表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Ace of thin ice  作者: 小鳥遊
吸血鬼編
17/32

反逆とその終わり

 俺が霧峰さん達に初めて出会った日、彼女は俺を襲う吸血鬼の首を刎ねた。たった一筋の剣技で、その命を切り捨てた。俺はその現実を受け入れられなかったのか、はたまた純粋な興味からなのか、彼女の持っていた剣について、俺の知らない数多の武器について、しばらくの間調べに調べていた。

 その結果、件の時に彼女が使っていたものは恐らく(多分)グラディウスと呼ばれるものらしい事が分かった。刃渡り六〇センチ程の短剣で、切る事より突き刺す用途で使われていたようだ。しかしながら切れ味は(モノによるだろうが)悪くなく、確かにまあ、人の首を刎ね飛ばす事は不可能では無い(現実的な話は置いといて)……そういう武器だった。

 そして今しがた亜里堅さんが鈴奴の腕を切断し、霧峰さんの手に渡ったその刀はこれまた恐らく柳葉刀というものだ。刃の部分が反り返っており、主に何かを切る為に使用されてきた歴史があり、名の通り植物の伐採用としても大いに役立ったらしい。そのため先端は倭刀(=日本刀)などと比べ特別鋭利というわけでもなく、分厚さもそこそこ、といったところのようだ。


 しかし現実、霧峰さんは鈴奴の体ごと地面に柳葉刀を突き立て、自立させた。そしてすでに再生を始めている鈴奴の両腕にも、今度は片桐さんが投げた二本の剣を、まるでコルクボードに画鋲を付けるみたいにたやすく突き刺して、彼女を張り付けにしたのだった。一体どれ程の力を使えばそんなことができるのか? 果たして理解はできなかった。俺自身の刀の知識を疑うほうが遥かに簡単だった。俺はもうずっと自分の中の何かがマヒしているのを感じていた。

「これで良し……二人共、ありがとね」

 霧峰さんはささいなため息を一つ吐き、軽い仕事を終えたかのような感覚でそう口にした。

「僕はいいもの見れたからねぇ~。あれだけ嬲られる岬ちゃん、実際貴重な映像だよ。来た甲斐があった」

「あぁ、カメラでも回しときゃ良かったぜ」

「ちょ、ちょっと妍治まで。止めてよ恥ずかしいな」

 それに対し二人も軽口で返し、茶々を入れる。そこには緊張というものを感じられなかった。霧峰さんも霧峰さんで、さっきまでとは一転し、その場は和気あいあいといった雰囲気を醸し出している。まるで三人の友人が教室の一角で駄弁っている、そんな日常のワンシーンのようにさえ思えた。殴り殺される寸前だった人間がその中にいるとは到底信じられない。


 そんな三人に対し、倒されてから一言も声を発さなかった鈴奴がついに吠えた。

「て、テメエら! 舐めてんのか!? アタシを……吸血鬼を馬鹿にしてやがんなァ! 殺す! 殺してやる!」

「ああ、横隔膜は治ったみたいだね。良かったよ」と霧峰さんはクールに言った。

 鈴奴はあんなにも怒鳴っているのにだ。

 その中で亜里堅さんは「おっと、そうだったな」とだけ言って彼女に近付いた。今にも噛みつかんとする彼女にはあくまで反応せず、彼は彼女の制服を漁り、そのポケットから何かを取り出した。それを見つけると彼は俺の元へ寄り、俺の手錠をそっと外した。

「あ、ありがとうございます」

 晴れて俺の拘束も解放され、すぐにでも走り回る事すらできたが、俺は妙な体のだるさを感じていて、その場から一ミリたりとも動きたくはなかった。それよりも目の前で繰り広げられる奇妙な非日常を眺めていたい。そんな気持ちが強かった。

「さて吸血鬼、気分はどうだい。君の肉体は……再生しているんだね。その刀を飲み込んで……フフ……凄い。再生するほどに君は地面により強固に固定されていく」

「最高だぜクソヤロー……。見下してんじゃネェ。テメエらは劣等種……アタシらにとってのモンキーだったのに! クソッ」

 霧峰さんと片桐さんは鈴奴の横でしゃがみ込んだ。

「オイオイ勘違いすんなよ。お前は強者だ。圧倒的気強者……。故に(、、)だ、強者は慢心する……昔から決まってんだよ。強者は常に驕るんだ……そして足をすくわれる。コロン。丁度今のお前みたいにな」

