜ? 昨日気が付いたんだけどよ、俺才能あるわ。この道目指せるかもしんねえな」
中原はわざとらしく胸を張り、誇らしげに言ってみせた。ウザいが、確かにこれは並大抵の技術ではない。折り目の一つ一つが端正に揃えられており、普段の無精な中原からは想像できないほど丁重な、もはや仕事といっても過言では無かった。
しかしその横に、もうそれはぐっちゃぐちゃの折り紙(折り紙か? と疑いたくなるほどひどい出来のもの)がそこに禍々しく鎮座していた。
「で? この売れない作家がゴミ箱に投げ捨てた原稿用紙みたいな出来の紙の塊はなんだ?」
と、俺が件のしわくちゃを指差し言う。
「それ私の鶴ー! 岸辺ひどすぎん? 私不器用なの不器用! 死ね!」
「おおなんだ。中原の芸術性が高度すぎて理解できないのかと焦ったぜ。門出は昔から不器用だもんな」
「うるせーうるせー! 折り紙なんて出来なくていいもんねーだ。それより今日! 帰りあのケーキ屋行くからね!」と門出は憤りながら言った。
「ああん? あの混んでるとこかよ。いいけどよお」中原はその手で鶴を折りながら応えた。ながらで折っているにも関わらず、相変わらずその出来は完璧の二文字が良く似合う出来だった。
「門出ホントあそこのケーキ好きだよな。なんでそうも甘いモノ好きなのかね。度し難い」
「いい? 女の子は糖分とクリームで出来てるんだよ? わかる?」
「門出はそれ好きだよなあ。なあ、岸辺。クリームって糖分じゃないのか?」
「脂肪分だろ……分かんねえよ」
そんな当たり前の日常の一部。妖精の事、鈴奴の事なんて、こいつらと話していると忘れられる。こいつらだけは大切にしたい。きっと二人も同じように思ってくれているだろう。非日常に触れ、初めて日常の大切さに触れた。
そして俺達は放課後、代官山にある駅前のケーキ屋にて談笑のひと時を過ごした。高校生の会話の内容なんて大したものじゃない、あの先生がどうだとか、そろそろテストだよねとか、流行のファッションの事だとか。生産性など全くないその会話は非常に楽しかった。山の中の小川の清流のよう緩やかに、なだらかな傾斜を止まっているかと見まがわんほどにゆっくりと流れる清らかな水のように、その時間は過ぎていった。俺は普段の甘いものをあまり食べないが、今日のケーキは特別甘く、格別に旨かった。
その後渋谷まで歩き、俺達はゲームセンターに入った。色とりどりの電飾に飾られた筐体は少し目に痛かった。門出がクレーンゲームに精を出している間に、俺と中原は格闘ゲームをした。俺も中原も全くの素人なので、グダグダなままに俺は負け、それでも店の雰囲気も相まって盛り上がった。門出の様子を見に行くと、彼女は大きなぬいぐるみをいくつも脇に抱え、それでもまだクレーンゲームに熱中していた。そんな門出の誘いで、俺達はレースゲームをし、プリクラを撮った。門出は(俺もだが)プリクラというより写真自体があまり好きではなかったはずだが、ぬいぐるみをたくさん取れたからなのか、やけに上機嫌な門出に付き合う事にした。帰り際、俺と中原はぬいぐるみを一つずつ手渡された。真っ黒な猫のぬいぐるみだった。目にはボタンが二つ付いており、つややかな毛並みが可愛らしい猫だった。俺は家に帰り、それを枕元に丁寧に置いた。生暖かい風の心地よい一日だった。




