第33話:幽世・奥の細道 - 前
富士山麓、青木ヶ原樹海。
この地を故郷とする芙蓉の案内で、貴之一行は樹海の只中を進む。
軽やかな足取りで先頭を行く妖狐の化身・芙蓉は元より、悪鬼の化身・あやめも山歩きに難儀を見せぬ。二人とも本来は、山奥を拠点とする妖の者だからであろうか。
だが貴之は、只の人の身である。慣れぬ山歩きは少々辛い。とは云え、芙蓉とあやめが易々と進む山道である。見てくれは小柄で細身な美少女二人。男の自分が一人だけ弱音を吐くは癪に障る。貴之はそう考えてじっと堪え、汗を拭いつつ黙々と二人の後を追う。
そうして富士の樹海を歩く事、小一時間した頃のこと。
「此処よ」
先頭を行く芙蓉が、不意に立ち止まりて苔生した石廟を指差した。
「此処が、何じゃ?」
「此処が『幽世の入り口』よ」
不審がるあやめに、芙蓉は何事もなく聞き慣れぬ名称を口にした。
聞けばこの『幽世の入り口』とは、人とそれ以外を隔てる一種の結界であると云う。とは云え、左右に並ぶ石廟の向こう側は、何の変哲もない樹海にしか見えぬ。
「ほーぅ、これが神隠しと噂に違わぬ件の領域かのぅ?」
「そう……不自然こそ、自然と背中合わせに存在する世界」
「何じゃそれは?」
「これこそが境界であり、結界たる所以でもあるのよ」
例えば、今ではどこにでも存在する神社の鳥居などもまた、神域へ通ずる入り口であり、結界であると芙蓉は云う。それ等は神の住まう神域と、人の住まう現世を隔てる門の役目を果たす。
では『幽世の入り口』とは何か。
例えば、其は鬼界と人界を隔てし結界。それぞれが住まう世界を定めし境界――兎角、幽世の向こう側は、人外が御座す境界であり、人の身では決して立ち入ってはならぬ世界を総じてそう呼ぶのだ――と、芙蓉は講釈す。
「では、人の身で幽世へと立ち入らば、何とする」
「そこは神域か、将又黄泉か鬼界か……孰れも人為らざる未知の世界。迂闊に足を踏み入れ迷い込めば、二度と戻れぬ。無窮の迷宮が如き無限の領域よ」
「ふふん、面白い」
そう聞きしあやめは却りて、不敵に鼻を鳴らしてほくそ笑む。
だが人間、そう聞いては誰しもが底知れぬ恐怖に、足が竦もうと云うものだ。だからこそ貴之は、胸に刻みし「三つの掟」に従いて、こう答えた。
「さて、行こうか」
事も無げに飄々と、げに何食わぬ顔。心根を億尾にも出さず。
何せこれ迄に、二つの災厄を乗り越えて来た。毒食わば皿まで。彼の老人との約束を今更破るわけにはいかぬ。無謀なまでに大胆で、根拠の無い度胸だけが頼りである。
貴之は最早「三つの掟」を気にせずとも、偽りの風格を身に付けつつあった。
「ほぅ……然しもの貴之ぞ。相変わらず胆力は、人並み外れておるのー」
あやめは何故か満足そうに頷いて「さ、案内せい」と芙蓉を急かす。
急かされて芙蓉は、彼女が『幽世の入り口』と呼ぶ石廟の向こう側へと歩み入る。続いて貴之が一歩、境界を越えて足を踏み入れた。
ぞわっ――得も云われぬ冷気と心身に掛かる重圧。刹那にして周囲の空気が一変す。自然と身の毛の弥立つここから先は、なるほど物の怪が棲む世界である。
知らず知らずに迷い込めば、二度と出られぬ幻惑の樹海と相成ろう。そう肌身で感じずには居られまい。
「ふっふん、それでこそ貴之じゃ」
臆することなく足を踏み入れし貴之に、何故かあやめは得意げである。
最後に余裕綽々と、鬼娘が境界を踏み越え一行は、更に先へ先へと目指す。
森深き獣道を飄々と征く貴之の、その傍らに付き従いしは悪鬼と妖狐。
それを横目に貴之は、つい詮無いことを呟いた。
「さて……悪鬼と妖狐を引き連れて、鬼退治か」
「あぁん? たぁかゆきー、桃太郎にでもなったつもりかぁ?」
呆れ顔のあやめは、そう云って口を尖らせた。
だがにんまりと微笑むと、芙蓉を見やり意地悪そうな顔をする。
「じゃが、ほれ。犬はおるぞ」
「金枝玉葉の妖狐を犬呼ばわりするな!」
そう怒鳴った芙蓉だが、すぐさまジト目であやめを睨め付け反撃す。
「でも、ほれ。猿はおるえぇ」
「天下無双の悪鬼を猿呼ばわりするな!」
顔と顔を睨み合わせて、悪鬼と妖狐はいがみ合う。
「止めんか、馬鹿者」
貴之は、そんな二人の頭を後ろから、ぽかりと叩いて成敗す。
文字通り天下分け目の一戦を前に、仲間同士いがみ合いて如何にせん。