「それに私達は運がよかったんだ。詳しくは言わないけど、私達はある種賭けに勝ったんだ。なぜドルルーサがここにいるのか……君はそう聞いたね? どこの誰かは知らないけど私達には味方がいた。それが君の疑問に対する答えだよ……そしていまのが私の君に対する最後の回答。ああ、もう君に私が何かを答える事は無いだろう」

 俺も、そしておそらく鈴奴も、霧峰さんの言っている意味はいまいち分かっていない。味方とはなんだ? 賭けとは一体? 俺に理解できるのは、その疑問は(少なくとも今は)解消されないという事だけだ。

「意地悪な事に私は結局、君の知りたがっていた事を何一つとして吐かなかった……だから今のはそのお詫びだよ。そしてこれからは私達が君に尋問をするんだ。いいね? これから私達が行うのは質問ではなく尋問だよ。尋問には常に痛みが伴うものなんだよ。それは軽くて鋭い痛み……君が私にした事の真逆さ。ただ殴るだけじゃ意味がないんだよ」

 そう言うと霧峰さんは鈴奴の固定された手に、自身の白くしなやかな指をそっと触れさせた。それはまるで母親が乳飲み子に触れる時のように、砂の城さえ壊せないような柔らかな動きだった。鈴奴の表情は見ることは出来なかったが、彼女が緊張と安らぎの狭間で戸惑っている事が分かった。霧峰さんの指使いには、この状況の中でも鈴奴にそうさせるものがあったのだ。しかし――


 霧峰さんは鈴奴の爪を剥ぎ取った。


 親指と人差し指だけで器用に爪を剥いだ。緩やかに、されど激しく、鈴奴の親指の爪は今、霧峰さんの手の中にあった。その体を貫かれた時でさえ聞こえなかった叫びが倉庫に響いた。俺ならもっと叫び喚いているかもしれない。

「おおおおおおおおッ! ば、バカかテメエ! 尋問するならせめて……何か聞いてからにしろッ! いきなり爪を剥がす奴がどこにい――」

 そして、もう一枚。今度は人差し指。

「イギッ! ク、くうううう……」

「お前の言葉セリフはどこかで聞いたことがある。そういうのは駄目だ。お仕置きだぜ」片桐さんはそう言って反対側の親指の爪を――。

「ああああああッ! クソッ! 何の話だ……クソがッ!」鈴奴は叫ぶ。

「――っと。これは目に毒だな……お前は退場だ。大丈夫か? ほれ、掴まれ」

 俺の横で一連の流れを見ていた亜里堅さんは、思い出したかのように俺に向かってそう言った。俺はすでに今しがた行われた悪魔的行為をしっかりと見てしまったっていうのに、もう遅いのでは? と思ったが口には出さなかった。それに俺には今更退場する気など毛頭無かった。

「いや、いいです。俺は見届けます。大丈夫ですから」

 俺が断固とした態度でそう返すと、亜里堅さんはあからさまに機嫌を悪くした。

「高校生が見るもんじゃねえ、いいからこい」

 座り込む俺に対して手を差し出す亜里堅さん。俺はそれを無視し、立ち上がった。

「亜里堅さん。あなた方がどうしてここにいるのか俺には理解できていませんが……とにかくあなた方はここに俺と霧峰さん、そして鈴奴が来ることを知っていたんじゃないですか? つまりあなた達は俺を使って吸血鬼を釣った。それを俺に事前に伝えてはいなかった……違いますか? 俺はその事に対して怒っている訳でも腹を立てている訳でもないんです。俺に説明しない方がいいと判断した結果そうしたんでしょうから、それは別にいいんです。ただ……釣りが終われば餌を捨てる……俺にはそれが納得できない訳ですよ。間違ってませんね。俺はこの場を離れません、彼女の行き着く先を見届けます」

 亜里堅さんは「ア?」と短く返した。その感情を一番簡単に、そして端的に言い表せば、彼は今怒っている。ああ、言ってしまった。この明らかに異常な空間が、普段俺が言いたくても言えないような特殊な啖呵を切らせたのだ。いかに彼らと対等な位置に立とうとしても、所詮俺はただの高校生。同じ目線に立てるわけがないのだ。

「お前なあ……あんまり――」「いいよ妍治。彼の言い分は正しい。彼がここに居たいというのなら、彼の意志を尊重しよう。ただし……自己責任だ。君がこれからどういう気分になろうと、後悔して眠れない夜が来たとしても、それは君が望んだことだ。いいね?」

