好奇心、記憶を殺す
多分、俺が真っ先に連絡すべきは救急、次いで警察……。
だが、俺が震える手で連絡したのはドルルーサの一員、霧峰岬だった。
何故か?
もちろん俺が当たり前に動揺していたからってのもあるだろう。だけど、もっとも大きな要因は――
あの佐倉紗季だったものが手にしていた、それだった。
「岸辺君、君の判断は最適だったよ。救急なんかに重要な証拠を荒らされちゃあ困るからね」
救急より、警察より、中原が呼びに行った教師より早く現場に来た霧峰さんが言う。
白い手袋をはめ、像の手元まで深々と刺さった死体を、傍らに横たわる死体を調べている。
「霧峰さん……」
「うん、これは吸血鬼による吸血鬼殺しだ。この女子生徒の死体は渋谷の闇の中で見つかるそれとよく似ている」
「これ、その人が握っていたんです」
俺は霧峰さんに、佐倉が大事そうに握っていた、ポリ袋に入った錠剤を渡す。
「これって……もしかして?」
霧峰さんは錠剤をまじまじと見つめながら、何かを確信したようだった。
「ええ、この人――佐倉紗季はスマイルを使っているという噂がありました。その……そこの新島浩二も」
乾くことの無い血が今も滴り落ち続けている。凄惨な現場を改めて見直すには些か勇気が足りない。
「ふぅん、君は彼等について調べていたんだね」
「ええ、俺達は――」
俺が、いや門出と中原が二人の噂を集めていた事を説明しようとしたとき、ポケットに入れていた携帯が震えた。
俺は霧峰さんにすみません、と一言、電話に出た。
「もしもし?」
『あ、岸辺? 校舎のどこにもいないんだけど! そっち見つかった?』
電話の相手は門出だった。まだ校舎内にいるようだ。
そして、彼女が二人を見つけられていないのも当然だ。なにしろ二人は俺の目の前に居るのだから。
『で、岸辺たち今どこに居るの?』
「中庭だけど――」
『分かった!』
俺が来ない方が良い、と言う前に電話は切れてしまった。勝手な女だ、門出。もっとも、彼女の性格なら来るなと言おうが来てしまいそうだが。
携帯を戻すと、霧峰さんは俺に興味を無くしたかのように死体の方へと体を移していた。
「すみません、友達が来ちゃいます」
それを聞くと霧峰さんは明り眩い校舎を見上げた。こんな事が起こっているとは露知らず、楽しそうな生徒たちの声が聞こえてくる。
「今は暗くて気付いている生徒も居ないようだね。だけど時間の問題かな。吸血鬼事件は人目に触れる事になりそうだ」
「吸血鬼事件……」
「言ったよね、これはは吸血鬼同士の殺人、そして事故だろう。恐らくこの少年が彼女の血を吸い殺し、誤って転落したんじゃないかな」
霧峰さんが死体を指差しながら推測する。
「やっぱりスマイルと吸血鬼には関係が? でも、この俺以外の学校の生徒からはヴリコラカスは検出されなかったんじゃ……」
「そうなんだよね……。でもここまであからさまとなると――」
俺の言葉を半ば聞き流し、霧峰さんはブツブツと何か考えるように呟き始めてしまった。
「……っと」
しかし、彼女のシンキングタイムは、小走りな足音と共に近づいてくる一本の光によって遮られた。
「おーい雪! 連れてきた! 校長先生、こっちです!」
声の主は中原だった。その後ろには、まるまると太った卵のような男が懐中電灯を手に持ち息を荒げている。我が聖ストゥルヌス高校の長、食談校長だ
「ひっ、こ、これは」
校長先生は二人の死体を見て引きつった声をあげた。
「え……。お、おい雪。そのしわくちゃなそれ、何だよ……?」
ああそうか、中原は佐倉が落ちてきたことを知らないのか。
俺は校長先生と中原に経緯を説明した。
「あ、ああ。分かった……。佐倉まで……。で、その人は誰だ?」
目の前にある死体のショックからか、ここで二人はようやく、俺の横に佇む正体不明の女性に気が付いたようだ。
「あなたは霧峰さん!? どうしてここに――」
校長先生は彼女を認識するやいなや慌てて近付き、懐中電灯を霧峰さんの顔に向けた。
「やあ」
いつもの間の抜けた挨拶を返し、霧峰さんは眩しいと言わんばかりに懐中電灯を押しのけた。
「あ、これは失礼。それにしてもあなたがこんな所に居るという事は――」
「うん、彼等の死は私達が追う。これはこちら側の事件だ。幸いにも他の生徒達はまだ気付いていないようだから、食談君には急いで隠匿のために動いてもらうよ」
霧峰さんとうちの校長は面識があるのか? それに、校長の口ぶりからすると霧峰さんの方が立場が上のようだが。
そんなことを考えながら霧峰さんと校長が話しているのを聞いていると、
