あたかな
マラソン大会の当日、小学三年の本番前。ウォーミングアップをしている時、藤波は緊張していた。マラソン自体は嫌いではなかったが、この本番前の緊張感だけは好きではなかった。
藤波は、後ろの星崎をチラッと見たとき、身軽にぴょんぴょん飛び跳ねているのがわかった。身体能力が明らかに前とは違う。星崎は本当に軽々と体を宙に浮かせて気持ち良さそうに何度もジャンプしていた。
この日のために努力してきたんだ、と藤波は思った。一年間、星崎といて彼が、純粋に何かを掴もうとしてきたことが藤波にはとてもよくわかった。藤波のなかにある何かを星崎は見ていたのだ。それは言葉で言い表すことは難しいけど、ごつごつとした藤波の力強い心の襞だった。それを星崎は見ていてくれたのだ。藤波はそのことに感動をすら覚えた。そして今日は心のある部分で繋がっていた藤波と星崎の本番の日だった。誰にも負けたくはない。昨年と同じように藤波はスタート前にそれを思った。昨年以上に藤波は強い気持ちを抱いた。今年は星崎というライバルがいる。
パンっというスターターピストルの音と共に藤波は一番前へ飛び出した。学年一速い小川という男よりも始め藤波は前に出たが、四百メートルくらいのところで藤波は後ろに置かれた。
その後中盤辺りまで全体の三位を保っていた藤浪だが、終盤に差し掛かったところでペースが落ちた。ペース配分がいつもより先に出すぎて終盤に順位を落とした。
終盤に十位前後のところに付けていた藤波を追い抜く者たち。その一人に星崎がいた。やはりいた、藤波は思った。今、星崎は藤波のライバルだった。藤波はそれをみて血の味が口の中にするくらい苦しみながらまたペースを上げた。
そこから先は藤波もよく覚えていない。ラストスパートをした時には今迄にないほどに胸が苦しくなった。今日のマラソンのペース配分は明らかに乱れていた。ゴール前、全員が最後の力を振り絞る。藤浪はその誰よりも速く走った。最後に何人も追い抜いていくなかで、藤浪の背後に近づく者がいたが、それが星崎であることを認識したのはゴールしてしばらく経った時のことである。ゴール線をかけ抜けた後、酷く息を乱していたが、星崎に声をかけられて漸く自分が星崎に勝ったことがわかった。
「藤波君は、やっぱり凄いや」星崎はまたいつものように藤波のことを褒めた。
藤浪がマラソンを終えて、ようやくラストスパートのときに自分の背後にいた者が星崎であることがわかった。そしてこのとき漸く全てを理解したような心持ちになって星崎の顔を見た。
「星崎君……」と藤波は言って、乱れた息でそれ以上、言葉が出てこなかった。相変わらず口の中は血の味がした。藤波は星崎に心から感謝を言いたかったけど、それ以上何も言わずに星崎に聞こえるか聞こえないかくらいの声で一言「ありがとう」と告げた。北風がビュービューと吹き荒む公園の広場で藤浪も星崎も言葉を交わさずに黙って前を見つめていた。藤波の心はマラソンが終わったことの安堵と星崎への言葉にできぬ感謝の念で満たされていた。そして心の中に力強い星崎への信頼を感じつつ、冬の薄日を眩しそうに見上げて藤浪は幸福な気持ちになってこれで小学三年が終わることを認識したのだった。




