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Ace of thin ice  作者: 小鳥遊
吸血鬼編
23/32

ビター・チョコレートと角砂糖

 俺は俺なりにこの空間について調べ、考察してみた。

 まずこの空間はその見た目どおり(といっても見た目の距離感などまるで無いのだが)、無限とも思えるほどに広かった。歩けど歩けど壁には辿り着かず、歩く途中に末怖くなり引き返す程だった。次に、天井に関しても恐らく同じだった。如月が捨てた銃を天井に向けて撃ってみたが、弾は空中を昇り、落ちてきた弾が虚しい金属音を鳴らすだけだった。

 そして、出口がない。部屋や家などに入るには扉が必要であり、それらは壁に設置されているモノなのだから、あったところでそれには到達できないだろう。出口がない……それは入り口がないことを意味する。如月がどうやってこの空間から脱したのかが分からない以上、俺達はこの空間に閉じ込められているしかないのだ。

 そんな現状にうすうす気付き始めた俺は、それと同じように焦りも沸き始めた。

「き、霧峰さん。俺達この空間に閉じ込められてますよ! これってヤバくないですか?」

「ん? いや、出方は分かるよ……恐らくね。むしろ問題はこの空間に入る方法が分からない事なんだよ」

「え? え? 何で分かるんですか? 如月はそんな事一切言っていませんでしたよね?」

「うん。だから恐らくなんだよ。私達も分からない事ばかりだからね」

「焦らさないで教えてくださいよ。どうやってこの空間から脱するんですか? なんでそんなに焦ってないんですか?」

「そうだね。一度試してみる必要はあるかもしれない。妍治」

「俺かよ。まあいいがよ」

「それじゃ、これとこれはづきによろしくね」

 そう言って霧峰さんは亜里堅さんに何かを渡した。亜里堅さんはそれを受け取るとポケットにしまった。その後、彼は着ていたシャツを脱いだ。彼の体には無数の傷がついていた。俺にはそれがやけに印象的だった。

「じゃ、俺は一足先に行くぜ。俺はいわゆる人間界からこっちに来る方法を探ってみる。あわよくば如月から聞き出してな」

「ま、どこに出られたかわかったもんじゃないけどナァ」

 それだけ言い残すと亜里堅さんは今しがた脱いだシャツに再び腕を通した。その瞬間、彼の体は先程の如月と同じように、まるで空間の白に混じるように消えていった。

「え、ちょ、なにが起こったんですか?」

「服だよ。服を着なおすのさ。ただし裏表逆にね。そうすると何故だかこの空間から脱する事が出来るみたいだね」

「う、裏表?」

 それを聞いた時、俺は如月が背広を着るときに感じた違和を思い出した。そういえばあの時の彼の服は裏返しだった気がする。しかしただそれだけ? ただそれだけでこの空間から出る事が出来るのか?

 俺は早速試そうとブレザーを脱ぐ。

「止めておいた方がいいよ。さっきも言ったけど、ここから出てあの路地に戻ることが出来るとも限らないからね。それにここに入る手段が分からない以上、今ここに居るのは貴重なんだ」

「だがよぉー岬ちゃん。ここに居て、これ以上何が分かる? あの機器は燃え尽きて跡形もねぇ。あれじゃあどんな回路のものだったのか……本当にスマイルを作るものだったのかァ? 今じゃもう分んねえよ」

「うん……。確かにそれも一つの事実だね。ここにはづきを連れてくることができればいいんだけど」


 霧峰さんは顎を指でなぞりながらウロウロと周り始めた。片桐さんは燃えカスとなった機械だったものの傍で、機械だったものをなにやらイジイジしている。

「ではどうするんですか? まさかここに居続ける訳じゃぁないですよね。ここにずっと居たって飢え死ぬだけですよ」

「なら君はそうすればいいよ。片桐と共に帰るといい……。この事件は恐らくもう解決の一途を辿るのみだよ。君は無事に帰ればいい。どこに着いたものだか分かららないのは不安だけど、君の言うようにここで飢え死にするよりかははるかにましだろう。帰りたければ帰ればいい」

 ――帰ればいい? 俺は呆気に取られた。

 彼女は今、俺はもういらないと言ったのか? 俺の自意識過剰だろうか、それとも被害妄想だろうか。

 たとえ彼女の意図がどういうものであろうと、俺に届いたその言葉の意味は『用済み』ただそれだけだった。俺はそれにいたく傷ついた。

 確かに俺は彼女達の力にはなっていないかもしれない。

 でも、少なくとも俺はこの事件に関与する稀有な存在のはずだ。たかが出会って数週間だが、同じ秘密を共有するある種のチームだと思っていた。

 だがしかし――霧峰さんの認識する「仲間」の中に俺は含まれていない。彼女の先の言葉は俺にそう痛感させるには十分だった。俺の中には独りよがりな怒りと悲しみが渦巻いていた。一人で期待して、そして勝手に裏切られたのだ。

