霧峰岬は殺される
私達が吸血鬼から有益な情報を得られていなかったのは。彼らの性格が最大の要因だった。彼らには目的はあったが意思はなかったので、対峙しても殺すほか無く、捕獲しても得られるものは無かったのだ。
鈴奴は違う。彼女は例外であり異様であり特別であり異質であり特例であり異端であり、そして私達が求める逆転の切り札だと私は思った。
「まだアタシに聞けるほどの余裕があるんダァ、気に入った、気に入ったよお前。いいぜ、答えてやる。アタシはナァ、『眷属』なんだよ、直々のな。クスリで生まれた紛い物とは違う、直々に力を授かったんだ」
「さ、授かった……?」
「ああ、そうだ。あの方から頂いた、最高の力だ……。人間を遥かに超越した、進化した生物なんだ、人間! アタシはそう、ちっぽけな人間があがこうと届かない領域にいれて頂いたんだ……力! 私は得タ! ふははははははははははァ!」
「あの方……、誰だよ、それ。君をそうした奴……この渋谷を……こうした奴、どこのどいつだ……、あぁ、目の前が霞んできた」
「『眷属』は忠誠の意……そして誓約、主の情報は漏らさない……洩らせないんだ。それに――お前はまだ死なネェ!」
吸血鬼の腕力は想像を絶するものだった。
私の首を雑に掴み、その腕一本で私を宙に持ち上げてみせた。酸素の供給経路――喉を締め付けられ、顔の温度がみるみるうちに上昇していく。そのまま首を絞められ死ぬのかとさえ思ったが、彼女は残酷な事にそうはせず、ゴミ箱に紙くずを放り捨てるように私の体を投げ放った。
五メートル程飛んだ私の体は地面を擦り、そして何かにぶつかり静止した。
「ん……くうぅ……?」
その衝撃によって怠げな声を上げながら、眠らされていた岸辺君が目を覚ましたようだ。まずい、と口を開こうとするも、私の口内はずいぶん傷ついていたので、言葉の代わりに咄嗟の血が出るだけだ。
「き、霧峰さん!? 大丈夫ですか!? その血、傷……ってなんだこれ! 手が――」
「や、やあ……起きたんだね。見ての通りだよ」
彼は芋虫のように体をくねらせ、ガチャガチャと音を立てる。
「あ……しまった……。やっちまったァ……。そいつ起こしちまうとはなぁ。あぁ、殺すつもりは無かったんだけど……」
やれやれ、と私は思った。この両手が塞がってさえいなければ、彼の口を咄嗟に抑える事もあるいは出来たかもしれない。そうすれば彼女にバレずに済んだかもしれない。そうすればおそらく彼女は岸辺君に危害は及ぼさなかっただろう。
しかし事実として鈴奴は岸辺君の覚醒に気づいてしまったようだし、明確な殺意を抱かせてしまったようだ。
「どうだ、霧峰……せんせー。もう質問は十分かぁ? なら次はアタシの番だよナァ……フェアに行こうぜ、どうせ二人まとめてここで終わるんだ、さっさと吐けば楽になんぜ……」
「お、お前は、鈴奴か。その目……吸血鬼だったのか、霧峰さん!」
拘束され地に伏せる私達に鈴奴は戸惑うことなく近づいてくる。
岸辺君に名前を呼ばれ、彼は責任を感じているのだと私は思った。彼は賢く強かな子だ。すでに私達が置かれている状況は理解しているだろうし、私の体が傷ついている理由も、彼の立ち位置さえも把握しているかもしれない。
私はゆっくりとまず上体を起こし、繋がった足でバランスを取りながらよろめいて立ち上がる。私からだ……。岸辺君を先に殺らせるわけにはいかない。彼からはどれだけ不安定で脆い壁に見えるだろう。しかし私は鈴奴と岸辺君の間に聳え立つしかないのだ。
「もう一度聞く……さっきは一気に聞きすぎたよナァ、悪かった。聞いてやる、洗いざらい、だ。ドルルーサの事……お前の事……。岸辺とかいうのは黙っときなァ、今は人外の時間だぜ……」
私の眼前に三度彼女が迫る。私よりも少し背が高いだけのはずの彼女が、どうしてだか、遥かに巨大で恐怖さえ覚える建築物のように見えてしまう。
じりじりと迫りよる彼女、対して私はもう引くことはできない。自分よりも優先して守るべきものがそこにあるからだ。
「落ち着きなよ……未成年。私の質問はまだ終わってない、よ……。答えて……君の、君の主の目的は――」「駄目だぜ。質問の時間は終わりだ、お互いに、な。ここからはアタシの、一方的な尋問……もう答えない」
