夏の日暮し
夏の朝の目覚めは油蝉の鳴き声と共に訪れる。夜の涼しさを幾分か残した室内は、けれどもカーテンを透ける日の光ですっかり明るくなっていた。
老婦人は寝床からゆっくり身を起こすと、隣の布団でまだ寝息を立てている五十年来の伴侶を起こさぬよう、静かに身支度を整え蚊帳をくぐった。
家中の窓と襖を開け、新鮮な空気を入れる。居間の畳の上を箒で掃き、玄関の戸も開け放つ。この田んぼと畑ばかりの小さな集落では、玄関の鍵どころか扉も開けたままが常だった。盗られる物も、盗る者もここには無い。それでも羞恥心を全く持たないわけではなく、玄関を入った所に目隠しの衝立を置いていた。
家の中の事が済めば、今度は庭の畑に出る。赤く熟したトマトに曲がったキュウリ、大小様々なピーマンやナス。強い日差しを受けて実った夏野菜が、青々とした茎を重そうにしならせていた。
この時期の野菜の生長は早い。昨日も採ったばかりだというのに、老婦人が食べる頃合いの野菜を選別してもいでいくと、持っていた籠はたちまちいっぱいになった。
空はどこまでも青く、白い雲がくっきりと輪郭を描いている。今日も暑くなりそうだ。
老婦人は家へ戻り台所に立つと、収穫した野菜を使って朝食の準備を始めた。トマトはくし切りにしてそのまま。塩を振っても良いだろう。ナスは味噌汁に。
そうこうしていると、彼女の連れ合いが蚊帳と布団を片付けて起きてきた。
二人きりの食事の後は、番茶を淹れて一服する。毎朝のテレビドラマを見終わると、さて、と立ち上がり、洗濯機を回し、風呂と便所の掃除を始める。老婦人の連れ合いは野良着に着替え、畑仕事に出掛けた。
老婦人は朝の涼しさを少しも残さぬ庭へ出て、脱水の済んだ洗濯物を物干しに掛けていった。彼女の夫のランニングシャツも襟ぐりが伸びてきた。そろそろ新しい物に替えた方が良いかもしれない。
遠くから軽快な音楽が聞こえてきた。牛乳の移動販売車がやって来たようだ。少し行った所に商店はあるものの、出歩くのにも一苦労するようになった近隣の老人たちにとって、週に一度訪れる移動販売は有り難いものだった。
「おかあさんいましたかー」
「はいはーい。今行きまーす」
冷蔵庫の牛乳が残り少ないのを確認しているところに、玄関口から声が掛かった。
年若い販売員が、家の前に停まったトラックの後ろの扉を開ける。中には牛乳を始め、ヨーグルトにプリン、パンや菓子類が所狭しと並べられていた。
「毎日あっちぇねえ」
「ほんにねー。おかあさんも熱射病ならんように気を付けてくださいね」
「うん。もう水ばっかりガブガブと飲んでだったわ」
今日は牛乳を二本買う。子供たちが皆家を出て、近所の住人以外訪ねる者も滅多に無い寂しい暮らしの中で、この人当たりの好い青年とのたわいも無い会話は、老婦人に新鮮な楽しみをもたらしていた。
庭の草むしりをするうちに、いつの間にか太陽は頭の上まで昇っていた。そろそろ連れ合いも帰るだろう。
老婦人は作業をやめて額の汗を拭うと、昼食の準備に取り掛かった。こう暑くてはあまり食欲もわかない。軽く済ませようと、中元に送られてきたそうめんを茹でることにした。蛇口を捻って茹で上がったそうめんを水にさらす。冷たい水を纏った真っ白なそうめんは、キラキラと光を反射させて絹糸のように輝いた。
薬味にはミョウガが良い。老婦人は裏庭へ出た。しゃがみ込んで、緑の葉の下の地面にひょっこりと顔を出したミョウガを、二つ三つ採る。地面には所々丸い穴が開き、その傍の葉の裏に蝉の抜け殻がぶら下がっていた。きっとまた孫たちが、宝物でも見付けたように目を輝かせて集めるのだろう。
