アナーキー・イン・ザ・PC
「ハッキリ言って、むかつきます」
私はキーボードを叩く手を離し、隣にあるマグカップから、霧峰さんが淹れた泥水のようなコーヒーを啜る。
苦い。ハッキリ言って、美味しくない。元は別段普通のインスタントのはずなのに、どうしてここまでまずくできるのだろう。化学と企業に対する冒涜としか思えない。
「何がさ」
私の後ろで、窓の外を眺めながら優雅に汚泥を飲んでいた霧峰さんが振り返る。
「私のハードワークですよ。二年前から忙しすぎます」
「仕方ないさ、ドルルーサで君が一番化学にも科学にも長けているんだから」
「でも渋谷にいる人の大半の血液を調べてくれって……霧峰さんは私をド●えもんか何かと勘違いしていませんか?」
二年前霧峰さん達が追い始めた吸血鬼事件。確かに実際に血を集めたのは私ではないけど。それにしたって全部検査するのは骨が折れた。折れたというかもう粉砕骨折だ。
「君にはいつも助けられている。居なくてはならないという意味で、確かにドラ●もんだね」
むぅ。ハッキリ言って、私はちょろい。こういうふうに霧峰さんに肯定されてしまっては、もう納得してしまうのだ。
「で、終わりましたよ。新島浩二と佐倉紗季の血液検査、あと彼女が持っていたクスリの成分も」
私はふてくされたように話を変える。
「やっぱり早いね。見せて」
「ちょっと待ってくださいね。私もまだ見てないんですから」
私はプリンターから二枚ずつ出てきた紙をまとめ、一部を霧峰さんに渡した。
「ふむ……。大方の予想通り、あれはスマイルだったみたいだね」
「そうですね。過去のデータに鑑みても、超確率でスマイルです」
スマイルの結果を軽く読み流し、二人の解析結果に集中するため、しばしの静寂が訪れた。
「……ねえ、これ間違えてない?」
均衡を破ったのは霧峰さんだった。
確かに。そこに記されているものは、私の予想したそれとは大きく違うものだった。
「アレって間違いなく新島と佐倉の血ですよね? その、吸血鬼化した……」
「うん。間違いないよ」
それを聞いて私は改めてデスクの上の画面に目を落とす。スクロールし、計算の過程を全て追っていく。
「こっちにミスはありません。いつも通りの正しい結果です」
そう言うと霧峰さんは一層と不可解な顔をした。私の顔もきっとそうだろう。
「どういう事かな……」
*
「吸血鬼化した死体の血からヴリコラカスが検出されなかった……か」
bar・アントレ。渋谷の裏路地にひっそりと佇む、誰も知らない隠れ家。
その入り口から一番遠いテーブルに座っているのは二人の男と一人の女。
「新島に血をほぼ吸われ尽くしていた佐倉の方は、まだ納得できるんだけどね」
目の前の水を一啜り、私は説明を一旦区切った。
「検査結果が間違ってるとかそういう事は無いの?」
「無いみたいだね。はづきが言ってるんだ、信用できる」
「だが、聖ストゥルヌス高校の二人は間違いなく吸血鬼だったんだろ? となるとどういう事なんだ」
「それが分からないから妍治と片桐を呼んだんだよ。君達の方で何か思い当たる事は無い?」
私の問いかけには、二人ともが顔を横に振った。片桐はともかく、妍治が何も分からないとなると、この問題はそう簡単に解決しなさそうだ。
「そ。じゃあ如月の方の成果はどう?」
「こっちも収穫は無しだ」
片桐がお冷の氷を噛み砕きながら答える。
なんだ、渋谷を牛耳る情報屋とドルルーサの一員が居て、と言おうとしたが。
「ただ……」
妍治が続けた。
「ただ?」
「俺達は単眼娘に遭遇した。それも如月を追っている時にな」
「単眼娘だって?」
妍治達から単眼娘に出会った時の経緯を聞いた。
