空白ストライド
俺達はまた走っていた。
俺達が走る理由と言えばやはり、いつもの如月だ。前には当然ドルルーサの二人と片桐さんがいた。背後には珍しくも妖精――瑞樹晶がいる。
ただいつもと一つ違うのが、如月との距離が近い事だった。拳半分届かないだけの距離。近い。あまりに近いその距離に、俺達は千載一遇のチャンスだと感じていた。
「なあ! 岬ちゃん! 撃っていいよな!? 仕留めんぜ! 今! ここで! いい加減決着をつけてやらぁ!!」
「私は許可する! ここでなら撃ってもいいよ! 人はいない! 音も聞かれない! 私は左! 片桐は右! いいね!?」
二つの発砲音と、一つの呻きが弾けた。如月の足は縺れ、ゴロゴロと正面に転がった。転々とした血の跡が、いかにその傷が痛ましいものであるかを示していた。彼の着ているスーツには土ぼこりが混じり、しわ一つなかったそれは和紙のようになっていた。
倒れ、血がにじむ如月の胸倉を霧峰さんが乱暴に掴む。
「追い詰めたよ……。長かった。だけど、ここまでだよ……」
それはチェスでいうところのチェックだった。キングに手が届く、そんな瞬間。
――如月を捕らえた。それはこの事件の解決を意味していた。
だがそれは――俺にとって最悪の事実への幕開けだった。
「鈴奴が生きていた? 岬ちゃん頭どうかしちゃったんじゃネェーの?」
車の中。霧峰さんの車の中。アン・トレに向かう途中、偶然亜里堅さん達がこの車を見つけたのだった。
先の如月さんの反応は、霧峰さんが鈴奴の説明をした事によるものである。そして彼の反応はやはり当然のものだ。
「とにかく、これは事実。彼女の身辺調査は終わってるね? 妍治よろしく」
「ああ。あんまり時間も無かったんで軽くだがな。彼女はごく普通の一般家庭に生まれた一人娘だ。勿論双子なんかじゃあない。従妹は五歳のが一人。推理小説なんかじゃあ御法度のすり替わりトリックなんてのができる相手もいない。友人関係も至って普通だ。普通すぎるくらいに普通の交流関係だ」
「うぅーん。双子なんかに期待はしてなかったけど、そうなるとやはり謎だね。最初に死んだ鈴奴が誰なのか……今いる鈴奴は何者なのか……」
「ハァーン。で? 岬ちゃん。話はそれだけなの?」
「うん。とりあえずこの情報は共有すべきだと思ったからね。この事象の意味はとにかく置いといて、現実、君達がどう捉えるかだね」
「どう捉えるかねえ……。で? その、今生きてる鈴奴も吸血鬼なのか?」
「ちょうどいいタイミングだよ。はづきに急いで血液採取してもらったんだ。学校検査と偽ってね。その結果が今届いたよ」
霧峰さんは胸ポケットから携帯を取り出しながら言った。
「まあはづきなら……大丈夫か?」
「大丈夫だよ。彼女なら。で、その結果なんだけどね。今の彼女の血液からはヴリコラカスは検出されなかった。まあ、死んだ彼女も検査をパスしてたんだけどね」
霧峰さんは淡々とそう言った。
俺はその時、俺の中にヴリコラカスが混入していることを思い出した。
ちょうど全員が黙った瞬間。
霧峰さんの携帯が震えた。彼女は何も言わず、細い親指のみで画面を操作した。
「……ねえ」
メールか何かを読んだのだろう。彼女の顔には少し陰がかかったようにも見えた。
「はづきからの追記だよ。私達が保管してる鈴奴の血……。そして今学校に居る鈴奴の血……。二人のDNAは完全に……一致した」
霧峰さん達が言っている事は思っていたよりもすんなり受け入れることが出来た。
何というか、そういうものなのだと受け入れられた。もちろん現実的にあり得ない話だし、荒唐無稽で頭のおかしい内容なのだが、それでもそういうもの(・・・・・・)なのだと理解していた。ただ鈴奴は二人いた、それだけの話だった。
「鈴奴はもう一人居たってことか? そっくりさんとか生き返ったとかじゃなく、二人。同じ鈴奴がもう一人」
「バッカバカしい。同じ人間が二人ダァ? それじゃあまるで……」
片桐さんが何かを隠すように言葉を止めた。それはまるでタブーに危うく振れかけたようだった。それを言い淀んだ理由は俺にあるように感じた。俺がいるから彼は話すのを止めた。なぜかそんな風に俺は感じた。根拠はない。