私の時間稼ぎ兼今私が出来える全てのあがきは、非情にも彼女の気まぐれによってあっけなく終業してしまったようだ。同じおもちゃで一週間と遊んでいられない小さい子供のように、彼女は私との緩慢めいた問答に飽いてしまったようだ。彼女の言っていた事は正しく、ただの人間と彼女ら吸血鬼には歴然とした力の差がある。最弱設定のCOM相手をただ嬲り続けてもつまらないというものだ。そんな彼女からはもう(少なくともこの状況で)得られるものは無いと思った。
「さぁ、言えよナァ。諦めろよ。もうわかっただろう? アタシだって最初こそ警戒したが、所詮お前はただの人間だった。恐れるに足らなかった。違うんだよ、アタシとお前らは根本的にサァ。お前はアタシ達と近しいモノがあると――」
聞くに堪えないと思った。
そう思ったので、私は彼女の顔面に唾を吐きかけてやった。予想通りソレには血が混じり、彼女の白く整った顔に泥を塗ってくれた。彼女は唖然というか理解が及ばない、といった顔を数秒晒し、やがて分かりやすく怒り心頭といった表情へとすり替わっていった。
怒れ。
彼女は私を殺してしまわない為、明らかに力をセーブしていた。それでも人間の範疇を遥かに超えた力だったが、そんな彼女の脳が怒りに支配されプッツンした時、果たしてどれほどの爆発力が生まれるのか? 私は急に確かめたくなったのだ。彼女が言葉で質問に答えないと言うのだから仕方ない。
「フ……フヘヘ……ニギッ……ニギギッ……すげえよ……ハハ……。笑える……。そうか……そうか……プライドはある……誰にでもある。どんなちっぽけな生物にも、プライド……。だが、テメエはすげえある……人一倍だ。たかが人間が、すげえよ」
怒髪天を衝いた顔を見せたかと思えば、今度は壊れたおもちゃの人形のように軋んだ笑い声を上げた彼女。あからさまに情緒が不安定なのだ。
相変わらず右へ左へ振り子のように揺れて、しかしガラリと表情は変わる。
「テメェァ……。無理だ……わかったぜ……テメェからは! なにも! 聞き出せねェェァ!! 吐く気が無いなら殺す! 今! これで終わりだッ!! これは我が主の為! アタシのプライドの為ッ!」
彼女が始めて見せる激高と共に、大きく振りかぶったその拳。彼女の本気と思えるそれ。底知れない筋力から生み出されるパワー。その拳が今私の目の前数十センチ、適度な回転を見せながら軌跡は美しい直線を描いている。
殴られる、その直前。
罠にかかり死にゆく獣が間際に放つ咆哮が如く、私もまた叫ぶ。
「――――!!」
*
『霧峰岬は殺される』
初の教務の疲れも癒えない私の元に、そう書かれた手紙を持ってきたのは妍治と片桐だった。彼らがいつものように如月を探すため、いつもの渋谷の一角に集まったところ、その封筒は彼らの到着を待つようにして置かれていたらしい。そこは四方がコンクリートの壁でできた出口も入り口もない場所で(どういう経緯でだかその場所はいつの間にかできていたのだ)、間違っても目的の無い人が立ち入るような場所では無い。そんなところに意味ありげに置いてあるもんだから、二人は訝しみながらも封筒を開けてみた。その中身を見て、彼らはここへ戻ってきたのだった。
「霧峰岬は殺される。二十四日夕刻、場所は蒼浦埠頭第四倉庫……ね」
私に手渡された三つ折り洋紙の内容を読み上げる。
「どう思う?」と妍治が聞く。
「指紋は?」私は冷めた態度で聞き返す。
「封筒の方には残ってねーみたいだぜ、多分それにもな」
片桐が私の持つ、丁寧に折られてはいるが少し角がズレている手紙を指差し言う。
数秒考えて「どう思う? と聞いたね妍治」と私は言った。
「私は信頼に値する手紙であると思う。少なくとも私にとってはね」
「その根拠は?」
彼は彼自身の考えと私のそれを示し合わせるように聞いた。
「この手紙の主はあんた達の集まる場所、恐らく時間も知っている。そしてあんた達と私の関係――繋がり、私の名前。それらを知り得る人物がどうしてこんな悪戯をするかな。私ならもう少し有意義な事に紙とインクを使うよ」