今回の被害は片桐だったようだが、驚いたのは妍治がその姿を見て無事だった事だ。
「つまり都市伝説の通りその眼をみなければ記憶が消されることも無いと」
「あくまで推測、仮説だ。俺は奴が片桐にどうこうした瞬間を見たわけじゃないし、姿も足と後姿しか分からねえ。ただ問題なのは――」
「如月を探している時に単眼娘に出会った、ってことだね」
岸辺君の時、私の時、そして今回。共通するのは如月に関わっている、という事。
果たして偶然なのだろうか? そうでなければ――。
「じゃあなんだ、俺は今回、如月の気配を察してそこに向かったが、単眼娘に待ち伏せされていたと?」
片桐が怪訝そうな顔で言う。
「真偽はともかく、形としてはそうなるね」
「だが納得いかねえ。吸血鬼はトンデモではあるが、化学の範疇で説明がつく、ある種人類の発展だ。しかし単眼娘はどうだよ? 眼を見ただけで記憶を消し去るなんて、もはや超能力や魔法のそれだぜ」
自分に不甲斐なさを感じているのか、それとも純粋に腹が立っているのか、いつも以上に喚く片桐。
「単眼ってのはあくまで都市伝説的についたあだ名みたいなもんだと思うが。それに、仮定だって言ったろ。俺はその決定的な瞬間は見てないんだから」
「まさか片桐、本当に単眼の人間が瞳だけでどうにかしてると思ってたの?」
私と妍治がタッグでツッコミを入れると、片桐は苦虫を嚙み潰したような、なんとも納得のいかない表情で押し黙ってしまった。
そう、今重要視すべき点は単眼娘のその手段ではなく、如月と結託しているかもしれない事。この事件を追うのに、一番の障害にもなり得るかもしれない事だ。
そしてヴリコラカスが検出されなかった新島と佐倉の血。
しばらくは解けそうもない問題が重なり、その場に重い沈黙が流れる。
何から考えたものかと、三人が三人とも考え込み始めた時だった。
カランコロンと雰囲気にそぐわない、喫茶店かの様なドアベルが鳴く。
私と妍治は反射的に入り口を見る。
「あ……。やっぱりここでしたか。こんにちは」
ビルの隙間か差し込む仄かな夕明りと共にやって来たのは――
「岸辺君、どうしてここに――」
「ちょっと気になる事があって……電話したんですけど、繋がらなかったので」
そう言われて携帯を見る。その真っ黒な画面は死んだ活魚の様に反応しない。あれ、おかしいな。
「休みなさいって言ったでしょ。体、大丈夫なの」
「ええ。昨日は丸一日休みでしたから」
彼は軽く白い歯を覗かせ、軽い調子で答えた。
そこから感じた純朴さと実直さに、私は納得できないながらも、渋々と浮かした腰を落とした。
「で? 気になる事ってなんだ」
妍治が空けた席に岸部君が座る。
片桐に話を促されると、岸辺君は今しがたマスターが持ってきた水で喉を潤し、「些細な事かもしれませんけど」と前置いた。
「新島達の死体が落ちてきた時の事です。その時は気にも留めなかったんですけど」
「一昨日の夜の事だね」
「ええ。あの時、まず新島が落ちてきて像に刺さったんです。佐倉の死体が落ちてきたのはそのしばらく後でした」
「そうだったんだね。その時の事は君と友達しか見てないから、知らなかったよ」
私はその話に続きがあるものだと思っていた。
しかし岸辺君の反応ははそうではなく、一仕事を終えた風に気を緩めていたのだ。
「ん? それがどうかしたのか――」
私は彼のその様子に些か疑問を抱き、話の続きを求めようとしたのだが。
「おい、ちょっと待てよ」
それを遮ったのは妍治だった。
「間違いなく新島が先なんだな?」
「ええ」
新島が先に落ちてきた? それが何か問題なのか?