「なあ雪、あの人誰なんだ? 学校の関係者なのか?」
中原が肘でつつきながら聞いてきた。
目線の先には校長と馴れ馴れしく会話する女性、中原は分かりやすく懐疑の目を向けている。中原には会話の内容は聞こえていないようだったが、それにしても不思議な光景だろう。
さて、どうしたものか。スマイルのことならまだしも、ドルルーサの事まで説明するわけにはいかない。
吸血鬼事件にまで関わらせるられないし、たとえ真実を伝えたところで毛頭信じないはずだ。
どうやってこの場を誤魔化すかに、無い脳みそを捻り捻っていると、今度は校舎の入り口側から「おーい岸辺ー!」と俺を呼ぶ声が聞こえた。
振り返らずとも分かる、周りにお花畑のエフェクトがかかりそうな気の抜けた声。門出だ。
門出に話を振って何とか誤魔化せそうだ、なんて思考のせいか、一瞬判断が遅れる。
二人の死体を門出に見せる訳にはいかない! 霧峰さんは隠匿しようとしているのだから――。まだ辛うじて吸血鬼事件は人目に付いていないのだから――。
「門出見るな――」
「え……あ……きゃあああああああああああああ!!」
しまった……。門出の当たり前の悲鳴が閑静な中庭に響く。俺は無意識に霧峰さんを見た。彼女は口に手を当て、大きな溜息をついている様に見えた。
門手の悲鳴に呼応するように、校舎が騒めきだす。いくつかの窓が開き、生徒達が声の出所を探して中庭を覗いている。当然、像に刺さっている無残な”それ”に気が付く生徒もいる。騒めきは連鎖し、大きくなる。
「き、霧峰さん……」
校長は狼狽え、霧峰さんの発言を伺う。
そんな校長の様子、怯える門出、状況が飲み込めていない中原、そしてまずい事になったと立ち尽くす俺を見て、霧峰さんはやはり大きな大きなため息を吐いた。
*
校舎の中の生徒が死体を見つけてからは、もうパニックとしか表しようのない有様だった。
次から次へと野次馬が駆け付け、それでも何とか佐倉の死体だけは隠せたのは、霧峰さんの迅速かつ的確な指示と校長という立場あってのものだろう。
現場には「お前ら! 教室に戻れ!」という教師の声で興奮した生徒達の数は徐々に減っていったはものの、スマホを片手に見学する者も未だ多い。
「ったく……。人が死んでんのに何考えてるんだあいつら。……門出、大丈夫か?」
中原は野次馬に苦言を呈しながら、門出の背中を擦っている。今しがた死体を見た門出と違い、中原と俺はもう随分と落ち着いていた。
「君達、大丈夫かな。特にそこの女の子、保健室に行くといい。中原君、そのまま彼女を介抱してやってくれないか」
俺達三人の元に霧峰さんが近づき、中原に対して指示した。何故名前を知っているのかと一瞬疑問にも思ったが、そういえばドルルーサは俺の交友関係を把握しているんだった。
中原はその事に違和感を抱いた様子もなく、「は、はい」と返事をし、そのまま門出と共に校舎へ入っていった。
「さて……。佐倉さんの方は食談が何とかしてくれているようだけど、しかしやってくれたね君の友達は。あれが山崎門出だろう?」
霧峰さんの口調からは静かな苛立ちのようなものを確かに感じた。
「すみません。門出が来ないようにしっかりと止めるべきでした」
「仕方ないけどね。この新島浩二の遺体が人目に付いちゃったから、佐倉さんのほうも隠し通せはしないだろうと思う。私は出来るだけ急いで彼女の遺体を調べてもらうよ」
「お、俺はどうすれば」
そう聞くと霧峰さんはそっと俺に近付き、俺の胸に拳を当てた。
「君はしばらく休んだ方が良いよ。目の前で人間が死んだんだ、相当疲れただろう」
「い、いえ。それに俺はまだ何も――」
成し遂げていない、と言いたかったが、霧峰さんはそれを見越したかのように俺の言葉を遮った。
「そんなことないさ。スマイルと吸血鬼の関係、検査をパスした彼等が吸血鬼だった事、とても有益だよ。それに君の心はダメージを受けている。自分で気付かなくてもね。しっかりと休養をとるべきだ」
褒められ諭され、微妙な心境だったが納得は出来た。言われてみれば妙に体がだるい。それは二人を探して歩き回ったからだけでは無さそうだ。
「じゃ、また何かあれば連絡するよ」
そう言い残し、霧峰さんは校舎の影へと溶けるように消えていった。
昼には人気店が立ち並び、燦燦としていたであろう渋谷の町も、今となっては静寂そのもの、ましてや裏路地などには猫すら立ち寄らない。
時計の針は丑三つ時、駅周辺からは微かに、未だ眠らぬ人々の囃子が届けられる。
その中に向かい合う男が二人。
一人は日本人男性の平均を遥かに超えた身長を持ち、髪色を金色に染めた、タンクトップの大男。