「かたぎ……」
それに対して言及しても彼は決して話してはくれないだろう(少なくとも今この場では)。そう理解しつつも、とりあえず聞いてみようと試みた。
だが俺のその言葉を遮ったのは、俺の座る助手席の窓ガラスを叩く軽快な音だった。コンコン。
霧峰さんが窓を開く。そこにいたのは件の妖精、瑞樹晶だった。空色と見まがわんほど透き通った髪色がいたく印象的だった。
「あ、やっぱりあなた達だった。さすがだね~分かるよ」
「瑞樹さん。どうしてここに?」
「ほら、言ったでしょ? 妖精同士は惹かれあうんですよ。あなた達がここに居る事なんて感覚で分かるんです」
「ああ……そういえば去り際にそんな事を言っていたような……。そこまでピンポイントで分かるものなのか?」
「まあその感覚は人に――妖精によりけりでしょうね~。ほら、雨の匂いが分かる人とかいるでしょ? あんな感じですよ」
なんかそれ違うんじゃね? と思いながらも何となく納得させられた。
「で? 私達に何かな? 君から聞きたい話は確かにまだまだ沢山あるんだけど……正直言って私達はそれどころじゃないんだ」
「ええ~ひどいなぁ! せっかくいい事教えてあげようと思ったのに」
「いい事?」
「そうだよ。この間あなた達が追いかけていたあの人。すぐそこで見かけたから教えに来てあげたの」
「この間追いかけてた人って……如月か? マジでか?」
「ホントだよ! 行く?」
晶がそう言うと、霧峰さん達は顔を数秒見合わせた後、頷いた。
「如月ィ……年貢の納め時だ。お前は吐かせる、何者にも邪魔をさせずに情報だけを得るぜ。覚悟は良いな?」
霧峰さんに胸倉を掴まれた如月に対して、亜里堅さんが言い寄る。いつもは比較的寡黙で(見た目に反して)思慮深い亜里堅さんだと思っていたが、今ばかりは彼も饒舌にならざるを得ないようだった。それほどまでに如月を追い詰めたという事実は大きいモノなのだ。
「いやいや……私がここまでされるとは思いませんでしたよ……。ただ……ご安心ください。私には大した信念も根性もない……。貴方方に尋問などされようものなら私は簡単に口を割りますよ」
如月は痛みをこらえながら絞り出すようにそう言った。思えばそれが如月の声を初めて聴いた瞬間だった。
如月はいまだ襟を掴む霧峰さんの腕を掴み返し、逃げようと体を引き摺った。
「岬ちゃーん? 離すなよォ……その腕。もう逃がすなんてダメだよなぁ? ここで決めるよなぁ?」
その様子を見た片桐さんが言う。いかにも嫌味をたっぷりと含ませ。
「モチロンだよ片桐――」
「尋問など……されようものならですけどね……ッ!」
霧峰さんの言葉の途中に、如月が割り込む。
と同時に、霧峰さんの体が大きく吹き飛んで俺にぶつかる。俺はかなりの衝撃を受けたが、何とか体勢を崩さずに彼女の体を受け止めることが出来た。ぶつかった二の腕は痺れたし、俺自体もかなり後ずさった。それくらいの衝撃だった。
腕で抱え込んだ霧峰さんの拳の中には、如月のシャツの切れ端がしっかりと握られていた。
「言った傍からッ! 逃がすかよ!」
片桐さんが、今にも走り出さんとする如月に殴りかかる。遠目に見るその拳が、如月の顔面に綺麗に入り、その体がビルの体にたたきつけられた瞬間――
俺達はもう、渋谷にはいなかった。そこは国、地球、宇宙。そのような概念から断絶された、独自の空間。俺達はそこにいた――。
*
そこは白い部屋だった。
部屋というには壁も天井すら存在しないように思えた。いや、きっとここには壁も天井もどこかにはあるのだろう。もしかしたらすぐ近くに存在しているのかもしれない。だが、あまりにも白いので距離感が掴めず、その輪郭すらまともに捉える事が出来ないのだ。ゆえに、きっといずこには存在するその壁が無いように思えてしまうのだ。
そんな空間に俺達はいた。なぜそこに俺達が居るのかは分からなかった。しかし一つ確かな事は、ここには俺も霧峰さん達も晶も、如月もいることだ。
「ここは……」
霧峰さんがそう呟くと、それに反応したかのように如月が話し出す。