その時分、私の脳細胞が目まぐるしく動き、そしてそこに確かな違和感を見出した。
「佐倉は新島に血を吸われて、そして死んだんですよね。でも先に落ちてきたのは、像に刺さってから死んだ新島の方なんです。血を吸われて死んだ人間がどうやって人を窓から突き落とすんでしょうか」
岸辺君は言いきり、四人の間に奇妙な緊張感が走る。
「つまりなんだ、お前が言いたいのは――」
「新島を突き落とし、佐倉の死体を窓から捨てた人間が居るってことか?」
「……人間ではないかもしれませんが」
言わんとすることがひしひしと伝わる。
いわれてみればそうだ。彼らが探していた人間が、そう都合よく死ぬだろうか? それも二人同時に。なぜ今まで疑問に思わなかったのだろう。
「待てよ、ただ佐倉の死体が引っかかっていただけってことは無いのか? それにそもそも、それが何だってんだよ? 仮に三人目の人間がそこにいたとして、何だってんだよ」
片桐がテーブルに足を挙げ、ふんぞり返りながらまくしたてて追及する。
「俺は新島が刺さった時に、落ちたであろう場所を見上げましたが、その時佐倉らしき影は見ていません。まあ、絶対にないとは言い切れませんが」
岸辺君が一つ目の質問に答えた。
彼はなんだかとても落ち着いている様に見える。その説明に、片桐はへぇ、と納得したようだった。
しかし二つ目のそれに対しては答えあぐねいているようだったので、私が勝手にバトンタッチすることにした。
「それに片桐。第三者がそこに居た可能性。これは極めて重要な事だよ」
と私が言うと、片桐は分かってんだよ、と言わんばかりにふてくされてみせた。
なるほど、結局彼は岸辺君に意地悪がしたいだけのようだ。
「そうか、ヴリコラカスか」
妍治は合点が言ったようだったが、岸辺君の頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
「岸辺君にはまだ伝えていなかったんだどね、実は佐倉紗季の血からも新島浩二の血からもヴリコラカスは検出されなかったんだよ」
「え? どういう事ですか」
「二人の死体は明らかに吸血鬼のそれだった。しかしヴリコラカスは見つからなかった。そしてその二人の死の直前に、接触した人間が居る可能性が今、浮上した」
ここから導き出される仮説――
「”X”だな」
「その第三者の介入が、彼等の血に何かしらの影響を与えた。そのせいでヴリコラカスが検出されなかった。辻褄が合わない訳じゃないね」
私がそう言い終えると、そこにいる四人が四人とも口を噤んでしまった。
私自身、この仮説を説明しながら、この仮定が今後とても危険な橋をこの少年、岸辺雪に渡らせる事になるのではと、確かに予感していた。
岸辺君がそれを察していたかどうかは分かりかねるが、当然後の二人は理解している。
「なぁぁぁぁるほどねぇ」
そしてこういう時、まず初めに口を開いてしまうのが片桐遊子だ。彼はそういう人間なのだ。
「もしそうだとしてよお。岬ちゃんはその”X”、どうやって追うつもりなんだ?」
「それは……」
本当に片桐は嫌な奴だ。私達が、岸辺君を丁重に扱いたいと理解した上で、こう問いかけてきている。
「待ってください。その第三者って一昨日、新島たちが死んだ時にあの学校に居た人間ってことになりますよね?」
言葉を詰まらせた私を前に、岸辺君がここぞとばかりに意気揚々と尋ねてくる。
「う、うん。そうだね」
まずいと思いつつも、返答する。
「それなら俺がもう一度その”X”について調べてみますよ。任せてください!」
やっぱり……。岸辺君ならそういうと思っていた。
「だめだ」
妍治が即答する。
そう、それはだめなのだ。
「いいか岸辺。よく考えてみろ。その第三者が居たとしてだ、そいつはまず間違いなくただの人間じゃあない」
妍治の後に私もすかさず続ける。
