密室はグラウンドの向こう側に
1、
高2の冬休みを目前にした、12月初めの夕方のことだった。期末考査を終えた僕たちは、高校の5階にある自習室にいた。
目の前にあるのは、情報処理部から借り出した人数分のノートパソコンとプリンター。これに、僕たちの……いや、僕の冬休みがかかっていた。
「ねえ勝昭、そっちできた?」
背筋をまっすぐ伸ばして上から目線でキーボードを超高速操作しながら、人を呼び捨てにするのは、奏野弓だ。
「遠田君、って呼んでくれるかな?」
そう言う僕も及ばずながら、ディスプレイの文字と見比べながらキーを叩く。たちまち悪態が返ってきた
「機材の提供者にそういう口を利くかな」
「こっそり持ち込んだんだろ、情報処理部から」
「部長だからな」
サークル内の力関係を利用した眼鏡女は、クラスの女子の中でも裏のボスだ。何か言いだしたら男女ともに逆らえる者はほとんどいない。
「そういうのを職権乱用っていうんだよな」
「口動かす前に手動かせ」
奏野の出るとこ出た身体が一瞬、緊張した。僕は身体をすくめる。
そのすらっとした手足でビンタや蹴りを食らったら、さぞかし痛いだろう。もっとも、本当にそんなことをするわけがないから、僕も温い言い訳ができるのだが。
「それが間に合わないんだよ」
「ウソつけ、目がパソコン見てない」
ディスプレイを見ながら何でそんなことが言えるのかよく分からないが、それは事実だった。
僕が見ている窓の外のグラウンドは、ガランとしていた。いつもは体育系の男子が何かと使っているトイレは詰まりでもしたんだろうか、古い掃除ロッカーでバリケードされている。
もっとも、誰も困る者はない。生徒が午前中に帰ってしまっている上に、教師が一斉に成績処理にかかる関係で部活が休みだからだ。
僕はディスプレイに目を戻す。
「もうちょっと……」
あと1時間で、化学の実験レポートを完成して提出しなければならない。僕たちのではなく、どう頑張っても力が及ばなかった仲間の分を。
「遅えよ」
授業で奏野と同じ実験グループになったときはウゲッて思った。
それでも、なかなかいいヤツだった。女の子としてどうこうってわけじゃないけど、この年末まで、実験の準備や片付け、期末考査最終日が締切のレポートが期日通りに完成できたのは、彼女のおかげだ。
2、
その隣で、黙々とキーボードを叩いているのは背の高い割に座高はそれほど高くない、切れ長の目をした優男の多賀久平だ。必要なことしか言わないし、やらないが、仕事は早い。作業の場所を自習室と決めて、職員室からカギを借りてきたのも多賀だ。
今でも、キーボードを叩きながら問題の核心を突いてくる。
「締切過ぎたら評定が1になる」
そうなると、長期休暇の間は部活やアルバイトが禁止される。僕たちはここにいない仲間がそうならないよう、こうやってレポートの代返という危ない橋を渡っている。
その名は、井原佐紀。
小柄で、実験中でも時々いるのかいないのか分からなくなるくらい物静かな女子だ。
でも、僕はそんなとき、いつも井原の姿を探す。すると、てきぱきとメモを取ったり、ビーカーや試験管の変化を絵で描いたり、試薬の壜を開け閉めしたりしている姿が目に入る。
たまに目が合うと、ふんわりと明るい光のなかでにっこりと柔らかく微笑むのだった。
それを思い出すと、つい独り言がこぼれる。
「できなくなるな、部活」
井原はクラスではあまり目立たたないけど、化学部では部長として、地道に実験や研究発表をやっている。それらができなくなるのはかなり辛いはずだ。
多賀はシニカルに答えた。
「といっても、ずっと休んでるけどな」
「ひと月ぐらいかな」
もっと長い時間だった気がするけど、多賀は僕を見もせず、一言で客観的な時間経過を告げてくれた。
「11月の後半から」
「いやらしいよな、女子の集団的いやがらせって」
その原因に毒づいたところで、奏野に横目で睨まれた。多賀がわざとらしくフォローする。
「ああ、お前は別な」
その言葉を受けて、僕は話を軌道修正した。
「あいつらどこやったんだよ、井原さんの実験ノート」
多賀は淡々と答えた。
「しょうがないだろ。証拠がないんだ」
「井原が学校に来らんなくなったの、そのせいなのに」