「参りましたね……。貴方達をここに連れてくる気なんて微塵も無かったのですが。いやぁこうなっては仕方ありませんね」
わずか数刻前には片桐さんのすぐ横にいたはずの如月は、今はなぜか少し離れた所にいる。彼の傍には大きな大きな機械、そしてさらに大きなタンクのようなものと、SFでよく見る緑色の培養器のようなものがあった。ただし、培養器の方はガラスが無残にも破壊され、見た目からして壊れていることが良く分かった。それが何なのかは俺には分からなかった。
「ここがどこなのか……。おまえに聞いて教えてもらえるものなのか? 一応聞いてみるぜ――ここはどこだ?」
亜里堅さんは聞く。
「そうですねぇ。ここを貴方達に見せてしまった以上……私はこの件から手を引きくことにします。ですからまあ……説明してあげてもいいですよ。彼女には……悪いですけどね」
「彼女?」
如月の反応は思っていたより好意的なものだった。だが、彼の言葉の含みの部分である『彼女』に反応した霧峰さんの事は無視した。
「ここは『妖精の草原(幸せの地)』――貴方達の事ですから妖精については知っているでしょう……そこに妖精もいる事ですしね」
妖精……晶の事だろう。『妖精の草原(幸せの地)』……またしても意味が分からないことを如月は言い始めた。
「ここは『妖精の草原』。妖精界と人間界の隙間にある空間ですよ。どこでもない場所……ただの人間には入れない場所。ここの座標はどこにもないんですよ。本当に……貴方達が入ってくるとは思わなかった……ああ……申し訳ない」
「訳が分からねえナァ。適当言ってんじゃねえだろうなぁ? 俺達が確かめようがねえのをいいことによお」
「その人が言ってる事、多分本当だよ。ボクも聞いたことあるんだ。この場所の事。実在するとは思わなかったけど」
「なるほど……案外素直だね。で? そこにある物々しい大層な機械は何かな。それは教えてくれないのかな?」
やはり霧峰さん達も(当然だけど)あの機械については疑問に思っているようだ。如月は何故か今俺達に(比較的)協力的……のようなので、あるいは教えてくれるかもしれない……。なんて考えは流石に甘かったようだ。
「そうですねえ……。これは教えるわけにはいきませんねぇ。私の為ではありません……協力者の為に、ですが」
如月は羽織っていた背広を脱ぎ、腕に抱えた。それを見た片桐さんと亜里堅さんは再び銃を構えた。それは無言の脅迫だった。
「おお……物騒な……。そんなものしまってくださいよ」
「そういうわけにはいかねえなぁ。お前はどうも中途半端だ。これは道具なんだ……このピストルはそういう道具なんだ」
「そうですか……。やめては貰えませんか……。なら一つ覚えておいて欲しいんですが……銃を構えていいのは……銃に撃たれてもいい人、だけですよ」
彼がそう言うなり、聞こえたのは二つの銃声。続けて二つの銃声。
「岸辺君!」
最初の二つの銃声とほぼ同時に、霧峰さんの体が再び俺のものとぶつかった。それは先程とは違い、明らかに俺を弾丸から守る動きだった。
俺は霧峰さんの持つ慣性のままに地面に倒された。腹部には生暖かい感触。霧峰さんの血だった。
「如月ィ! クソッ!」
見れば亜里堅さんも傷を負ったようだった。腕からは血を流していた。先に撃ったのは如月だった。彼が持つのは一丁だったにもかかわらず、俺達の元に届いた弾丸は二つだった。
そして如月も同じく肩には血が滲んでいた。
「くっ……。貴方達の事は忘れませんよ。そしてこれは償い……ここを見せてしまった私なりの償いです」
如月は右手に構えていた銃を捨て、背広を盾にするように包まりながら、大きな機械から遠のいた。その瞬間、やはり大きな爆発音とともに黒煙が立ち込める。
「きゃああああああ!!」
晶の叫び声が耳に劈いた。爆風が肌に当たり、生ぬるい風はなぜか心地よかった。
「おい妍治! おめえガキども見てこい!」
「わぁった遊子……てめえはあいつぜってえ逃がすなよ!」
「自信はねえぜ……見てみろアイツの足……この異様な空間に来ちまう前に撃った足だ……血が止まってやがる。機敏に動いてやがる。やっぱ妖精……人間じゃねえよ」