やはり妍治も同じ考えだったようで、小さく頷き同意した。片桐も(大変珍しい事だが)同調の様相を見せていた。しかし私とてこの内容に些かの疑問を抱いていないわけではなく、それもまた二人と同じであった。
「解せねーな」やはり真っ先に口を開いたのは片桐だった。
「こいつは岬ちゃんの事、俺達の事を知っているようであり――その実なにも知らないようでもある。それにこんな内容のもの、本当に俺達に伝えたいならもっと確実性の高い方法を選ぶだろ」
その通り。信じることはできるが信憑性に欠けるこの内容、その伝達手段。
二十四日、明日の夕方――明日。
私は手紙を、今度はきちんと折り畳み直し、妍治に押し付けた。
「妍治! 遊子!」
霧峰さんは殴られるその瞬間、倉庫の端から端まで届く程大きな声で、亜里堅さんと片桐さんの名前を呼んだ。その途端山積みになっていた木箱の影から二つ、目では追えないほどの速さで何かが飛び出し、そして――
それはもう、俺が聞いたことも無いような音だった。魚の首を包丁で落とすとも、フィクションで知る拳銃の発砲音とも似て非なる音。何かが弾けるようであり、生が一つ消えゆく時のようなただ静かに鈍い音でもあった。
それを聞いて気が付けば、吸血鬼――鈴奴の両の二の腕から先は鮮血を滴らせネチリと地面に落ちていた。右の拳は霧峰さんを殴りぬいたそのまま、固く握りしめられていた。俺の後方からは霧峰さんがぶっ飛ばされ、そこにあるであろう機材や木材に衝突し、それらが破壊されたと思われる激しい物音がした。
「な、な、な……なんだってェェェェッ!」
鈴奴は膝をつき、悲痛と吃驚をたんまりと含んだ叫びを上げた。
誰が何をしたかは、薄暗い朱に染まった大きな刀(ファランクスや呉鉤に類似しているが実際のところ何かは不明だ)を持った亜里堅&片桐さんを見れば簡単に分かった。
倉庫内に潜んでいた二人が霧峰さんの合図を機に飛び出し、吸血鬼である鈴奴に強烈な攻撃をしかけたのだ。けして太くも強靭であるようにも見えない彼女の腕だったが、しかしそれでも二人は繊維と筋肉の塊、そして人間以上に堅牢であろうその骨をも一太刀で切断――粉砕してしまった。
俺以上にそれを理解している様子の鈴奴。その断面を覗かせる二の腕はたった数秒の内に血を垂れ流すのを止め、面が織成す赤黒い楕円ははまるでブラックホール……吸い込まれるほどグロテスクだ。
「ひ、ひでぇ……! テメェら! ドルルーサ! た、叩き切りやがった! アタシの腕……ッ! 何故ここにいる!」
「あ、亜里堅さん! 霧峰さんが……! 何故! どうして!?」
俺と彼女の、思考はともかく疑問は当然一致した。亜里堅さん達が今ここにいる事は分かったし理解したが、いつの間に彼らはここ(そもそもここがどこだか知らないが)にいたんだ? 霧峰さんは大丈夫なのか? 生きているのか? 俺は真新しい学校の扉を破壊する鈴奴を、それを一身に受ける霧峰さんを目の当たりにしている。とてつもない勢いで吹き飛び、そして何かに打ち付けられた彼女……無事とは思えない。それに彼らがここにいたのならどうしてもっと早くこうしなかったのだ。疑問は拭えない。
「慌ててんじゃねぇよ吸血鬼。……岸辺もな。あいつはお前らが思っているよりずっと丈夫だ」
しかし亜里堅さんは俺達とは対照的に、正月に書初めをするときのような穏やかなアトモスフィアで答えた。彼は霧峰さんが生きていると言った。にわかには信じがたいが、俺より彼女の事をずっとよく知る亜里堅さんが言うのだから、俺は少し動揺を失い、安定した精神を得た。
「へ……はったりが……。アイツはアタシの全力をモロに、それも頭に受けた……生きてるわけがネェ。アタシとしたことが冷静さを欠いちまった……しかしその結果ッ! アイツは死んだが! 幸運にもチャンスは再び私の元へ寄り添って来たんだ……二つも! テメェらがここにいる理由はもう必要ネェ!」
彼女は奮い立てるように叫び、勢いよく立ち上がり、亜里堅さん達を体で睨みつけた。よく観察してみれば彼女の腕がなにやら蠢いている。気持ち悪かった。
亜里堅さんはやれやれとでも言いたげな表情をして呆れているように見えたし、片桐さんはにやにやとひたすら静かにこの場を見守っていた。