黒と白の美少女二人を眺め遣りて、一抹の不安を覚える貴之である。
◆ ◆ ◆
更に、更に。奥へ、奥へと進むこと小一時間。
富士の樹海より『幽世の入り口』を抜け、昼尚暗き樹海の先へと進み行けば、何やら薄ら薄らと真白き霧が、足元へ忍び寄りて生じたる。
やがて貴之一行の往く手には、巨大な洞窟の入口が目の前に現れた。
実際に青木ヶ原樹海には、斯様な洞窟が数多く存在する。それは風穴や氷穴とも呼ばれ、有名所では、天然記念物に指定されし富嶽風穴や鳴沢氷穴などがある。これ等は富士の噴火による溶岩流に因りて「溶岩洞穴」や「溶岩樹型」として生じるものである。
然れども目の前に顕われたるこの洞窟は、そのいずれにも能わず。得も言われぬ異彩を放ち、禍々しさすら覚えたる。まるで異界への門が如しであった。
「そういや『吾妻鏡』には『人穴伝説』なるものがあるのぅ」
などと、あやめが妙な事を呟いた。
「なんだそれは?」
「富士山のどこかにあるという、人の内部を模したが如き洞穴よ」
あやめ曰く、健仁三年の六月、奇妙な洞穴の噂を聞き付けた源頼朝の子、二代将軍・頼家が、その人穴と呼ばれる洞穴の調査を命じていると『吾妻鏡』にあると云う。
そこで仁田忠常なる豪の者が探索をすると、洞内でこっ酷い災難に出遭ってしまう。この出来事は他にも、御伽草子は「富士の人穴草子」に綴られている。
「その正体は、浅間権現だ大菩薩だのと云われとるが……よもやお前じゃあるまいな」
洞穴探索の際には、白衣白髪の神とも鬼ともつかぬ者やら、十二単の機織り女やらが登場し、この場をすぐに立ち去るよう命じられたとも、地獄巡歴したとも謂われておるが、さてはさては。
「お前が幽世へ踏み込みし人々を、術を以て化かしたか」
「そんなのいちいち覚えてないわよぅ……」
芙蓉はぶーたれつつ言葉を濁すと、幾つかの狐火を放って光を灯した。
洞窟の奥へと踏み込む前に、道先案内の明かりとす。
「さて……敵の本拠へ踏み込む前に、簡単に整理しておこう」
道すがら貴之がそう問えば、あやめと芙蓉の解答はこうだ。
彼の鬼神は、駿河を境に日の本を二分し、東北に国を造るが悲願。
その為に富士の樹海の真ん中で、霊気魂魄あらゆる精気を吸収す。
やがて千年の時は満ち、鬼神と相成るまで仙術を練りに練り上げた。
龍脈を堰き止めし千年妖狐の楔を外せば、術が働く仕掛けは流々。
最後は富士火山帯を利用して、日の本を物理的に分断す。
「要するに、大掛かりな日本沈没計画よね」
芙蓉は怒りを込めて、そう呟いた。
最早、悪事は為さず。護国の瑞獣と相成ると。
富士山麓に居を構え、富士の地鎮を請け負った。
そう誓いし母上の、意志は決して挫かせぬ。
己の決意を語りて芙蓉は、犬歯を噛み締め虚空を睨む。
瞳の先は孰れ相対す、怨敵を空に描いたに相違あるまい。
「今回の災厄は、計画を頓挫させるのが目的だな」
「そうじゃ……しかし愚かなもんじゃ」
あやめにしては珍しく、静かに憤慨して物申す。
「今の時代にそぐわん……大混乱を巻き起こす愚策じゃ」
あやめの言はどことなく寂しげで、瞳が切なげに映る。
単にそれは貴之の気のせいか、将又――
「さぁて、お出でなすったぞ」
洞窟内の開けた場所へと出た途端、誰に云うでもなくあやめが告げた。
ぺろりと舌を見せ、好戦的な瞳に焔の光を灯す。
ぞろり、ぞろり――
不気味な闇の中から姿を見せしは、様々な異形の者ども。
ギョロリと目玉を引ん剥いた鬼、人の胴程ある腕を持つ鬼。
人と姿のあまり変わらぬ者から、異形の何かへと変化したモノ。
千差万別、魑魅魍魎と呼ばれし輩である。
「通りゃんせ、通りゃんせ」
「御用のない者通しゃせぬ……」
口々に何事かを呟いて、闇の中に潜み居る。
「往きはよいよい、帰りは恐い……ヒヒヒ……」
これらは悪路王が全国から呼び寄せた鬼どもであろう。
洞穴内の要所要所を固め、侵入者の往く手を阻む。
ぞろり、ぞろり――次から次へと闇より現れ、血肉を喰まんとす。
「フン、地獄から目覚め居ったか餓鬼どもが」
肩に担いだ愛刀をトントンと揺らし、あやめが独り言ちる。
悪鬼と妖狐、二人の瞳がすうっと細くなり、妖の光を放つ。
「さて行こうか、二人とも」
貴之が泰然と、付き従いし我が僕に告げた。
三つ目の災厄――最後の闘いが、ここに幕を落とす。