さら
冬のマラソン大会、本番は二月だが、年が明けたくらいから生徒たちはマラソン大会を意識する。毎朝、各クラスで朝練が行われる。毎週火曜日と金曜日は、藤波と星崎のクラスである三年一組の朝練の日である。
金曜日の朝、星崎はいつもより三十分早い午前六時半に藤波の家に訪れた。藤波と星崎がいつものように重いランドセルを背負って駆け出すと、強い北風に乗って空から風花が舞っているのがわかった。風が急に強くなる瞬間は、白い雪が乱舞しているかのようであった。藤波は帽子を抑えながら「寒いね」と星崎に向かって呟くように言った。
「そうだね。マラソン大会近いね。藤波君の目標は何位以内?」星崎はランドセルを窮屈そうに持ち直して言った。星崎はいつも冬の通学の時は厚手の黒いダウンジャケットを着ている。藤波はそれをみていつも星崎君は大人びている、と思った。テカテカのダウンジャケットに気を取られた藤波だったが、星崎が返事を待っていることに気ずいてはっとした。
「順位?」と言った藤浪だが、目標順位など取り決めていなかった。
「藤波君は昨年十六位だよね?」
「そうだけど」
「今年はどう? 何位以内目指している」
「うーん、そうだなあ、十位以内かなあ」と藤浪は空に向いて言った。十位くらいなら格好いいな、と漠然と思った。
「やっぱり藤波君はすごいね。僕は三十位以内が目標だから。藤波君はすごいよ」
藤波も満更ではなかった。そう云われてみれば、藤波も星崎との優位がマラソンになると逆転することに気がついた。
「星崎君も二十位以内目指しなよ」藤波は得意げに言った。
「そうだね。藤波君は十位以内に入って、僕は二十以内に入る。そうなればいいね」
藤波にとってみれば星崎は雲の上の存在だったけれど、走ることに関しては格が落ちることを誇って「藤波君でも二十以内入れるよ」と言った。この時星崎は内心どう思ったか、しばらく黙っていた。
「僕でも二十以内入れるかなあ」と小さな声で星崎は呟いた。
「大丈夫、大丈夫。藤波君は勉強ができるんだから努力すればきっと二十以内入れるよ」
星崎は寂しげに笑ってみせた。
その日の朝練、三年一組は二つのグループに分かれてタイムの計測を行った。ヨーイドンという先生の合図で一組目が走り始めた。グラウンドを一周したところで藤波はいつものように先頭に躍り出た。藤波は大きなスライドで他の者を引き離していった。と、藤波の背後にだんだんと近づいて来るものがあった。それに気づいた時、藤波はちょっとペースを落として背後を見た。星崎であった。藤波の後を追って星崎が藤波の背後にぴったりと食らいついていた。
苦しそうな顔だった。形相はいつもの穏やかな星崎ではなかった。真っ赤な顔をして、顎を大きく上に向けて走っていた。それにしてもいつもはこんなに前に星崎が来ることはない。かなり無理をしていることが見て取れた。藤波は少し意地悪な気持ちになってピッチを上げて星崎を引き離しにかかった。が、星崎は付いてくる。二周三周とどこまでも食らいついてきたが、四周目で、とうとう力尽きて極端にペースが落ちて次々に後続に抜かれていった。藤波は、背後を振り返り星崎が見えなくなったのを確認して、更にペースを上げて先頭を走った。
一時間目の授業の前に星崎は藤波の席に来て言った。「藤波君のペースって短距離を走るくらい速いんだね」
そんなわけはないと思った藤波だが、また得意げに「星崎君も途中まで凄く速かったよ」と言った。
「僕は全然駄目だな。もっと練習しないと、藤浪君に追いつけないよ」
「星崎君は根性あるんだね。疲れていても途中まで頑張っていたから」
星崎は黙ったまま藤浪を見ていた。しばらく藤浪は星崎の言葉を待ったが何も言わないので「星崎君は走ること以外は、僕より上なんだから、もし僕が長距離で負けたら何もなくなるよ」と呟くように言った。
「そうじゃない、無くならないよ」星崎は不意に大きい声を出した。
びっくりして目を丸くした藤浪だったが、星崎の真剣な表情をみて、しばらく黙ったまま星崎が何に対してそんなに自分のことを尊敬するのか、考えていた。
「僕はそんなに凄くないよ」とキョトンとした顔をしながら藤浪は言った。
「ラストスパートをしているときの藤浪君は凄いんだよ」星崎は俯き加減に呟いた。
「でも星崎君は勉強ができて……」
「僕の目指しているのは、最後のところで力を振り絞れる君のような人間なんだよ」星崎は藤浪の言葉を遮って言った。
「じゃあ、勉強できなくなっても星崎君はマラソン大会で一位になる方がいいの?」
「マラソン大会で一位になりたいわけじゃないよ。僕は小さい頃からアトピーと喘息もちで、身体が弱かったから藤浪君のように最後の最後で力を振り絞れる強い人に憧れているんだ」
藤浪はわからなかった。星崎が自分の何に憧れているのか? あの学期始めの春に突然星崎が自宅を訪問した時から、どこか星崎は自分に羨望の眼差しを向けているような気がしていた。しかし、それが一体自分のどのような部分に対して向けられているのか藤浪は判然としなかった。ただ確かに藤浪は星崎にないものがあるような気がしていた。それは一体なんなのか、それを藤浪は言葉で言い表すことができなかったし、これだと言うこともできなかった。強いて言えばメンタルの何かであった。
小学三年の一年間に、藤浪は色々な経験をした。文字通り八歳から九歳に掛けての幼少期のなかで、だんだん自分というものがわかりかけてきた。我というものも出てきて、他人との比較で自分がどういった立ち位置にいて、何を誇るべきかがわかってきた。藤浪は、勉強が苦手であり、劣等感を抱いて小学三年に上がってきた。そんな自分のことを慕ってくれた星崎の存在が藤浪には誇りだった。星崎が自分とは違うタイプの人間であることを認識しつつ、どこかで藤浪は星崎を自分と重ね合わせて考えていた。気安く互いを名前で呼び合うような間柄ではなかったものの、一年を通して君付けをして呼びあった二人の関係性は、互いの成長の助けとなっていたのは、後の二人の姿が示す通りである。小学三年の 時間を過ごして以降、藤浪と星崎は別々のクラスになり、この公立小学校を卒業するまで二人は同じクラスになることは二度となかったが、その後、凛々しくそれぞれ小学六年に上がった時、藤浪の成績はクラスの半分より上にまで持ち直していた。この事実は、小学校三年の星崎の背中をみていたことと無関係ではない。