「ちょいとばかし驚いたが……実際のとこ、この状況は大した問題ではない……ってやつダァ! テメェらは同じ目に合わせる! この腕をもってしてだ!」
ゾゾゾゾゾ……と耳に触る音を奏で、彼女の左右の二の腕からは勢いよく新しい前膊が生まれた。しかしながら筋線維丸出しのそれは人体模型でよく見るそれ、羽化したての蝉のように生々しく、彼女が人類にとって未知なる存在であることを大いに知らしめた。そして彼女は腰から拳銃を握り、二人の方へ銃口を向けた。その表情は地に伏せる俺からはよく見えないが、語勢やテンションからはかなりの余裕が感じられる。
「二つに一つ……選ばせてやる。次に死ぬのはお前か、それともお前か……。いいか? 一人は頭をぶち抜く……これはお仲間の武器だ。もう一人は――」
「へぇ、再生するんだ……すごいね。実に興味深いよ」
俺の背後から聞こえる抑揚のない声。合成音声ソフトに読み上げさせたような単調な声。それは心理的優位に立とうとする鈴奴の言葉を遮り突如として現れた。その声色から疲弊や損耗、傷痍の類は感じられなかった。意図や思惑すら排斥した、感嘆の形をした独り言のようなものだった。呟く程に平坦な口調であったのにも関わらず、それは昂る鈴奴の言葉を押しのけ俺達の耳に届けられた。
鈴奴はその場の誰よりも早く反応、振り返り……銃口の向く先を変えた。
俺は今更体を上体を起こした。出来なかったわけではなく、忘れていた。状況変化の嵐の中に、俺は動くことさえも忘れていたのだ。
瓦礫や木の破片の散乱する中、そこに霧峰さんは立っていた。威風堂々とか昂然たるなんて言葉は相応しくない、無気力・リラックス・脱力した姿だった。
「やあ。私は生きていた……不思議だね」
霧峰さんはやはり感情の込められていない言葉を発した。
そして未だ繋ぎとめられていた腕を、彼女は俺達の目の前でいともたやすく解放してみせた。マジシャンめいた技法を用いたのではない、彼女は金属製の鎖を力で破壊したのだ。手錠とは勿論人の拘束を目的とした道具であるため、そう易々と壊れてしまっては意味がない。拘束は手段であり目的だ。俺にはめられているそれの感触から金属であることは伝わっているし、それなら彼女には最低でも俺以上の強度のものが付けられいたに違いない。俺も彼女のように壊そうと試みた。手首に忌々しい輪が食い込むだけだった。
「ハ……ハハ……。い、意味分かんねえ……生きてやがる。生きてんのか? 意味が分からないッ! なぜ生きていられる! 鉄をも破裂させるこの拳は完璧に入ったはず!」
「君は……確かに人間とは――そこらの吸血鬼と比べても――一線を画した力を持っているよ。でもこういう状況に慣れていないようだね。……敵に背は向けるものじゃないよ」
まるで回答になっていないその言葉を聞いて、鈴奴は咄嗟に振り返り亜里堅さんを警戒するも、それは彼女にとって遅すぎる対応。彼女は再び彼らの射程距離内に入っており、すでに彼らが始めていた攻撃を避ける事は出来なかった。再び彼女の腕は宙に見事な弧を描いて舞った。そして――
「言ったじゃないか、敵に背は向けちゃいけないって……。先生の話はちゃんと聞いて……学ぶんだ、学生」
亜里堅さんと片桐さんに注意を払えば当然希薄になる霧峰さんへの対応力。俯瞰的に見ていた俺ですら彼女がいつの間に鈴奴に接近していたか分からなかった。
「何ィッ! おま――」
狼狽する彼女に、これっぽっちも付き合う気はない、と言わんばかりに、後方から鈴奴の髪を乱暴に掴み、それを重心の後ろへ引くと同時に無慈悲な足払い。ただでさえ両腕を失っている彼女が当然受け身など取れるはずもなく、為すすべなく地面へと叩きつけられた。”柔よく剛を制す”は不相応、しめやかに剛が剛を制した瞬間だった。
見下す形を取った霧峰さんに、亜里堅さんは何も言わずに手に持っていた刀を投げ渡した。ほぼ死角からのそれを、彼女は何一つ動じることなく片手で受け取った。まるでどの位置にどのタイミングで何がどのような回転をしながら飛んでくるのか分かっているようだった。それは以心伝心の範疇を超えていた。
「覚悟はいいよね、吸血鬼」
誰にも聞かせるつもりの無いようなささやきを残して、彼女は剣を力一杯鈴奴の腹部に突き刺した