幸い、走り書き程度の下書きは手元にあった。
それを一昨日、自宅を訪ねて預かってきた奏野が、男子2名の割と深刻な対話を遮った。
「危ない橋渡ってんだ、働け!」
自習室にこもった俺たちは、その下書きをもとに、レポートを本人のものであるかのように偽装しているのだ。僕は急に心配になった。
「自筆でないとまずいんじゃないか?」
俺の素朴な疑問に多賀は、さらっと答えた。
「ワープロ打ちでもいいんだってさ」
情報処理部の奏野はもちろん、多賀も生徒に温いこの規程を大いに利用したことだろう。だが、これを悪用したのがバレたら、井原を含む僕たち全員が評定「1」となり、冬休み一杯は謹慎処分だ。
井原は確かに苦しい立場にあるけど、実験グループが同じというだけで、僕たちがなぜそんな危険を冒さなければならないのか。
それには、理由がある。
3、
「あ……」
大きなトラブルに気付いて、僕の手が止まった。奏野が目ざとく見つけて叱咤を飛ばす。
「勝昭、口より手!」
ウルフカットの髪の女子にどれだけ鋭い目で睨みつけられても、これだけは無理だ。無い袖は振れない。
「文がつながらない」
「佐紀の下書き、昨日みんなで分けたろ! 何で!」
奏野の怒りに、多賀が淡々と応じた。
「風間の分だ」
「またあいつかよ!」
風間邦衛。
僕が叫んだのには、多分に私情も込められている。
図体がデカい割にいつもボーっとしていて、実験でもやることなすことがいちいちノロい、というか何もしない。それでもなぜか時間通りには教科書通りの結果が出るのは、井原のおかげだ。
僕はといえば、実験の足を引っ張るような風間のミスが実に器用にフォローされるのを眺めながら、「この試験管、急に爆発したりしないかな」なんて思ったりしたものだが……。
それはそれとして、タイムリミットが迫っている。
「久平、あと何分?」
「50分くらい」
微妙な時間だった。教師の巡回は1時間後で、そのときには情報処理部員が機材を回収にやってくる。化学の担当が戻ってくるのも1時間後だ。3人いれば、その全てに1人ずつの分担で対応できる。
風間が今すぐやって来れば充分な余裕はあるが、来なければ井原はおしまいだ。それに焦っているのは、僕ばかりではない。奏野の声も怒りに震えていた。ただし、持って行き場がないので僕に向けられる。
「ちゃんと連絡したのかよ」
「来るって言った」
昨日、帰りに校舎を出るところを人混みのなかで捕まえて、直に言った。こいつは、グループチャットはおろかメールもやらないからだ。
普通なら放っておいても差し支えないヤツだけど、この件ばっかりはそうは行かない。何の罪もない井原佐紀の冬休み……それから、僕の幸せがかかっている。
それを、なぜか多賀は知っていた。
「井原と一緒に郵便局のバイトするんだろ」
「何でそこで出てくるんだよ、その名前が」
僕と井原は、冬休みの年賀状配達アルバイトに応募している。郵便局に行く方向が同じだから、帰りも一緒になろうと思えばできる。僕はそのチャンスを捉えて、この冬に告白するつもりだった。
図星を突かれて慌てたところで、奏野が口を挟んでくる。
「みんな知ってるよ、お前が佐紀ちゃんのこと好きだって」
大人しいけど、頭はいいから、もしかすると僕みたいに温い生き方してるヤツのいうことは穴だらけで聞いてられないかも知れない。でも、玉砕しても後悔しないっていう覚悟はできていた。
多賀がキーボードを打ちながら、ぼそっと言った。
「協力してやるよ」
「……ありがとう」
奏野がにやっと笑った。
「上手く行ったら何かおごれ」
でも、このままでは僕の告白も、奏野と多賀の無銭飲食も、その機会がなくなる。
そもそも、提出物の代返がバレれば冬休み中の謹慎では済まない。だから、僕たちは時間を決めて情報処理部の機材を借りて、自習室にこもっているのだった。
「逃げたんじゃないのか」
多賀が冷ややかに言ったが、それならかえってチャンスだ。
実をいうと、井原は風間と妙に仲がいいのだ。風間のミスをフォローするときのさりげない仕草と笑顔は、たまらなく可愛かった。何で僕の実験のほうは調子よく行くんだろうと思ったくらいだ。