昼食の後、老夫婦はいつも少しの間昼寝をする。夏の日が一番高い時間は無理に外へは出ない。畳の上に横になって鼾を立て始めた連れ合いを横目に、しかし老婦人は自分は休まず、裁縫道具を取り出した。小学校に上がったばかりの孫娘に、浴衣を縫っているのだった。盆に彼女たちが来る前に縫い上げなければならない。
老眼鏡を掛け、指貫をはめ、布を広げる。今年は朝顔の模様の入った、明るい水色の生地を選んだ。毎日空いた時間に少しずつ縫い進め、だいぶ形になってきていた。
針を刺す。糸を引く。真っ直ぐ、曲がらぬよう、チクチクと縫っていく。開け放った縁側から時折風が抜け、簾を揺らす。蝉の声に混じって、軒に下がった風鈴がリン、と鳴った。
「おや、鬼蜻蜒だ」
迷い込んだ大きな蜻蛉が、どこにぶつかることも無く器用に廊下や座敷を飛び回る。老婦人は気にせずまた手元に目を戻し、針仕事を続けた。
「ごめんください。いましたか」
声に呼ばれて玄関に出ると、斜め向かいの家の老婦人が上り框にすでに腰掛けて待っていた。
「これ回覧板。あとこれ、ぶんどいっぺ送られてきたからおめさどこにやるわ」
そう渡されたビニール袋には、艶々としたブドウがひと房入っていた。
「あやー、わーりぃね。ちょっと待って」
「何にもいらねよー。食べきれねすけ持ってきたんだー」
慌てて何か分けられる物を探しに奥へ入る。積まれた中元の箱の中には、ビール、ハム、ゼリーなどが、まだ手つかずのまま入っていた。老婦人は甘い匂いの桃を三つ取ると袋に入れ、玄関へ戻った。
「これ持ってって」
「いい、いい。ほんに余ったすけ持ってきたんだもの」
何度か押し問答を繰り返し、ようやく隣人は桃を受け取った。
「おめさどこの東京のしょ、お盆は帰ってくるたろ?」
用事が済んでも、隣人はまだ帰る素振りを見せない。
「うん、たぶん十日か十一日あたりだろ。おめさどこも子供たち帰ってくるろ?」
「おらごもまあ、一番上は帰ってくるども茜は帰らねて言ってだた」
そこから隣人の愚痴ともつかぬ世間話が始まった。老婦人はこの隣人のお喋りに辟易していたが、邪険にするわけにもいかず、適当に相槌を打ち、頃合いを見て何とか彼女を送り出した。隣人はまだ話し足りなさそうな顔をしていたが、「かえってわりがったねー」と桃の入った袋を持って帰っていった。
居間へ戻ると、話し声で目を覚ましたらしい連れ合いが老眼鏡を掛けて新聞を読んでいた。
「冷蔵庫にスイカあったか」
「あった。はやそうか」
連れ合いに言われ、老婦人は腰を下ろす間も無く台所へ向かうと、冷蔵庫からスイカを取り出し包丁で切り分けた。くし型に切ったスイカを皿にのせ、先の割れたスプーンを添えてテーブルに置く。
塩を振ってスプーンで掬うと、シャクッと良い音がした。一口頬張れば、塩気の後にみずみずしい甘みが口中に広がる。熱を持った体に、スイカの水分が沁み渡るように感じられた。
スイカを食べ終えた連れ合いは、また野良着に着替えて田んぼと畑へ向かった。老婦人も着替えると、自転車に道具を積んで畑へ出掛けた。
昼を過ぎたと言っても、空にはまだ夏の太陽がギラギラと照っている。老婦人は皺だらけの手に持った鍬で畑の土を耕し、肥料を撒いて畝を作っていく。ここには今度ダイコンを植えるつもりだ。
鍬を動かす度に、熱せられた土の匂いがむっと鼻に付く。チョロチョロと虫が逃げ、急に外気に晒され慌てた蚯蚓が、土に潜ろうと身を捩る。