 俺は何も言わずに制服を裏返した。



 俺が再び地に足を付けた時には、空はすっかり夜色に染まっていた。路地の隙間から見る天井には煮え切らない星が並んでいた。俺はその風景に違和感を覚え、スマート・フォンで時間を確認した。時刻は七時半を指していた。俺達は夕方頃に『妖精の草原』に入ったはずなので、どうやらあの空間は時間がゆっくりと過ぎるようだった。俺は特に驚かなかった。これ以上不思議な事が起きたとて、俺はもう驚かない自信があった。

 大きな深呼吸をした。非常に悪い気分だった。もやもやとした煙が体中に溜まっているようだった。俺はそれをさっきの爆発のせいだと思う事にした。

 初夏特有の風の体温は心地いいが、俺の煙を散らしてはくれなかった。むしろ中途半端な気温は、俺の中の憎悪に似た様々な感情を増幅すらさせようとしていた。

 事件の解決への興味は正直なところ失せかけていた。今はそんな事考えたくなかった。


 俺はしばらくの間、室外機に腰を掛け、空を見上げていた。

 すると俺が先程あの空間から帰還した場所に、同じように瑞樹晶が帰ってきた。

「あ! ちゃんと帰ってこれたんですね」

 晶は俺を見るなり、そう言って屈託のない笑顔を撒いた。

 だが俺は、この間まで興味の渦中だった妖精――瑞樹晶――に対して、一切合切触れる気が起こらなかった。ただ、「ああ、瑞樹晶が帰ってきたな」と思うのみだった。

「あ、あのぉ。そういえばあなた、名前は何ていうんです?」

「俺の名前……?」

 晶は俺に近付いて左右に揺れながら、まるで子供の用に尋ねてくる。

 先程『妖精の草原』で見せた怯えた様子は一切そこには感じられなかった。昼のような水色のとても綺麗な髪。恐ろしく穢れを知らない透いた瞳。その持ち主は今、俺に簡単に問いかけている。一切の警戒をせずに俺に訊いている。


 ふざけているのか?

 こいつ――この妖精は……俺に対して恐れを感じていないのか? ドルルーサに対しての態度とはあまりにも違いすぎないか。『こいつになら気さくに話しかけられる』――そう思ってこいつは俺に話しかけてきたのだろう。そうに違いない。

 そんな考えが頭によぎると、俺の感情は瞬く間にその思考に支配された。

 目の前には何も知らない、いたいけな少女。

 俺は立ち上がり、晶にさらに近付いた。彼女は一切警戒する様子もなく、ただニコニコとしていた。

 黒い欲望が渦巻いていた。

 この白く端麗な少女を――穢してやりたい。汚してやりたい。そんな欲望に。


 気が付けば俺は彼女を壁に追い詰めていた。

 俺は左手を壁に付け、俺の体とビルで彼女を追い込んでいた。俺の右ひざは彼女の足の間にねじ込まれ、彼女を固定する事に勤めている。

 流石に彼女も今の状況に対して困惑の表情を浮かべていた。ただしそこに怯えはあまり感じられず、ただただ戸惑っているだけだった。

 それを見て、俺の欲求は少し満たされた。それと同時に『まだこいつは俺をナメている』という、浅く汚い感情もまた、生まれた。

「俺の名前は……岸辺雪。普通の人間の普通の高校生だ……。なあ妖精。お前は特別なのか? この世界において……お前は異端なのか?」

「え? な、何の事……。どうしたの……こ、怖いよ雪君」


 怖い――もっと……もっと。

 この何も知らない妖精を――。俺は――。

 俺は手を彼女の太腿に乗せた。ズボン越しに伝わるガラスのような体温が、俺をさらに興奮させた。

 その時やっと彼女は自分の置かれている状況を理解し、俺が彼女に何をしようとしているのか――それを察したようだった。

 困惑混じりの彼女の表情はこわばり、やがて恐れの割合が増していった。その推移は俺の奇妙な嗜虐心を大いに刺激した。おお、可愛そうに。恐怖からなのか、はたまた緊張しているのか、彼女は一切体を動かせないでいた。