もっとも、井原のフォローを受けるために自分からミスをするようなバカをやるのは、プライドが許さなかった。これでもクラスの成績上位はキープしている。だから余計に面白くなかったし、風間もまんざらじゃなさそうなのにちょっと焦ってもいた。
4、
「ちょっと見てくる」
奏野が席を立って、自習室を出ていこうとしたが、そこで立ち止まった。
「どうした?」
パソコン画面を見ながら、多賀が短く尋ねる。引き戸のガラス窓の下に屈んだ奏野が、声を潜めた。
「新島だ」
新島真由。顔が可愛いだけで性格のねじ曲がった女子グループのボスだ。僕はほとんど条件反射で吐き捨てる。
「またいやがらせか、井原に!」
犯人はこいつらだ。そんなことはクラスの誰もが、いや、センセイ方だって知っている。
だが、こういうときはたいていの学校と似たようなもので、巧みな証拠隠しと言い訳で、生徒同士の話し合いはおろか、教師の威圧や指導もかわされてしまう。
奏野が顔をしかめた。
「あり得るな……人に知られてまずいことは独りで徹底的にやる女だ、あいつは」
その的確な分析を、独りで原稿を打ち続ける多賀が格言を引用してまとめた。
「謀は密なるを尊ぶ、ってね」
仲間を使うと、秘密が漏れる恐れがあるということだ。
それは分かる。今回の件でも、僕もできるだけのコンタクトはしてみたけど、男子と女子の壁は厚くて、全く相手にされなかった。正義感の強い奏野でさえも歯が立たないのだから、当然だ。
僕は部屋の中に、隠れる場所を探した。
「まずいな……中、見られたら」
多賀が一言で却下する。
「カギがかかってなくても、出られなければ密室だよ」
この部屋は廊下の突き当りにあるからだ。情報処理部のパソコンやプリンターを借り出しているのを職員室へご注進に及んだら、全ては終わる。声を潜めて奏野に尋ねた。
「こっち来る?」
無言で自習室を出ていく後ろ姿からは、返事がなかった。代わりに、多賀が答える。
「廊下の途中で迎え撃ってくれるさ」
それでも僕は気になって、窓から外を覗いてみた。かなり離れたところで、奏野の背中の向こうに新島の頭が見えた。
「戻れ」
多賀が低い声を立てる。僕も自分の席に戻って、パソコンを打った。
「大丈夫かな」
これには二重の意味がある。奏野が新島を抑えられるかどうかってこともあるが、そこで時間をロスすると、レポートを代筆する時間がなくなるからだ。
多賀は、前者についてだけ答えた。
「力関係はほぼ拮抗してるらしい」
それは、後者の答えがかなりネガティブなものであることを表していた。こういうところでも、多賀は無駄を省く。意外だったのは、女子の人間関係までよく見ていることだった。
「力って……」
男同士なら、最後にものをいうのは腕力だが、女子の場合は何なのか。そこらへんは僕にもよくわからない。
「奏野が睨みを利かせてるんだ。新島も証拠隠しが精一杯だろう」
女子というのは、何と無駄なことに労力を割くものか。奏野もいい面の皮だが、もとはといえば新原のせいだ。そう思うと、無性に腹が立ってきた。
「やらなきゃいいのに」
多賀がさらっと答える。
「スケープゴートさ、自分がやられないための」
そこも理解できなかった。新原は女子グループでもかなり気の強い方が、賑やかで人受けもいい。誰に何をされるというんだろうか。
「何でやられんの」
「ぱっと見がいいから」
多賀の即答ぶりに、僕もなんとなく合点が行った。女子ってのは、そんなことでも相互ランキングやったり、蹴落とし合いをやっているものらしい。
「井原も?」
僕の見ている限りでは、この新島との間には何の接触もない。でも、一方的にやっかまれることはあるかもしれないと思った。多賀も、短い言葉でそれを裏付けた。
「知らんのか、倍率高いぞ」
だったら風間もそうかと思ったけど、そこで気になることがあった。
「お前は?」
牽制する相手が増えるのはかなわない。だが、多賀は目だけこっちへぐるっと向けると、鼻で笑った。
「そういうの興味なし」
井原が心配ならさっさと原稿打て、と言ったみたいに聞こえて、僕は再びキーボードに向かった。
5、
そこで奏野が戻ってきたので、俺たちは男子トークをやめた。
多賀はディスプレイから目を離さずに尋ねる。
