岸辺雪の邂逅
何でこんな事になったんだ。
例えば、ボールを追いかけて車道に飛び出した子供を助けて、トラックに轢かれる。例えば、通りすがりの無敵の人にメッタ刺しにされて息絶える。例えば、学校がテロリストに占拠されて、果敢に立ち向かったところ撃たれて死ぬ。
この世の中にはいくつもの理不尽な死が溢れ、その中には抗う事すら許されないものも多い。
しかし俺は今、その数多あるシチュエーションの中でも特に珍しい死に迫られているのだ。唯一恵まれている事といえば、俺がまだ“それ”に追いつかれていない事だけだろう。
ああ、俺は襲われている。俺は襲われて死にそうになっているのだ。“それ”が何であるかを説明するのは容易いことだ。そう、説明するだけなら何も難しい事はない。現状を説明するだけなら。ただし、それは決して(あくまで常識的な高校生が)理解し納得できるということではない、あからさまに荒唐無稽な現実だ。
俺は見た、確かに見た。
暗闇に妖しく光る紅い瞳、触れるだけで切り裂かれそうな長い爪、そして何より口元からのぞく鋭い牙。月光を反射しなまめかしく輝くそれらは、およそ害意の具現化とも言えるほどに殺意に満ち溢れている。しかしそれは同時に、バラの花の様に美しく、美術館に展示されていれば足を止めてしまう程度には魅力的でもある。凶器とはすべからく安全に眺めれば人を魅了すべきなのだ。しかし俺を殺さんとする狂気の持ち主は、見て分かるとおり安全とはおよそかけ離れた位置に存在する生物だ。
吸血鬼。
誰が見ても分かる。俺じゃなくたってわかる。こどももおとなも、おねーさんも。盲目の人だってきっと雰囲気で把握する。人の生き血を吸い、十字架とニンニクを嫌い、銀の杭を心臓に打ち込まなければ死なないあの吸血鬼。ああ、俺は今日ほど自分がニンニク農家のキリシタンでない事を呪った日はない。
紛うことなき吸血鬼。
そして俺は今、その吸血鬼に追われている。圧倒的な狩るもの狩られるものの構図が出来あがっている。これが仮にロリっ娘吸血鬼で「ぱないの!」なんて言っていたら一滴残らず献上しますけど、実際は髭の生えたおじさんフェイスが「血ぃ吸わせんかい」なんて言ってきているもんだから、それはもう当然逃げるよね。
渋谷の路地裏、細道から細道へとすり抜けるように走り抜ける。道を塞ぐポリバケツを蹴飛ばして、たまに後ろを振り返る。こういう場面でのポリバケツは往々にして蹴り飛ばされるものだ。ああ、憐れ。
追ってきている――。
奴は俺より格段に足が速いが、それでもまだ追いつかれていないのは、腸のようにねじり曲がった細やかな道を、右へ左へと曲がっているいるおかげだろう。
必死だ。捕まろうものなら俺はこの世からサヨナラしてしまうのは自明の理、火を見るより明らかというもの。これが必死にならずにはいられるだろうか。血を一滴残らず吸い尽くされ、はらわたを引きずり出され、悶えながら死ぬ自分の姿を想像するだけで身の毛がよだつ。
もうかれこれ三分程全力で走っている。正確にはもっと短い時間なのかもしれない。焦りと恐怖が体内時計を狂わせていたとしてもなんら不思議な事はない。俺の吐息は熱く、そして乾いている。
じっとりとした汗は皮膚をべたつかせ、軋んだ筋肉が悲鳴を上げている。普段からちゃんと運動しておけばよかったなんて、運動部に入らず、オカルト研究部なんてものを設立してしまった二か月前の自分を頭の中で責め立てる。
それにしても午後九時だというのに人っ子一人見かけない。いくら路地裏とはいえ、なぜ誰にも出会わないのだ。とにかく助けてほしい、誰か人を。
すがるように曲がった先。暗いからか、それとも疲労のせいか。眼前に聳え立つブロック壁に気が付いたのは「それ」の気配を背後に感じたのとほぼ同時だった。俺は絶望した。なんでこんな所に塀があるんだ。袋小路を作って何の意味があるんだ。と、俺が顔も知らない区長の顔に恨みをぶつけた時だった。背中を羊に舐められたような悪寒が走った。俺は顔を伝う汗が弾けるほどの焦燥にまみれて振り返る。
月夜を背後に、溶けてしまいそうなほどどろどろに紅い二つの目が浮かんでいる。
皺の入ったスーツを身に纏い、もう逃げられないな、と言わんばかりにゆっくりと、そして確実に俺との距離を縮める。事実俺はもう逃げられない。俺の背中に、無機質な壁のひんやりとした体温が伝わってくる。俺は孤独を噛み締めるほかない。
ああ、終わった。十六年の人生、ここで終わりだ。
