第31話:最期ノ災厄・急
拗ねた様に不貞寝したあやめを捨て置き、貴之は居間をそっと離れる。
二階へ上がり天井裏を覗かば、暗い部屋の隅で丸くなっている芙蓉の姿が見えた。
「おい、芙蓉よ」
声を掛けてみたが、一向に返事がない。
暗闇の中でよく目を凝らすと、沈んだ顔で件のタオルを抱き締めている様である。
「妾が……浅はかな餓鬼でなければ……」
ようやっと絞り出すように応えた声は、涙声に濡れていた。
芙蓉の母――玉藻の前は、この災厄へ至る道程にきっと気付いていたのだろう。だからこそ芙蓉の真名を、大切な我が娘に授けたのだ。
何故ならば芙蓉とは、富士の古き呼び名――雅称である。
平らかに鎮むるべき龍脈と霊力の源である霊峰と同じ名には意味があった。日の本の命運と幾多の人命を握る鍵と相成る、肝心要の真名であったのだ。
そんな自分の真名がどれ程に強い言霊を成すか。それが分からぬ芙蓉ではない。
「なのに妾は調子に乗って、母の気持ちを裏切ってしもうた」
胸元のペンダント――蒼色の殺生石を握り締めて、心底悔しそうに呟いた。
「妾は弱い生き物じゃ……惨めな獣じゃ……」
悪路王に散々罵られた言ノ葉をそのままに、芙蓉はその意味をぐっと噛み締める。そうして幼い顔をくしゃりと潰すと、絹のような頬の上をつうと涙がひとつ伝った。
そうなると大粒の涙は止めどころなく、決壊した様に次から次へと零れ落ち往く。
「人の温かさを、情を知った獣は、野生では生きられぬ……」
「だが――情を知らぬ獣は、涙を零すまい」
思わず貴之の口から、柄にもない言葉が毀れた。
普段からそういう口調を心掛けていた所為だろうか。
それとも単純に、二人の影響を受けた所為だろうか。
三つの掟がひとつ。全てを偽る為、自らが次第に作り出した仮想の自分。
だがそれが、何時の間にか自然に身に付き、声と成っていた。
「術者さまは、涙を零す妾を……弱いと思わぬか?」
その問いに貴之は、自らに問うかの如く答えた。
「弱さを知らぬ者が、強さを語る事などできまい」
それは、ずっと心の中で思い続けていた事である。
万難を排してでも、絶対に負けられぬ闘いの連続。
人の弱さを、生物としての脆弱さを自覚する日々。
悪鬼・妖狐の跋扈する、現実味の消え失せた世界の中で――
「弱さを知ってこそ、強さを知るものだ」
弱いちっぽけな人間が、直面せし脅威に対し如何にせん。
自らの弱さを知ってこそ、相手の強さを冷静に把握す。
相手の弱みを知ってこそ、自らの強みを最大に発揮す。
そうして貴之は『三つの力』の遣いどころを見極めてきた。
「弱さを、知る……」
そんな貴之の言ノ葉に、芙蓉ははたと気が付いた。
幼き身体と相成りし、力無き己と同様では在るまいか。
「そして――悪鬼や獣は、母への愛を語るまい」
あやめもほろりと零した言葉――それは、母への愛。
貴之の言ノ葉に、流石の千年妖狐も心が震えた。
「嗚呼……事もあろうに愚かな妾は、為人を被った獣であった」
気の向くまま嘲笑い、騙し欺くこと跳梁跋扈。
莫大な妖力を駆使し、暴れ回ること傍若無人。
身の程を知らず、身の丈を弁えず。
さながらそれは、我儘な童の如し。
そんな自分は、母の愛に、人の情に、助けられてばかり。
今迄受けた恩情に、妾は応えているだろうか――
やがて芙蓉は訥々と、素直な本音を語り始めた。
「妾は、人間が好きじゃ……大好きじゃ……」
だからこそ人の世に忍び出ては、人の街を遊び歩いた。
この上なく楽しかった――人の世という夢現の世界。
穴蔵で静かに過ごした千年の歳月と、その理由を忘れる程に。
「妾は人の匂いが傍にあると、とても心が落ち着くのじゃ……」
幼き頃から大好きな母の尻尾に抱き着いて眠った。
その尻尾からは妖の気配と共に、人の臭いが消えることはなかった。
今の芙蓉の心持ちならば、それがよう分かる。
「妾も母も……愚かな獣と罵られようが、やはり人間が好きなのじゃ」
貴之から預かったバスタオルを、ぎゅっと握り締めると、己を惹き付けて止まぬ人の身の、貴之が持つ最大の疑問に迫った。
「妾にも分かる……元々あやめは相当な力を持つ千年悪鬼であろ。だがあの時、あやめは血の盟約に等しい同族殺しの汚名を被ろうと、妾を選んだ……それは何故じゃ?」
芙蓉は不意に顔を上げ、悔しさに泣き腫らした瞳がこちらを向いた。
端正な頬に掛かる白銀色の、嫋やかな毛先が目元で揺れる。
「稀代の悪鬼を調伏し、ああまで変えた――其方は何者じゃ?」
「俺は普通の――」
限りなき純粋な幼児の様な表情を見て、貴之はつい「普通の人間だ」と答えそうになった。今の芙蓉には、正直に話さねばならぬ――何故かそんな気がしたからだ。
「よく聴け、芙蓉よ」
だが既の所で踏み留まりて、貴之は改めて声を整えた。
何故ならば『三つの掟』がある。絶対に全てを偽らねばならない。だから不用意な肯定はできぬ。かと云って、聡い芙蓉に曖昧な答弁は利かぬ。否、してはならぬ。
それ故に、貴之が答えし言ノ葉は――