「どうだった?」
疲れ切ったようにどっかりとパソコンの前に座り込んだ奏野は一瞬で立ち直ると、ものすごいスピードでキーを叩きながら答えた。
「だいぶゴネたけど、行ったよ」
僕もパソコンに向かいながら聞いた。腹黒い新島が僕たちのどこに目をつけているのか、気になったのだ。
「何て?」
「何で入れないんだって」
心配した割には単純な答えだったが、その分、性質が悪かった。本当のことは、言うに言えない。
多賀も、そこは不安だったようだ。とはいえ、こっちを見もしないで尋ねる。
「どう答えた?」
奏野はちょっとだけ手を止めて、自分の返答を自信たっぷりに再現した。
「お前らが自習室、何に使ってるか知ってるぞ、って」
僕……というか多賀も多分知らない情報が入ってくる辺り、さすがは奏野だった。興味津々で聞いてみる。
「何に?」
「知らない」
投げやりな答えにはちょっと拍子抜けしたが、それはそれで舌を巻いた。たいしたハッタリである。奏野はというと、そのままキーを打たずに立ち上がって、窓の外を眺めた。
「よし、帰ってく」
新島は、もうやってこないということだろう。僕も腰を上げて、確かめに行った。
「どれ……」
遠目にスタイルだけ見ればいい感じのする、長い黒髪の女子生徒が、窓の下を歩いていく。それを見たらすぐ作業にかかるつもりだったが、多賀は僕を急かすように言った。
「風間は?」
下を歩いていないかという意味だ。じっと眺めてみたが、誰も通らなかった。僕は正直に答える。
「いない」
すると、さすがの多賀も苛立ちを抑えきれなかったのか、普段なら考えられないような荒々しい口調で吐き捨てた。
「何やってんだよ」
姿勢がディスプレイとキーボードと椅子に固定されているせいか、語気は余計に荒くなっていた。それには奏野もちょっと押されたのか、おずおずと遠慮がちに尋ねた。
「あと何分?」
「20分ぐらい」
即答できたのは、ディスプレイ上の時刻を眺めたからだろう。その後は、姿勢を低くして叩くキーのカタカタという音だけが自習室に響いた。奏野は、はっとしたように椅子に座りながら確かめた。
「どのくらいできた?」
多賀はキーを叩く音と同じくらいせわしなく、イライラと答える。
「あと、風間の分だけ……」
情報処理部長の作業速度が、咆哮と共に急上昇した。
「何やってんだあいつは!」
その非難の相手には、外を眺めたままの僕も含まれていたかもしれない。だが、さぼっていたわけじゃなかった。いつもは遠目で見ていたものが、すぐそこに、ちゃんとある。
6、
「あ……」
僕は思わず、窓に手をかけた。タイムリミット直前だけど、ここで飛び降れば間に合うと思ったのだ。
「何やってんだ遠田!」
椅子をひっくり返して立ち上がったのは奏野だった。後ろから羽交い絞めにしてくる。その腕が邪魔で、僕は半狂乱になってふりほどきにかかった。
「あったんだよ、井原のノート!」
直ぐ真下には、校舎際に建てられたプレハブの体育倉庫が見える。その屋根の上に、見覚えのあるクリアケースが落ちていた。青い透明のアクリルケース。ぼんやりとした冬の夕暮れの光を、チェックの模様が反射している。
その中には見覚えのある、性格の割に派手なトリコロールのノートが見えた。この窓から屋根の上に飛び降りれば、全てが解決する。
だが、奏野は僕を離さなかった。
「ここ何階だと思ってんだ!」
僕の口から、多賀みたいに抑揚のない言葉がこぼれる。
「建物の5階」
もっとも、多賀と比較してみると冷静さには著しく欠けていた。とにかく、井原のノートを回収して提出を間に合わせることしか考えられなかったのだ。他の選択は、僕のプライドが許さなかった。
何の取り柄もない、僕だけど。
だが、奏野はそんなことなど忘れたかのように僕を引き戻しにかかっていた。
「屋根壊したらどうすんの!」
そんな理屈はもう、僕には通用しなかった。頭の中にあったのは、宿題の提出と冬休みのアルバイト、そして井原への告白のことだけだった。
「離せ……」
窓のロックにかけた手を、奏野は力任せに引き剥がした。
「やめとけ死ぬぞ!」
それでも窓を開ける僕の手を強引に掴んだとき、振りほどこうと暴れた僕の肘が、何か柔らかいものに触れた。
