第18話:夢幻ノ匣・急
その貴之は口角を上げ、自信に満ちた表情でニヤリと哂う。
普段の貴之が、まるで見せぬような表情をした。
「俺を誰かと問うたな、あやめ」
「如何にも問うた」
「聞きたいか」
「如何にも」
「聞けば後悔することに成るぞ」
「元より……覚悟の上ぞ」
真っ直ぐな瞳で答えると、その貴之は益々哂う。
しかしあやめは、頑として貴之の脅し文句に屈しなかった。何故ならば、貴之以外の貴之に、従う気など毛頭ないからだ。
貴之は一頻り哂うてあやめを見やると、儼乎たる声で答えた。
「俺はな、お前の中に巣食う、貴之の術だ」
「貴之の術?」
「そうだ……お前を女に変えた呪であり、主を殺さばお前を喰い殺す呪だ」
そう告げられて、あやめは我が身を凍らせた。
己が身の内にある、貴之の呪――故にあやめの夢に容易く現れるは、当然の理。
普段忘れている事で在るが、あやめの身体は常に貴之の術に囚われているのだ。改めてそう聞かされるは、生に拘るあやめにとって身を凍らせて至極真っ当な事であった。
「お、お主は、儂の内に巣食う術と申すか!」
「応、如何にも」
貴之の術は彼が普段せぬ様な、カッと目を剥く表情を見せた。その眼力は邪鬼を踏みつけし毘沙門天の仕草が如し。
あやめはその足下が邪鬼を、迂闊にも自らに擬えてしもうた。恐れ慄くあまり自然と小刻みに震える身体が、自分でもよく分かる。
己を貴之が術と自称するこの者より溢れ出る妖気や鬼気は、尋常ならざる器なり。この者が云うは正しく、我が小さき器など忽ち喰らい散らしてしまうだろう。
これ等は最早云わずもがな、悪鬼は己が肌で犇々と知る感覚である。
「どうだ、怖いか」
「うむ、怖い……今にも噛み潰されそうな気分じゃ」
見た目が貴之のまま故か、あやめは素直に心の内を吐いた。
蛇に睨まれた蛙とは、げに掛かるを指して云いやらん。
自分でも蒼き顔をして震えている様が目に浮かぶようだ。
「そうか、怖いか」
「う、うむ」
「だがな、案ずることなかれ」
貴之の術は、貴之がするような顔でニコリと笑った。
その表情に、あやめの心は何故か和んだ。
「俺は貴之の術だ。貴之の心ひとつで動いている呪に過ぎぬ」
「貴之の心?」
「そうだ。よってお前の求めに応じ、貴之に代わり馳せ参じ申した」
あやめの心は、その一言で一瞬にして、ぱあっと晴れに晴れて天晴た。
湧き立った夕立の暗雲が立ち退きて、蒼天を現したかのようだった。
「そうか貴之は……そうじゃったのか……!」
あやめは目から鱗を落とした様に、表情を輝かせて独り言ちた。
貴之の術は、仇為せば身を滅ぼし、功為せば味方するのだ。
なんら恐れることなかれ。決心は我が身の内に唯ひとつであった。
「相解った。貴様は術じゃが貴之じゃ。我が身に宿る貴之の化身じゃ!」
「如何にもその通り。努々忘れることなかれ……」
貴之の術はそう告げると、不意に表情が変わった。
その姿形は何時もの良く見知った、貴之の様であった。
「さて、あやめよ……愚図愚図するな」
「……はい!」
何時の間にやら気付かぬ内に、あやめと貴之の目前に市女笠の女が立った。
ゆらりとゆらりと左右に揺れるその身体は、見る間に蒼白き炎へと身を変じ、二人を焼き尽くさんばかりに天にも届かん巨大な火柱と相成った。
その炎たるや、富嶽の噴火が如し。岩漿を纏った火山弾の様な蒼白き狐火を、二人の周囲に撒き散らし始めた。
「行くぞ、あやめ」
「はい!」
声高らかに命ず貴之の差し伸べた手をあやめは臆面なく取らば、それを軸として互いに身を翻す。舞踏が様で身を翻せば、次々と襲い来る炎の玉の、間に間を自由自在に駆け抜けて、面白い様にするすると躱す。
「あやめ!」