「少なくとも、吸血鬼化した人間を突き落とすだけの力は持っている。あれを突き飛ばすのがどれだけ大変か、君は身を以って体験しているだろう?」
「でも吸血鬼なら、昼間であれば大丈夫なんじゃないんですか?」
「まあ聞け。それに加えてだ、その第三者はなぜ佐倉と新島を殺したのか、考えてみろよ」
妍治にそう言われ、岸辺君は顎に指を付けて分かりやすく考え始めた。
しかし数秒後、やはり彼は分かりやすく首を横に振り、「分かりません」と答えた。
「答えは、お前が佐倉と新島を探っていたから、じゃないか? 少なくともそう考えるには十分な状況だ」
それを聞いて岸辺君はハッと顔を上げた。
「口封じって事ですか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。思惑が何であれ、お前の行動を知り、先に行動が出来た可能性がある人間なんだ。そんな奴を探ってみろ、次消されるのはお前だぞ」
妍治がかなりの脅し口調で威圧をかけている。彼を止めるため当然と言えば当然だが。
「でもよ、そんな人間なんてかなり限られてんじゃねえの? お前がスマイルについて探ってた事を知ってる奴なんて、たかが知れてるだろ」
「……それは結構いると思います。かなりの人に聞きまわってたので」
それを聞いて片桐はより一層楽しそうに笑い、「へぇ~」と相槌を打った。
「なら岬ちゃん、どうすんのさ? これはピンチだが、チャンスだぜ。それとも岬ちゃんが教師として潜入でもするか? きっとこまくて人気出るぜ」
ああ、腹が立つ。これだからこいつは嫌いなんだ。
満面の笑みを浮かべからかう片桐を無視し、しかし私はそれを論破できるだけの妙案を持ち合わせては居なかった。
困った末に妍治にちらりと目をやると、腕を組んで難しそうな顔で固まっている。どうやら私と同じようだ。
「え、霧峰さん、マジですか……?」
ドルルーサが置物になってしまった事を受け、岸辺君がまさか本気じゃあるまいな、とでも言いたげな言勢で尋ねる。
「……」
「……」
私達は不覚にも何も答えられなかった。
そして、人に嫌がらせをさせたら天下一の男、片桐遊子がその沈黙を見逃すはずもなく。
「だってよ岸辺君! よかったな」
岸部君の学校に潜り込む。食談君に無理を言えば何とかなるだろうし、この間岸辺君の友人らに目撃された事への理由付けにもなる。ただ……。
「岬が学校に潜入する、か。俺達とすりゃあ、できるだけ顔は覚えられたくないんだがな」
「君達は否定が好きだなあ。そんなんじゃ友達いなくなっちまうぜ?」
煽る煽る。片桐が煽る。
「いい加減にしてよ片桐。私達がどういう人間か、忘れたわけじゃないでしょ」
「どういう人間、か。ま、いいや。それなら後は君達で考えなよ。俺は如月探しに行くからさ」
そう言って片桐は席を立ち、いつものように手を振りながら、店を出て行った。
いらだちが募る。自分に対してだ。
今回の一連の流れを見ても、もはやスマイルと吸血鬼に関連性が無いとは逆立ちしても言えない。これ以上岸辺君を学校で一人にするのも危ない橋が過ぎる。となると、だ。
私と妍治は口を開けなくなり、仕方なくここで解散とすることにした。
「じゃあね。岸辺君」
私は彼を自宅へ送り届け、挨拶を交わした。
「ほんとに学校来るんですか?」
彼は半分は嬉しそうに、もう半分は不安そうに再度尋ねた。
「さあ。他にいい案が浮かばなければ、そうなるかもね」
片桐のいいように動くのは癪だが、とは口に出さなかった。
「それより、お願いだよ。私達が動くまでは、危険な事をしないと約束して。時が来たら君にもちゃんと手伝ってもらうから」
私が想念を押すと、彼は真摯に「はい」と力強く答えた。多少不安ではあるが、この様子なら多分、大丈夫だろう。
……そもそも、彼を学校に通わせるのも、この自宅で寝かせるのも、不安で仕方ないのだが。