「きゃ!」
突然上がった甲高い悲鳴に、僕は我に返った。振り向くと、奏野が意外にある胸を抱えて僕を睨んでいる。
「あ……ごめん」
多賀がキーを叩きながら、ぼそっとつぶやいた。
「見なかったことにしてやるよ、今のセクハラ」
「いや、今のは……」
うろたえる俺など放っておいて、奏野がキレた。
「見てたんなら止めろ多賀!」
僕の危険のことを言っているのか、自分の恥ずかしさを言っているのか、それはよく分からないままで終わった。奏野が、窓際に駆け寄ったからだ。
「新島……」
それを聞いて、僕も窓の下を確かめた。体育倉庫の辺りをうろうろしては、屋根を見上げている。腹の底から唸り声がこみ上げてくる。
「そこまでやるか……」
原稿を打ち続けている多賀が、僕たちを制した。
「やめろ」
だが、僕の怒りは治まらなかった。つい、窓から身を乗り出して叫びそうになる。
「新島お前……!」
「静かに!」
そう低く鋭く囁いて、文字通り頭から押さえ込んだのは奏野だった。さっき触ってしまった胸が首筋辺りに当たるのも構わず、僕と一緒に窓の下にしゃがみこむ。
多賀が作業を続けながらつぶやいた。
「気づかれたな」
溜息をつく奏野に解放された僕は、墓穴を掘ったのを自覚した。
この自習室から体育倉庫の屋根にクリアケースを落としたのは新島だ。奏野の脅しはハッタリだったけど、新島にとっては充分な告発となったわけだ。自分で回収にきたが、屋根のどこらへんに落としたかは、下からでは見当がつかない。
さらにキーを叩くスピードを上げた多賀は、淡々と続ける。
「新島に打てる手が、俺たちには打てない」
その通りだった。ここで僕に気付かなければ、ケースの回収をもう少し遅らせていたかもしれない。だが、僕に見つかったことで、新島はさっさと証拠を隠滅するだろう。井原のなくしたノートを見つけたとか何とか、誰か教師に頼んでクリアケースを回収させればいい。だが、僕たちがそれをやれば、情報処理部の機材持ち出しと、提出物の代返がバレてしまう。
多賀は、さっきの格言めいた言葉を繰り返した。
「カギがかかってなくても、出られなければ密室だ」
それなら、方法は1つしか残っていない。
「僕、行くからね」
窓枠に足をかけると、奏野は僕の腕を掴んで引き戻した。今度は、もろに手が柔らかい膨らみに押し当てられている。僕はとっさに、セクハラまがいのトリックを使った。
「ちょっと、胸が、胸が……」
さっきの悲鳴とリアクションからして、絶対に慌てて手を離すと思ったのだ。だが、その読みは外れた。
「そんなん知るかああああ!」
引き戻された僕は、胸の谷間に顔を埋める形で床に転がった。それにも構わず、奏野は横たわったままで多賀に聞いた。
「あと何分?」
多賀は片手でキーを叩きながら、腕時計を眺めて答えた。だが、それはあと何分というレベルではなかった。
「あと5秒、4、3、2、1……」
もう、おしまいだった。僕の身体の中に、後悔の思いがこみ上げてくる。井原のノートを見つけたからといって、危険を冒すことはなかったのだ。その分、最初に分担した原稿を必死で打っていれば、たとえ不完全なレポートでも、なんとか提出の目途は立ったかもしれない。
僕の内心を読み切ったかのように、慰めにもならないことを多賀が不愛想な声で告げた。
「一蓮托生、ってヤツさ」
その通りだった。
もしかして代返がバレるかもしれないが、井原のためだったら、どんな罰も平気で受けられる。椅子にもたれて天井を仰いでいる多賀も、すぐ目の前で苦笑いしている奏野も、同じことを考えているような気がしていた。
だが、そこでいきなり自習室のドアが開いた。
「やべっ!」
女の子らしからぬ声を上げて、奏野が僕を押しのける。当然だ。この姿勢は、不純異性交遊と間違われても仕方がない。
だが、やってきたのは巡回の教師じゃなかった。
7、
「ありがと……遠田君?」
引き戸に手をかけたまま、呆然と僕を見つめているのは井原だった。床にぺたんと座った奏野が、白々しく言い訳する。
「あ、あの、床にコンタクト落としちゃって」
「弓ちゃん、いつもメガネでしょ?」