 俺はそれに悦びを感じ、彼女の肌に触れようと更に手を伸ばした――



「岸辺君? 何してるのさ」

 その声に俺は一気に現実に引き戻された。

 こんなにも血の気が引く事があるのだなぁ。今ならこの晶の体温よりも冷たいかもしれない――そんな風にすら思ってしまう。

「か、壁ドンです……」

 咄嗟に誤魔化そうとして出た言葉がそれだった。いや、冷静に考えたら何も誤魔化していない。事実だ。事実を端的に説明しただけだ。こ、これはまずいのでは。ちゃんと誤魔化さなくては。

「き、霧峰さんは何か収穫あったんですか?」

「ん? ないよ」

「そ、そういえばさっきこの事件は解決の一路を辿るって……どういうことですか?」

「ん? うん。空間では恐らくスマイルが作られていた。そしてその原材料は(これも恐らく)血だ。あの空間にあった機械は、血からスマイルを精製する機械だとアタリを付けてるんだ。その血は入手できた。多分、あとは詰めるだけだよ」

「そ、そうだったんですか! じゃあもう少しなんですね?」

「うん、血が誰のものなのか、特定するだけだからね。簡単ではないだろうけど。まあ、それが仮に真犯人じゃなかったとしてもだよ。今までにない大きな前進ができる事には間違いないよ」

「わ、分かりました」

「で、だ。おいガキィ、お前さっき何してたんだぁ?」

 片桐さんがいかにも意地悪っぽくニヤニヤしながら聞いてくる。くそっ蒸し返すなよこの人は……。

「別に何でもないですよ……。じゃあ、犯人が特定出来たらとりあえず教えて下さいね!」

 俺はそう言ってとにかくこの場から離れようと画策する。あ、そういえば晶だ。晶をここに置いていくわけにはいかないぜ。と、俺は彼女の袖を引っ張り走り出す。

「きゃっ、ちょっ」

「あ、岸辺君、待ちなよ」

 背後からは何か声が聞こえてくる。あんな場面を見られて、俺が晶を連れ去っていくのは確かにアブナイ事態かもしれない。でもだからといってあの二人の間に彼女を置いていくのは俺にとってマズイ。

 とにかく俺は晶を連れてその場から逃げる事を選んだ。


「あーあ行っちゃったよ。青春だねぇ」

「バカ言ってんじゃないよ片桐。あの二人は貴重だ。保護だよ保護。急ごう」

 岸辺君の雰囲気が何か変わっているのには気が付いた。ただそれは何が原因なのか? 分からない。まったく、思春期特有のアレなのかな。

 とにかく岸辺君、それにあの妖精――瑞樹晶。あの二人は大切なんだ。何かが起こってからでは遅いのだ。

 片桐はえも言えぬ表情で私を見ていた。私は岸辺君の後を追うべく、路地から抜けようと走り出す。しかし私の携帯がそれを許さなかった。着信音ははづきが決めてくれた『虹の彼方に』。有名な映画の劇中歌だ。私の雰囲気に良く似合っていると言ってはづきはこの曲を設定していたが、私はそうは思っていなかった。私にしては儚すぎる曲だと思う。

「ん、ああはずき。どうしたの」

 電話をかけてきたのははづきだった。ちょうど彼女の事が頭にあったので、私は少し驚いた。

「さっき妍治さんから預かった血の解析が終わりました。DNA鑑定の結果、ある人物の血液と完全に一致したんで報告です」

「え、もう? なんでそんなに早いのさ」

「理由はその人の名前を聞いたら分かると思いますよ」

「そうなの? で、誰なのさ。その人ってのは」

 私の胸は静かに高鳴っていた。私の考えでは、あの血の持ち主こそがこの事件の核心。状況を一気に逆転させる、無二の情報。それが今電話にてはづきの口から伝えられようとしている。その高揚感と緊張感が私の血脈を截然たるものにしていた。


「――です。この血は――のものです。つまり――はこの事件の大きなカギなんでです」


「何だって?」

 彼女が口にした名前は想像を遥かに超えたものだった。衝撃があった。もう少し具体性のある、納得のいく、説得性のある人物名が他にもあるだろうと思っていた。しかし、彼女が言った名前は、それらすべてのつっかえを全て破壊して余りある衝撃を秘めていた。また、はづきはこんな場面で冗談を言ったり、ふざけたりする人間ではない、その私の信頼が、より一層その名前への懐疑心を増幅させた。今から向かうよ、とはづきに言い、私は電話を切った。

「片桐。あんたは岸辺君を追って。私は本部に戻るから」

「あぁん? あの血が誰のものか分かったんだろ? 教えろよ」

「後でだ。私だってちゃんと確認したいんだ。とにかく急いで」

 私は片桐にそう言い捨て、再び走りだした。


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