 亜里堅さんはなんと言おうとしたのか、それに被せる様に霧峰さんが俺がここにいる事を許諾した。彼女は俺の方向を見ようとはせず、背を向けながらそう言った。俺は何も答えなかった。亜里堅さんは納得していなかったようだが、それ以上何も言わなかった。そうすると続けざまに彼女は、今度は鈴奴に対して口を開いた。

「待たせて悪いね。今度はちゃんと聞くからさ。洗いざらい、だったっけ?」

 そうして彼女はもう一枚、次は薬指の爪をまるでプリントを捲るみたいに簡単に剥いた。本日何回目かの鈴奴の苦痛に満ちた金切り声がこだました。



「凄い、もう親指の爪が生えかけてるよ……これは捗りそうだね」

 霧峰さんは手の中に持った数枚の爪を地面に落としながら言った。吸血鬼ゆえの超回復能力は皮肉にも鈴奴の体を固定する事を助け、彼女が再生し続ける限り、霧峰さん達による惨憺たる尋問も終わらないであろうことがよく分かった。

「じゃあいいかな……そろそろ最初の質問だ。そしてこれを聞くのは二回目なのだけれど、君の主、つまり君を吸血鬼にした元凶……その正体について話してもらおうかな」

 霧峰さんは鈴奴の薬指に手をかけながら言った。それはやはり質問というには脅迫めいたものであった上、霧峰さんには本当に鈴奴の体を労わるつもりなんて全くないようだった。当然と言えば当然なのだが、俺がもし彼女の立場なら、鈴奴の悲鳴を聞く度に心は痛んでいただろうし、躊躇の心も生まれていただろう。しかし彼女には一切それがなかった。長年風や砂埃に晒されて擦り切れたガラスのように、彼女の心は失われているように思えた。大きな一部分が欠落しているというよりかは、表面のほとんどに修復不能な小さな無数の切り傷が入ってるようだった。

「それに答えるのは二回目だ……アタシはその存在……テメエらに教える事はない」

 鈴奴がそういった瞬間、鳴り響いたのは鈍い骨が折れる音だった。霧峰さんは折った。彼女の薬指を。そしてあろうことかそれを引っ張り、その力に耐えきれずに彼女の指は千切れた。想像する事すらできない激痛を受けて、声にならない声を漏らす鈴奴。それを聞くたびに俺の心が擦り減っていった。

「分かって、私達が求めている答えはそれじゃない。いいね? これは答えのない国語の問題じゃない。質問には正しい回答が付きまとうものなんだ。もう一度だよ……君の主は誰?」

「聞けッ! アタシは言わないんじゃない……言えないんだッ。それが契約……契り! その名を出すことは体が許さないんだよ! この体に流れる血がそれを許さない(当然アタシにもその意志はないが)んだ!」

「へぇぇ~。それが本当ならずいぶん面白い話だなあ……そいつは。だがそれは答えじゃない。そうだろ? 岬ちゃん。だからお前にはこれが必要だ……素直になれる」

 吸血鬼を囲んでしゃがみ込む二人。そのうち片桐さんが季節外れのコートのポケットから白い錠剤を取り出し、水と共に鈴奴の口へ無理やりねじ込んだ。それがまともな代物でないことは俺じゃなくとも分かったので、彼女は当然体をくねらせ抵抗した。それでも足を抑えられ、腕も胴体も地面に縫い付けられている彼女がまともに抗えるはずもなく、じたばたと暴れながらも最後にはそれを飲み込んだ。そんな二人を亜里堅さんは何も言わずに見守っていた。彼が何を考えているかは分からなかった。

「それが効くまではお前の”契り”とやらを信じるぜ。それまでに聞くべきは……如月についてだ」

「如月という男。何者? 彼はどこからともなく現れいずこにか消える。彼を探すものは彼に到達できない……。おかしいんだよ、私達以上にこの渋谷について精通している者はいない。それなのに彼に関する情報は一向に集まらない。カメラにも映っていない。私達に把握できない事を、彼はなぜ簡単にやってのけられる? 君達吸血鬼とスマイルが関係しているのなら、それを捌いている如月と関係ないはずがない……そうだよね?」