矛盾を的確に突いてくるのは、いかにも井原らしい。ここでごまかすのは、かえって不誠実だという気がした。僕は、きわどいところを見られた気まずさもあって、自分の失態を潔く謝ることにした。
「ごめん、井原……」
いささかヤケクソ気味のところもあったけど、許してもらえなくても仕方がないと腹をくくっていた。
だが、井原の口から出たのは、意外な一言だった。
「間に合った」
あまりのことに、返す言葉がなかった。僕たちは、レポートの代返に失敗したのだ。それなのに、現物が井原の手元にあるわけがない。
その疑問は、奏野が代弁してくれた。
「どうして?」
井原が答える前に、後ろからのそりと現れた影があった。
てっきり巡回の教師かと思って、隠せるはずもないパソコンの前に立ちはだかる。両脇を見れば、多賀も奏野も同じ大の字のポーズをしていた。
「何やってんだ、お前ら?」
間延びしたその声は、タイムリミットが来ても姿を現さなかった風間のものだった。
「何で今ごろ……」
詰め寄った奏野は急に立ち止まったが、その理由は、僕にもすぐ分かった。「大男総身に知恵が回りかね」というが如く、ムダにデカいその手の中にあるのは、空になった井原のクリアケースだった。
僕は窓際に駆け寄った。見下ろしてみると、クリアケースのあった辺りの屋根には、教師が1人立っている。そこから怒鳴り散らされてうろたえているのは、新島だった。
「何で……?」
気が付くと、多賀も僕の隣にいた。どれだけ冷静でも、説明のつかないことにはさすがに動揺するらしい。
風間はいつもの通り、のそっと答えた。
「ずっと外のトイレに閉じ込められてた、ごめん」
こいつの言うことには、しばしば主語がない。僕は待たされた怒りもあって、少しイラつきながら尋ねた。
「誰に?」
「たぶん、新島……尾行されてさ」
僕と風間の話が、昨日の人混みの中で聞かれていたのだろう。新島は俺たちの作業場所を確かめようとして、いちばんトロい風間を追っていたのだ。
奏野が呆れたように確かめる。
「で、外のトイレに隠れたんだな?」
そこで察しがついた。あのロッカーをバリケードにしたのは、新島だったのだ。なんて執念だろうか、井原ひとりを陥れるためにそこまでするとは。
くびをかしげながら、間を開けずに奏野が聞いた。
「新島と、他に誰?」
ちょっと考えて、風間は答えた
「……新島だけ」
大きなロッカーを、えっちらおっちら1人で引きずって歩いている性悪美少女の姿を想像すると、可笑しくもあり、バカバカしくもあった。
僕は思わずつぶやいた。
「そこまでやるか……」
「新島真由って、そういう女」
皮肉たっぷりに奏野が答えた。
「だから言ったろ、肝心なことは自分だけでやるって」
井原が哀し気に微笑んだ。そこまで徹底的に嫉妬され、憎まれるくらいに可愛いのだ、この子は。
風間はどう思っているのか気になって、その表情をうかがう。だが、わずかに早く、多賀が興味深そうに尋ねていた。
「何で分かったんだ?」
外のトイレにいたのに、なぜ分かったのか。それは、僕も疑問だった。
だが、それには井原が答えてくれた。
「私が……先生に相談したの。ノートを隠されました、って」
これも意外だった。今まで逃げるしかなかった井原が、どんな形であれ、行動を起こしたのだから。僕はその先を聞かないではいられなかったが、その一方で、心のどこかに一抹の不安が引っかかっていた。
「それと……風間とどういう関係が?」
なぜ、風間がノートの入っていないクリアケースを持っているのか。
その答えは、ぼそっと返ってきた。
「先生がしゃべってるの聞いた」
その言葉を、奏野が継いだ。
「新島が自習室から体育倉庫の上に、クリアケースを落とした、と」
窓際でのゴタゴタとのつながりがやっと分かったのか、多賀がグラウンドの彼方を眺めながら鼻で笑った。
「奏野に追い払われて予防線を張ったんだろう。自分の持ち物だってことにするために」
英雄扱いを避けるかのように、奏野が風間を労った。
「で、そこで先生に出してもらったわけか」
「事情はよくわかんなかったけど、それが井原さんのだって知ってたから、自分で拾いに」
確かに、風間の図体だったら体育倉庫の上にも軽く登れるだろう。僕は再び、窓の下を眺めた。
「その結果が、これか」