「俺は――悪鬼と妖狐を従えた、どこにでもいる普通の人間だ」
苦し紛れの奇妙な回答――自分でもそう思う。
だが偽りて偽らずは、こう答えるが精一杯であった。
予想外の返事に虚を突かれ、芙蓉はきょとんとした顔をした。
「人間とは、ほんに……ほんに不思議な生き物じゃのぅ」
泣きっ面の芙蓉が、ふうわりと相好を崩す。
「そんな人間が普通におるかいな」
「……至極尤もな意見と受け取ろう」
「ありがとう術者さま……術者さまは、ほんに優しいのぉ」
思いがけず芙蓉から、最も美しい笑顔が零れ落ちた。
今までに見たこともない、愛情溢れる柔らかい表情であった。
「妾も偉大な妖狐と成りたい……そして母と同様に、人の隣に寄り添いたい」
芙蓉の胸に光る蒼色の殺生石が、きらりと輝いた様に見えた。
「母上が何故に貴之の味方をしたか。今ならば良く分かるぇ」
「なるほど……俺に娘の尻拭いをさせようというのだな、玉藻の前よ」
「くふふっ、違いないぇ……」
芙蓉は声を零して笑うと、貴之の目をじっと見つめた。
「術者さまは、妾を従える人間だと……そう申したな」
「言った」
「そうじゃな……為らば今は、術者さまが妾の主じゃ」
丸めたタオルを抱きしめると、芙蓉は上目遣いで懇願した。
「のう、貴之……お主を『あるじ様』と呼んでも良いかえ?」
「好きにしろ」
「分かった。好きにするぞ、あるじ様……」
芙蓉はいつものタオルを再びぎゅっと抱きしめると、そこに顔を埋めて声を立てぬよう忍び泣いた。だが先程の様な悔し涙ではない。
芙蓉の胸に去来するは、満たされし温かい情――それ故であった。
◆ ◆ ◆
「さて、あやめよ」
天井裏から梯子を降りると、貴之はすぐにあやめの名を呼んだ。
「どうせ立ち聞きしていたんだろう」
「……ちぃっ」
舌打ちせしあやめは、廊下の角から忌々し気な表情で現れた。
貴之は鎌をかけて云っただけだが、これが物の見事に当たった。
「貴之よ。何故居るのが分かったのじゃ」
「そうだな、お前が一番芙蓉を気に掛けていたからだ」
地を噛んで嗚咽を漏らす芙蓉を、一番気に掛けていたのはあやめだった。幾ら憎まれ口を叩こうが、芙蓉を「同胞」とまで呼んだ義に篤いあやめが、気にせぬ筈はない。
これは悪鬼の出自であるあやめと暮らして、よく分かったことだ。
「そ、そんなことはない……じゃが、礼は云っておく」
そう云いつつも、あやめは不貞腐れた表情を崩さない。
口の中でぶつぶつと、誰に聞かせるわけでもなく文句を云う。
「ふんだ……貴之も存外優しいもんじゃな」
「俺はお前の代わりに、芙蓉の様子を窺っただけだ」
「だーかーらー、それを優しいと云うんじゃ!」
「お前が行けば、俺は行かなかったぞ」
宥めるつもりもなく、貴之は素っ気なく云い放つ。
それでもあやめは不貞腐れた表情のまま。まだ云い足らぬ様子である。
「儂かてあんな展開は望んでおらんぞ……儂の時はなーんもせん癖に……」
「うん?」
「な、なんでもないわい!」
あやめは何故か喚くと、頬を赤く染めた。
そんな自分を改める様に、こほんとひとつ咳払いする。
「それにしても、因果なものじゃ」
「因果?」
「おう。芙蓉が巻き込まれしは、儂らの私怨じゃ」
あやめは鬼の眷属が巡りし因果が、芙蓉を気に掛ける理由の一つだと云う。
何故そう思うか問うた貴之に、あやめは滔々と語ってみせた。
「貴之よ、よく考えてみぃ。鬼神の某が持つ千年の怨念に、芙蓉母娘を巻き込みて、術と策を持って放逐した殺生石は、龍脈の流れを堰き止めて、儂の運気を根こそぎ浚えば、隆盛を誇りし時の威勢を凋落させ、我が身の上に災厄を呼び込んだ………不思議なもんでな。全ての因果は、勢いを増した水車の様によく巡っとる」
確かにあやめの云う通り。此度の一件は、縁が円の如く悉く事を起こす。
なるほどと頷く貴之に、あやめは小首を傾げて指を突きつける。
「しっかし貴之よ。お主ばかりはどうにも異質じゃ。この運命の円環の真ん中に、ぽんと投げ込まれた石礫の様に、皆が皆してお前さんに躓きよる」
そう云い放ちて、満足なのか不満なのか、よく分からぬ表情をした。
投げ込まれた石礫の様だとは。言い得て妙だと納得せざるを得ない。
確かにあやめの云う通り。貴之は全ての流れの中には居ない。
なのに拘わらず、巡る因果の流れを悉く歪に堰き止める。
「因果は巡る水車、それを遮る石礫……じゃなぁ」
これが彼の老人から授かった『三つの力』の効力なのだろうか。
「さて、芙蓉はもう大丈夫だろう」
「ああ、キツネの事じゃ。明日にはケロッとしておろうよ」
「そうだな」
貴之とあやめは、一頻り顔を見合わせると、ニヤリと笑い合う。
然かして次の瞬間に、貴之はあやめが思いも寄らぬ事を口走った。
「これで一連の異変が繋がった。では明日にでも出向こうか」
「何じゃ貴之よ。して何処へ出向くつもりじゃ?」
きょとんとした表情をする、あやめを気にする様子無く。
飄々とせし貴之は、さして事も無き態度でこう云い放った。
「鬼神の根城……富士山麓」