一人は猫背、長髪、季節感のない黒いロングコートにブーツと、少し目を離せば路地裏の闇に溶け込んでしまいそうない出で立ち。
「亜里堅く~ん。君には期待してたんだがなぁ?」
「うるっせえな。如月に関してろくな情報を持ってこれなかったのは面目ねえよ。でもそれはお前だって同じだろ」
片桐は何かと嫌味っぽい奴だ。俺が言い返すと何が面白いのやらへらへらと笑って誤魔化していた。
中途半端な沈黙が数秒流れ、「あ、それで本題だけどさ」と、片桐が切込み話を始めた。
「やっぱりスマイルと吸血鬼は何かしら関係があるってのが濃厚みたいだね」
「ああ。ついさっき岸辺の高校でスマイルの使用者と思わしき生徒が、血を吸われて死ぬ事件があったらしいな。偶然とは思えん」
「吸血鬼に関して僕は君達以上の情報は持ちえないからなあ。クスリの移動ルート上で抑えるかあ」
ポリバケツに腰掛け、片桐は子供の様に足をバタつかせる。
「何にせよ如月をとっ捕まえるのが早そうだな」
「そだねー…………」
「どうした?」
俺の言葉に対して、何か喉に骨が刺さったような反応を返す片桐。
直前までの軽い雰囲気から、打って変わって真剣な表情をみせている。
「いやね、如月を捕まえればそれでいいのかなーって。いや僕はいいんだけどさ」
「ん? どういう事――」
そう聞き返そうとした時分、片桐は突如立ち上がり、飲食店が織り成す町の影の方へと体を向けた。
「何だ」
「亜里堅、何か感じないか」
緊張感のある声で片桐が問いかける。
何か、と言われても別段何も感じない。しいて言えばさっきから少し肌寒いような気がする。
そんな冗談を返すと、片桐は「行くぞ」とだけ言い、走り出した。
なんだよと思いいつつ、お互いに一人になるのも得をしないので、仕方がなくついていく事にした。
走る、走る、どんどん駅から離れていく。
(相変わらず足だけは速いな……どこ行った?)
たった数秒後に走り出すのが遅かっただけなのに、片桐の姿は見えなくなってしまった。
こっちだろう、と野生の勘を頼りに走り、そして曲がる。俺と片桐と岬は、どうしてだか離れていてもそれとなく居場所がわかる。明確にどこにいるとまではわからないが、何となくわかるのだ。それは時として厄介で、今回のような場合においては便利なのだ。
曲がった先のやはり閑静な道路の街灯の下に、果たして片桐が居た。
しかし、俺と片桐の間にもう一人。居る。
背後しか分からないが、片桐と見つめ合っている、おそらく女性。ショートボブ程度の髪が街灯に黒く照らされている。
彼女越しに見える片桐は口を開け、自身忘失といった雰囲気だ。俺は片桐の様子が明らかに異常であることを察した。
「お、おい片桐――」
俺が声を発したとき、初めて女は俺の存在に気が付いたのだろうか、ゆっくりと振り返る。
彼女と、目と目が合う――
寸前、俺は目を背けた。何故そうしたかは自分でも分からない。体が、本能が無意識にそうさせたのだ。
ペタ、ペタ、と女の歩く音がする。近づいている。
女の足元が視界に入る。赤と青のラインの入ったスニーカーだ。
俺は決して視線を上げないように、距離を取って臨戦態勢に入った。こちとら視界を制限した戦闘の訓練も積んでるんだ、来るなら来い、とう心構えだ。
ところが思いもよらず、俺の反応を見てか、女は歩くのを止めた。
そして俺の耳に、少女のような声が届く。
「お兄さん、私の事知っているの?」
「し、知らねえ。お、お前そこの男に何かしたのか!? おい、片桐返事しやがれ! 無事なんだろうな!?」
女の返事も適当に、俺は大声で片桐に問いかける。返事はない。
声を荒げたのは女に対する威嚇のつもりでもあったが、思ったよりも効果があったようだ。
女は「ひっ」と情けない声を出し、パタパタと逃げて行ってしまった(足音だけでの判断だが)。
数秒後、女がその場に居ない事を確認した後、俺は顔を上げ片桐に近付いた。女を追いかけるべきかもと思ったが、得体の知れない上に、片桐の事もあるのでやめておいた。
片桐はまさに心ここにあらず、俺の接近にも気付いていない様子だった。
「しっかりしろ。どうしたんだ」
肩を持ち、揺する。
すると片桐はハッと覚醒し、眠気を覚ます様に頭を振った。
「あ? 亜里堅? こんなところで何してんだ」
半目を俺に向け、とぼけた発言を繰り出す。
うすうす勘づいてはいた。一瞬の対峙ではあったが、最初に目を反らした時から恐らく理解していた。確証の材料が無かっただけだ。
片桐のこの雰囲気。あの時の岬によく似ている。
先程の女――単眼娘だ。