俺が最後に思い出すのは、地元にいる家族の事でも十年来の親友の事でも無く、こんなことならあの女の言う事をちゃんと聞いておけばよかったなんて、そんな些末な事だった。
*
「あったあった、ダルジィーのラバスト」
俺はラックにぶら下がった可愛らしいラバー・ストラップを取った。残り一つ、滑り込みだ。俺は自分が中々に幸運な人間であるように思う。今朝は卵から二つの黄身が出て来たし、通学途中に五百円玉も拾った。このラバー・ストラップだってそうだ。何人もの若者がこれを求めているなかで、俺は最後の一つを手にしたのだ。
「ダルジィー」は結成僅か二年で武道館でライブを行い、階段を下る某音楽番組に出演した際には押し寄せるファンのせいでスタジオがパニックにる伝説を残した、今を輝く超人気バンドだ。男二人女二人で構成されていて、ダークな雰囲気で世の中の不条理をうたった曲が飛ぶようにヒットしている。
そんなダルジィーがラバー・ストラップになったというので、ミーハーな俺は早速下校中に買う事にしたのだ。
しかし流石は超人気というだけあってどこの店に行っても品切れ中、やっと見つけたのは八店目のヴィレヴ●ンだった。若者のヴァイブルともいえるヴィレ●ンはすごい。尊敬してます。
「おっ、もうこんな時間か」
ウキウキで店から出ながらスマホの画面に目を落とすと、時刻は午後八時を過ぎたところだった。随分と長い間店を回っていたものだ。俺は自分自身の熱意に感心する。いや、俺はそこまでダルジィーにお熱というわけでもないが、一度手にしたいと思ったものは見つかるまで探してしまう性なのだ。生まれついての性なのだ。
まあ携帯、もとい下を向いていた俺が全面的に悪い。店から出た途端、道を歩くサラリーマンの肩に俺の頭が見事にぶつかった。軽い衝撃が体に走る。手は携帯を離し、画面から地面に落ちる。割れてないだろうな、と少し不安になる。どうして携帯ってのは液晶側が下になるんだ? そう設計されているのか? だとしたらなんて意地悪な設計者なんだ。
「すみません」何はともあれ俺はぶつかった人に謝る。
落とした携帯を素早く拾いながら、俺は内心少し不安になっていた。
渋谷という土地において、人にぶつかる事のはトテモコワイ事であると友人に訊いていたからだ。どんな因縁を付けられ何をせびられようと、弱者に抗う権利などないのだと。実際、古事記にもそう書かれていた。それに加え、今非率(非の比率)は俺一〇〇%なのだから、臓器の一つくらいは覚悟しておいた方がいいのかもしれない。
俺は冷静を装いながら顔を上げる。しかし当のぶつかられた血色のいいサラリーマンはというと、怒るでもなく謝るでもなく、ただ俺を見つめている。不気味な目だった。表面上、少なくとも目に見える範囲において、男の二つの眼はいたって健康そうだ。白内障の気は無さそうだし、充血もしていない。しかし、彼の品定めをするかのような視線は、全身をナメクジが這っているような気持ちの悪さを俺に与えた。結局ぶつかってから一言も口を開かなかった男の反応は気になったが、難癖付けられるのも嫌なのでそそくさとその場を離れた。この時俺は、大都会東京にはああいう人も一人くらいいるんだろうと、さして大きな出来事だとは思わなかった。
もう帰ろう。
俺の家は渋谷から歩いて三十分の所にある。今日の晩飯何にしようか。昨日は焼飯、一昨日は焼き魚にしたから……。そんな事を頭に巡らせていた俺だから、スクランブル交差点の信号が変わった事にも気が付いていなかった。おっと。
有象無象に押され、慌てて一歩踏み出した時分。
俺の肩に手が置かれる。
「君、岸辺雪君だよね」
予想だにしないアクションに対し、俺が事実を確かめるべく振り向くとそこには、俺より一回り背の低い女と、対して阿●寛くらいある高身長の男が立っていた。女の方は大きな猫目で俺をじっと見つめている。吸い込まれそうなほどに黒い眼に、俺は自分が睨まれたカエルになったかのように錯覚する。男も女も、俺とそう年齢が離れているようには見えなかった。特に女は俺と同い年、いや年下にさえ思える。しかし彼らの内部から醸し出されるもったりとした重い空気は、彼らが明らかに 俺よりも年齢を重ねた人間であることを示していると同時に、ただものではない――対して鋭くない俺の感覚にそう囁かせた。眼の前の男女の見た目と雰囲気のギャップに、少しばかりめまいがした。そして、人はどうして俺の事をこんなにも見つめるのかと、少し不思議に思った。
そうして流れ流れる群衆の中、俺はその二人、霧峰岬と亜里堅妍治に出会ったのだ。