 片桐さんが切り出し、霧峰さんが続ける。

「如月ねえ……テメエら知らねえのか。ならアタシが教えてやれるわけねえよナァ? 吠え面かいて悔しがれバーカ!」

 そう言い切った鈴奴に対し、霧峰さんは何も言わずにただ彼女の指を破壊した。聞きなれた叫び声。しかしその響きの中には先程まで無かった余裕のようなものが含まれていた。

「この痛み程度ッ! アタシの忠誠にヒビすら入れられねえよ! テメエらに教える情報は犬のクソ程もネェ!『契り』とは別ッ! アタシの『誓い』なんだゼッ!」

 彼女は一際大きな声で叫んだ。それは苦痛からくるそれとは違い、確かな覚悟と気高さのようなもの持ち合わせていた。彼女は覚悟してこの場に来ているのだ。この状況を予想していたわけではないかもしれない。しかし、彼女の根底には不倒の何かがあり、それは数枚の爪や指ではなびきすらしない代物だった。そして霧峰さん達もそれを感じ取っていた。

わたした

「君はすごいね。本当にすごい。感服するよ。吸血鬼だってことを抜きにしても、君のその精神は私が見てきた生物の中で群を抜いている。指が無理やり千切られる痛みの中でも揺るがない魂を持った君は本当にすごい。だから私もそれに答えようと思う。君のその本物の忠誠に対して、私もやれるだけの事をしてあげたいと思う。ただし勘違いしないでね。これまで行ってきた――そしてこれから行う事の目的はあくまで情報だ。君に痛めつけることが本質じゃない、話したくなったらいつでも話してほしい」

 霧峰さんがそう前置くと、片桐さんは先程とは逆のポケットから小さなナイフを二つ取り出した。十徳ナイフ程の、果物の皮さえ禄に向けなさそうな小さなものだった。それを彼らは一本ずつ持ち、鈴奴のハリのある肌を持つ腕に押し付けた。


「本当に、喋りたくなったら言うんだよ。これは同情なんだよ」

 その言葉を皮切りに、彼らはそのナイフを寝かせ、彼女の腕の皮を少しずつ――本当に少しずつ、剥いでいった。優しい口調とは裏腹に、言葉通り最大限の痛みを与えるべく、少しずつ、慎重に、ゆっくりと彼女の皮を剥いでいった。彼女はこれまでにないほど悲痛な叫び声を上げた。耳を劈く喘ぎを上げ、前膊から始まったそれが二の腕に上った時には、彼女は口の端から泡を吹き、脂汗が顔中に滴っていた。

 絶えず叫び声は聞こえていたが、しばらくするとそれは聞こえなくなった。彼女は失神していた。彼女の本能が彼女の身に麻酔をかけた。当然の防衛本能であった。彼女の意識は痛みによって一時体を離れ、しかしすぐに痛みによって肉体へと引き戻された。

 ほぼ同時に左右の腕の皮が剥ぎ終えられた。その過程の中で彼女は何度も失神と覚醒を繰り返した。しかし彼女が霧峰さん達の求める何かを口にすることはなかった。剥がされた腕の皮は見事に一枚のシートになっていて、奇妙な芸術品のようにも見えるほどだった。腕が終わると二人は彼女の制服も下着も脱がし、露わになった腹部へ刃を入れた。すでにみぞおちの辺りには、突き刺さった刀が作り出した血液が痛々しく塊を作っていた。

 腹から頭の方へとスルスルと刃は進み、乳房の丘を越え、肩のなだらかな坂を下り、地面に密着した背中まで器用に剥いでいった。それはまるで職人技のようで、清々しい程に滑らかな血の筋が出来ていた。

 鈴奴がどれだけ叫ぼうとも彼らはその作業を止めなかったし、彼女も決して口を割ろうとはしなかった。不毛な意地の張り合いだと思った。切り裂かれた皮膚から見える筋肉は体液でぬめぬめとしていた。俺はそれと目があった瞬間、強烈なえぐみを腹部に感じ、吐いた。目を背けずにはいられなかった。しかしどれだけ彼女らに背を向けて吐瀉しても、彼女の絶望の悲鳴からは逃れられなかった。

 どれほど鈴奴の声を聞いていただろう。彼女の周囲には夥しいほどの血が水たまりを作っていた。彼女は最後まで死ななかった、いや、その性質故に死ねなかった。首から下の全ての皮が剥がされても、彼女は虚ろな目でしっかり霧峰さん達を睨みつけていた。彼女の横には、完全にその形を残して剥がされた皮が並べられていた。俺はその光景を魚を三枚におろした料理人の手元で見たことがあった。

「まさか耐えきるとはね。これをやった事は過去に数回だけだけど、これをやって吐かなかった奴は居なかった。全身の筋肉が露出した人間は苦痛の中で時間をかけてゆっくりと死んでいくんだ。だけど君は違った……今回は君の勝ちみたいだよ」