「はい!」
今や貴之とあやめ。二人は呼吸は、阿吽の呼吸。
胡蝶が舞うが如く跳び、駿馬が踊るが如く疾った。
貴之があやめの手と手を取りて、軽量な鬼娘の身体を天高く跳ね上げる。
その身体は次第に回転を増し、巨大な火柱の直上へと飛び上がった。
「お前の手に握られた、其は何ぞ!」
「其は愛刀! 我が愛刀『髭切』ぞ!」
貴之の号に合わせてあやめが叫ぶと、何時の間にやらその手には、愛用の大太刀が握り締められていた。あやめも貴之同様、術に打ち克ち、夢を自在に操ったのだ。
「鎧袖一触! 一刀両断!」
「応っ!」
貴之の声に間髪を容れず応えると、刹那に鞘走り煌く刀身を翻す。
二人の呼吸で憎き難敵を追い詰めて、一刀の下に斬り捨てたのだ。
あやめが着地すると、背後にて蒼白き巨大な火柱がどうっとふたつに割れた。
その内にあった小さき炎の塊が、市女笠の女へと徐々に姿を変えていく。
「くふふぅ、面白かったぞぇ……」
ゆっくりと紗の垂衣を外すとその顔は、然ればこそやはり美女。
これ程の器量良しは、千年悪鬼のあやめすらお目に掛かったことはない。
その幽世の美女が、麗しき笑みを浮かべて呟いた。
「こりゃあの、我が娘の恩讐が前払いじゃて……」
見る間に身体が薄く透けゆくと――
くふふぅ、と笑い声を残して、美女は消えた。
◆ ◆ ◆
ふわり、ふわ、ふわり。
夢心地とは、斯様な状態を指すのであろうか。
あやめは、心の底より恍惚の安らぎを味わっていた。
「うふーっ……たかゆき、たかゆきーっ……」
何を考えずとも、思わず手足がパタパタと動く。
あやめと貴之。互いに手と手を取り合えば、これぞまさに無敵。此度の戦はそう予感させる、息の合った共闘関係ではないか。
「たかゆきー、たか……」
ハッとして目を見開くと、そこに見えるは白い天井と覗き込んだ貴之の顔。
忘れていた。あれは全てが夢の中。自分の身体は、居間の西洋長椅子の上で寝ていることに、あやめは漸く気が付いたのだ。
そしてここは貴之の膝枕。優しく髪を撫でられて、夢心地に酔っていた我が身。
「ぴゃああぁぁーっ!?」
あやめは素っ頓狂な声を上げ、跳ね上がるように飛び起きた。
逆上せ上った頬は紅く、額より大粒の汗を掻き、胸の動悸がとんと止まらぬ。夢の世界から無事に脱出成功した歓びよりも何よりも、驚きと羞恥が先んじた。
「どうした?」
「どどどど、どうしたもこうしたも、あるものか!」
貴之と同居して、早数日が経った。
幾度となく悪夢に魘されようと、隠し続けてきたこの秘密。悪夢からの解放に心を緩ませて、よもや……よもや斯様な陶酔しきった無様な姿を、貴之に見られるとは。
あやめは赤面する他に、できることがあろうか。いや、ない。
「不覚、一生の不覚じゃ……ふぐぐぅ」
気の緩んだ隙に、不意打ちで恥ずかしい姿を見られてしまった。そればかりか寝顔と寝言を晒して膝枕でなでなでされるなど、一生の不覚どころの騒ぎではない。
だが不覚を幾ら恥じようと後の祭りに他ならない。こんなことに陥るならば、悪夢を恥として秘密にせず、いっそのこと白状しておけば良かったものを。
「儂は男ぞ……それが膝枕に頭を撫でられてふにゃふにゃと……」
余りの恥辱にあやめが居間の板の間へ額をゴンゴン叩き付けていると、それを気にする素振りも見せぬ貴之が、あやめに問うてきた。
「恥じるな、あやめ」
「無理を云うな……これ程の恥晒し、そうは在るまいて」
「だがあやめは夢の中で独り、闘っていたのだろう?」
「それは……そうじゃが……」
貴之は実のところ、この一件に関しては、何も預かり知らぬ。