しばらくして老婦人は鍬を置き、ふうっと一息ついた。首に掛けた手ぬぐいで、汗だらけの顔を拭く。曲がった腰を伸ばして周りの景色に目をやると、青々と広がる稲の絨毯の向こうに、山々が連なっていた。その内の一つの山肌には、スキー場のゲレンデが見える。冬は白い帯を垂らしたように見えるその場所は、今は濃い緑色に装いを変えていた。
夏の日は長く、午後の五時にもなろうというのに、太陽はまだしぶとく空に残っている。老婦人は早めに仕事を切り上げ、家路につくことにした。自転車の籠には収穫した野菜が積まれ、来た時よりも重い。老婦人はバランスを失いそうになる自転車を、ゆっくりと漕いで帰った。
帰宅した老婦人は、道具を片付け着替えると、冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶を一杯、ゴクゴクと音を立てて飲み干した。ようやく人心地ついて、今度は洗濯物を取り込み、手際良く畳んでいく。夏の洗濯物はとても温かく、さらっとした手触りをしている。
カナカナと蜩が鳴き始めた頃、老婦人の家の電話が音を立てた。
『あ、私。変わり無い?』
電話越しに良く知った声が聞こえた。東京に住む、老夫婦の娘である。
「うん、毎日あっちぇども、おらもおじいさんも元気だよ。お盆は帰ってくるたろ?」
『うん。十一日に行くことにしたわ』
『おかーさん、まなもー』
受話器の向こうから、小さな女の子の声が割り込んできた。
『おばあちゃん、まなのゆかた、できた?』
「真菜ちゃん、いい子にしてだったかー? 浴衣、もうちょっとで出来るからね」
『いつできるの? あしたできる? あのね、おばあちゃんち行ったら、ゆかた着ておまつり行くんだよ!』
「大丈夫だー。ちゃあんと間に合うから。ばあちゃん学校で一番縫い物上手だったんだよ。きれいな浴衣作って待ってるからね」
孫たちも元気そうだ。盂蘭盆ももうすぐ。久しぶりに、この家も賑やかになる。
汗だくで帰ってきた連れ合いを先に風呂に入らせ、老婦人は食事の準備をした。
風呂から上がってさっぱりとした連れ合いと夕飯を囲む。食卓に並ぶ料理には夏野菜がふんだんに使われている。もちろんそれらは、老夫婦が毎日畑に出て育てた物だ。ナスとピーマンの味噌炒め、冬瓜の味噌汁、モロヘイヤのおひたし、冷やしたトマト。冷蔵庫にはまだ茹でた枝豆やトウモロコシもあるが、老人二人の食卓には多すぎる。主菜に魚を焼く必要も無かったかもしれない。
「東京のしょら、いつ帰ってくるんだかな」
箸を動かす合間に、昔気質で無口な連れ合いが口を開いた。
「十一日に帰ってくると」
「十一日か。盆前に墓掃除しねまねな」
普段はあまり気にする素振りを見せないが、彼女の連れ合いも孫たちが来るのを楽しみにしているのだろう。
外は日が落ちてすっかり暗くなり、幾分過ごしやすい気温になった。開いた窓から、そよ風が入ってくる。
風呂を済ませた老婦人は縫いかけの浴衣を出し、チクチクと縫い始めた。連れ合いは先に床に就いたが、孫娘にああ言われては、少しでも早く完成させないわけにはいくまい。
どこからか風に乗って、祭囃子が聞こえてきた。少し離れた集落からだろうか。
襟を付け終え、老婦人は一旦手を止めた。あとは袖を付ければ完成だ。孫娘の喜ぶ様子を思い浮かべ、老婦人の口元が綻ぶ。老婦人はもう少し縫い進めることにして、老眼鏡を掛け直した。
いつの間にか祭囃子は消え、辺りには蛙と虫の声ばかりが聞こえている。
渦巻の小さくなった虫除けの線香が、ポトリと白い灰を落とした。