体育倉庫の屋根から下りた教師に、新島が問い詰められている。落としたと断言したものがないことについて、追及を受けているのだ。
それを知らない井原は、ただ申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがと、奏野さん……ノートは出してきたから」
さかのぼれば、新島との対決がハッピーエンドに流れを変えたのだ。
奏野は肩をすくめて、流し目を僕に送った。
「それなら遠田に」
井原には悪いけど、結構、色っぽいと思った……意外にも。もちろん、そんなことが他人に分かるはずもない。井原の微笑は、満面の笑顔に変わった。
「ありがと。バイトがんばろ!」
「ああ!」
ちょっと照れ臭かったけど、それは押し隠して、僕もガッツポーズなんかしてみせる。
冬は、これから始まるのだ。
8、
だが、そこで多賀が余計なことを言ってくれた。
「でも井原さん、どうして相談する気になったの? 先生に」
それは勇気をふりしぼったからだ。いちいち聞くようなことでもない。奏野も同じことを感じたのか、顔をしかめてたしなめた。
「多賀、おまえそれは……」
ところが、その言葉を遮るように、井原は事もなげに答えた。
「風間君がメールくれたの、勇気出して学校に来いって」
午後いっぱい、自習室に詰めていた僕たち3人は同時に絶句した。
「え……」
部屋いっぱいに飛び交う「?」マークを、風間のいつになく長めの言葉が一掃する。
「閉じ込められたから、ああもうだめだなって思って」
僕の胸に、認めたくないイヤな予感がよぎる。
そこへ、情報処理部の部員たちが大挙してやってきた。
「奏野センパーイ、遅くなりました」
「あ、ああ……」
自分が言いつけた用事をやっと思い出したのか、奏野は曖昧に返事をする。その顔色をうかがっていた部員たちは、一気にごたごたと機材の撤収を始めた。
その喧噪の中で、井原は僕たちに手を振る。
「じゃあ、よいお年を……またね、遠田君」
「あ、ああ……」
僕が曖昧に答えたのは、風間が井原と一緒に帰ろうとしたからだ。だが、奏野はそこらへんをいい加減にしなかった。僕より早く我に返って、目をぱちくりさせながら尋ねる。
「あの……お前ら、そういう?」
風間が、ぼそっと答えた。
「何か、いつの間にか、そんな」
超特急でパソコンやプリンターを運び去る情報処理部員に紛れて、風間と井原の姿は消えていた。
「あ……」
それ以上、僕に言葉はなかった。たぶん、風間は来なくなった井原のためだけに、メールを使い始めたのだろうから。
いつの間にか帰り支度をしていた多賀は、一言だけ残して廊下の暗闇に消える。
「どうする?」
どうするもこうするも、どうしようもなかった。
冬は終わったのだ。井原についてこれ以上どうこう言うのは、僕のプライドが許さない。
9、
僕が無言で帰り支度を始めると、巡回時間を大幅に遅れた教師が、えっさかほいさかと自習室にやってきた。お気楽にやってきはしたが、薄暗くなった部屋に2人でいた僕たちを見ると、声を荒らげた。
「お前ら、2人で何してた!……奏野、お前、情報処理部の部長だろ!」
奏野は何も言わなかった。確かに、今日はやましいことがある。だが、この教師が疑っているようなことではない。僕は落ち込んだ気持ちを奮い立たせて、代わりに釈明した。
「すみません、他の人が先に帰ったんです……先生が遅れていらっしゃる前に」
それは掛け値なしの事実だったが、教師の言葉はそこで詰まった。考えてみれば、巡回の遅れも、やましいことといえなくもない。詰問口調はうって変わって、もとのえっさかほいさかに戻った。頭を掻きながら部屋に入ってくると、いそいそと僕らを追い出す。
「悪い! ほら、日が暮れる前にさっさと帰れ」
暗い廊下に出たところで、教師に部屋のカギを預けた奏野が背中にぴったり寄り添ってきた。
「ありがとな……さっきのセクハラは、黙っといてやる」
視界が利かないだけに、胸の感触が、耳元の息遣いと共に、よりはっきりと感じられる。そのやましさに逃げ出した僕の耳には、微かな囁きだけが残された。
「いつでも呼びな……話ぐらいなら聞いてやるよ」
冬は終わったはずなのに、廊下を駆ける僕の心臓は高鳴っていた。