そう言って片桐さんは走り出す。
「き、霧峰さん! 大丈夫ですか!?」
「ああ……大丈夫だよ。それよりこの爆発! 鈴奴を殺したのは奴かな!? 聞き出さないとね! これは!」
なんで大丈夫なんだ? と思いつつも、俺の関心は如月にあった。ひどい話だ。霧峰さんへの感謝は今薄れている。
「さ、先程も言いましたが……私はこの件からは身を引くつもりです……。本当に彼女には悪い事をしました。ですが……この件から身を引くというのなら! 私はここに居るメリットは無い! さようなら……ドルルーサ! もう二度と会いたくは無いですね」
そう言うと如月は脱いだジャケットを再び羽織る。その瞬間、彼の体は消えゆいた。まるで霧や靄のように輪郭が不透明になり、そして溶ける様に居なくなった。
如月のその羽織る姿には何かしら違和感を覚えたが、消えゆく彼の姿はそんな些細な違和など簡単に消し去ってしまった。片桐さんの飛ばした弾は白い空間を裂くだけだった。
「クッ……逃げ出られた……のか。俺が悪ィのかぁ?」
「おめえが悪いぜ遊子……どうなってんだよ。常識……常識はどこだ……」
「ああ……全くだよ。私達はもはや常識に捕らえられている場合じゃないのかもしれないね」
俺の胸から離れ、立ち上がった霧峰さんが言った。シャツの胸部分には血が滲んでいる。それなのに彼女はまるで平気といった風に立ち上がった。
「き、霧峰さん……大丈夫なんですか……?」
「大丈夫だよ……弾はまともに当たってない。それよりあの機械……。大破してるけど、見ておこうか」
まともに当たってない……? 意味が分からない。銃弾の当たり方にまとももまともじゃないもあるのか? 大体血が滲んでいて果たして……?
燃え盛る機器に近付く彼女を、俺は静かに見ていた。
「ちょ……ちょっとなんですかあなた達はぁ……銃撃つし……爆発するし……なんなんですかぁ……」
すっかり腰を抜かした晶が俺のシャツの裾を掴む。彼女の目には涙が溜まっていた。無理もないだろう。俺だってとうに失われた正常な感覚があればその状態だっただろう。
「ん、これ。ちょっと妍治、片桐見て……」
私がそこに見たのは白い錠剤だった。もくもくと煙を上げるタンクのすぐそばに見慣れた錠剤――スマイル。なぜここに……? そしてここに流れるのは……血かな? 如月のもの? いいや違うね。如月はこのタンクには近づいていない。あの溶媒機の近くに血痕が落ちているのならまだしも、だ。となるとこれは?
よく見ればその血の流出源は……あのタンクかな? あれには血が貯められていたのかな?
「岬……これは」
「スマイルかぁ? ここにあるってこたぁ……」
「ここだね。製造場所、思わぬところにあった……。見つからないわけだね」
「でもあの培養器は何だろね、分かりやすく何かを培養する機械だ」
「きみぃ……一つ聞きたいんだけどさ……」
「なんだ? 正直言うと、俺だってこの状況で何か聞かれても答えられる自信は無いよ」
「あの人達……何者なんです? ただの人間のはずなのに……異常だよ」
「それは俺が正確に答えられない質問の一つ……。あの人達が何者なのか? 俺には分からない……。分かりかけた時もあった……。でも結局はよく分からないんだ。不思議な人達」
霧峰さん達を見て晶が聞く。正直なところ、彼女達のことなどほぼ知らないに等しいのだ。どこに住んでいるとか、どこで生まれただとか……。彼らは俺のこと知り尽くしているというのに、だ。
「そしてこの血……。誰のものだろうね。おそらくそのタンク(だった)ものから漏れてる……その傍らに散乱するスマイル。これはどう考えるべきだろうね。この機械……」
「詰みかねぇ~。如月は居なくなっちまったがよぉ……」
「ああ。これで終わるといいなあ。どんな形であれ、な」
俺は未だ消えない火を背に据える彼らを見ながら、晶と共に地面に座り込んでいた。
如月の事……妖精の事……吸血鬼のこと……それらと同じくらい、ドルルーサの事を知らない、分からないのだ。