 鈴奴には喋る気力が残っていなかったのか、それとも叫びすぎた故に喉の水分が失われていたのか、彼女はヒューヒューと隙間風のようなささやかな息を漏らすのみだった。

「そう……今回……一回目はね」

 霧峰さんは彼女の腕に触れながらそう言った。驚くべきことに、その腕にはすでに卵殻膜のような新しい皮がうっすらと張られていた。

 俺は霧峰さんの言わんとしていることを理解した時、彼女に対して圧倒的な恐怖を覚えた。彼女は人間ではないと感じた。鈴奴とは違う意味で彼女は人間離れしていた。感情を表に出し、叫び、心の存在をありありと示している吸血鬼の方が人間味があると思えた。それは完全な矛盾を孕んだ錯覚に違いなかったし、現実的には真逆の関係なのだが、とにかく俺はその時霧峰さんが人外(、、、、、、、)で、鈴奴が哀れな人間(、、、、、、、、)なのだと、そう感じたのだ。

 霧峰さんは再び、彼女の腕にナイフを突き立てた。そうしている間にも鈴奴の体は無情にも再生を続けていた。

「どう? もう一周、耐える自信はあるのかな」

 霧峰さんがそう言うと、片桐さんは鈴奴の口に水を運み、半ば無理やり飲み込ませる。もはや体は拒むほどなのだろう、彼女はむせていた。

「さっきの薬は即効性だ……。お前が何を喋ろうとクスリの仕業……。いいだろ? 今だけだ。ここにいるのは俺達と一人のガキだけ。誰も知らねえ。なあ? 楽になれよ」

 飲まされた薬のせいだと思う。あれだけの苦痛を受けていたのに関わらず、彼女のその表情は弛緩しきっていた。その口元は涎や泡の止め方を知らないようだったし、涙や汗がにじみ出ては染み込んでいるその顔はふやけてしまいそうな程ぐしゃぐしゃだった。

「し……死ね」

 以外にもそれは悪態だった。それが苦し紛れのリップサービスであることは誰が見ても分かる事だった。「契り」とやらのおかげなのか、もしくは彼女の尋常ならざる精神力の賜物なのか、それは彼女の未だ消えぬ気迫の前に判断出来なかったが、とにかく彼女はまだ屈服した様子は無かった。本気でもう一度あのおぞましい痛みを受け入れるつもりだったのだ。

 彼女の言葉を聞いた霧峰さんは何も言わずに腕に力を入れた。

 押し付けられたナイフの先端が肌を破り、新鮮な血が一滴、再び肌を伝った時だった。



 爆音。

 火山の噴火のように猛々しく恐ろしい、鼓膜が悲鳴を上げる大きな音。

 揺れる。

 倉庫全体に鳴り響く轟音。体の全方位から受ける空気の振動が、それが明らかに異常事態であることを告げた。

 地面が揺れ、壁がきしみ、崩壊を始めていた。まるで倉庫という怪獣が咆哮を上げたように思えた。

 俺がその事象を驚きもせずにただ茫然と眺めていられたのは、その場にいる誰一人として声を上げなかったからだと思う。精神が摩耗している俺や肉体的に厳しい鈴奴は別として、普通人間はとっさの出来事や唐突に訪れる大音量に対して、何かしら反射的な行動をとってしまうはずだ。しかし霧峰さんも片桐さんも亜里堅さんも一切そのそぶりを見せはしなかった。あるいは内心だけに留めていた。だから俺もその驚愕を咄嗟には表せなかったのだ。

 「妍冶!」と霧峰さんが叫んだ時には、すでに亜里堅さんが俺の体を担ぎ、倉庫の入口へと走り出していた。俺は未だに何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。おおよそ二〇メートルのあいだ、俺は霧峰さん達から離れていくのをただぼんやりと見ていた。

 ふと崩れていく天井を見上げ、その破片ピースが落ちていくのを再確認した時、俺はようやくこの倉庫が爆破されたのだと理解した。


 亜里堅さんに抱かれ外へ飛び出した俺は、無事倉庫を脱出したといえる。爆風に飛ばされた小石が頬をかすめた以外に怪我がなかったのは、ひとえに亜里堅さんの迅速な対応のおかげだった。

 外はすっかり暗くなっていた。少し肌寒い風が心地よかった。

 一瞬にして崩落し、瓦礫の山と化したかつて倉庫だったものを見て、俺は周囲を見渡す。彼女達は倉庫のかなり奥にいた。この埋立地に俺達以外の影は見当たらない。

 彼女達――霧峰さん、片桐さん、そして鈴奴は――。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