あやめが眠りこけた後の真実はこうだ。唐突にすやすやと眠り込んだかと思えば、何やら寝言に貴之の名を呼び始めた。魘されていたその声をよく聞きて試しに応えてみると、なんと不思議な事に、あやめは眠ったままに会話をし始めたではないか。
最初は夢遊病ではないかと心配した。だがよくよく聞けば、何やら事情がありそうだ。
そこで貴之は、あやめの耳元に口裏を合わせて「傷の一つも有りはしないぞ」や「火を噴いて自在に操る炎の魔人」などと、適当な事を云い並べてみただけである。
その結果たるや、仍って件の如し。然らば貴之の術との会話について、彼は知らないし、知ることはないだろう。
ちなみにあやめを膝枕をして頭を撫でるに至ったは、寝惚けた彼女が勝手に縋り付いて、頭を差し出してきた結果である。
「あやめよ。実戦で俺は力にならんが、頼ってくれていい」
「お、おう……」
それでも貴之は、あやめがあやめの夢の世界で闘っていた事を見破っていた。
あやめは生返事を返したが、真摯に受け止めてくれた貴之に、自らの心臓が高鳴り、血が頭の天辺へと逆流するような気分になった。
「それでは、全てを話して貰おうか」
「ふぐぐ、最早これまで……包み隠さず答えようぞ……」
貴之に隠し事は敵わぬと、観念して素直に悪夢の話をする事にした。
微に入り細を穿ち、貴之は夢の話を詳細に聞き入った。
「蒼白い炎とは、どんな色だ」
「あの瓦斯台の、炎のような色じゃ」
あやめはそう云って、台所の瓦斯台を指差した。
「その悪夢は、いつ頃に見る」
「そうじゃな、尾行と時を同じゅうして平日の夜に見る」
貴之に問われるまま答えていると、様々なことが鮮明に思い出された。
「ああ、そしてこうも云うとったな」
とおりゃんせ、とおりゃんせ――
永き眠りより目覚めし後に耳にした、この童歌にあやめは心当たりがあった。
江戸の世にて生み出されしこの唄は、これぞ正しく地獄の事であろう――と。
地獄より続く細き参道の関を抜けた先には天神――即ち、お天道様の照り付ける地上世界が広がっている。だが反対に鬼たちが眠る地獄の底へは、知らぬ者を然う簡単には通さぬ関が立ち塞がる。よって地獄を良く知り地上に舞い戻った何者かが、何らかの目的でこの歌を遺したのではないか――と、あやめはそう考えている。
童唄には意味が或る。例えば歌留多には歌と読みがあるように、表裏、光陰、得失と、物事の全てに於いて相反するものが一体と成り存在する。
童唄に意味があるのなら、相反するその裏側には忌みがある。唄を諳んずると呼ぶならば、詠みは黄泉と云い代える事ができよう。
「その地獄とやらは、この近くにあるのか」
「いや、ない。だが在るとすれば、この地の龍脈がそれに近かろう」
龍脈――大地の中を流れる気の道筋である。
陰陽五行思想に祖を持つ龍脈は、気の生まれ出ずる『太祖山』より『龍穴』へと至る道筋に、或る種で参道とよく似た働きを持つ。
鳥居や山門を潜り参道より結界内へと立ち入れば、いずれ神域へと辿り着く。地獄もまた然り。地獄の関を潜りて三途の川を渡河すれば、やがて地獄へと辿り着く。
全ては表裏一体。道で繋がる陰と陽の関係性の上に成り立っているのだ。
「だがな貴之よ、こんなもんを聞いて何の役に立つ?」
と、口を尖らせ訊ねるあやめに、貴之は澄まし顔で答えた。
「さて、何の役に立つかな」
「ほえっ、なんじゃと?」
「それでも、だ」
頬杖を突きて目線を遠くへ投げかけると、貴之は思案顔と相成った。
貴之は二人きりでいる時に、時折こういう表情を見せる。
「小さな繋がりが、点と点を線に結びつける」
そう呟くとはたと気付いた顔をして、貴之は暫し地図に眺め入る。
やがて地図上を、ショッピングモールから北西へ向けて指を走らせ始めた。
不満顔のあやめは、ぷぅと頬を膨らませて無駄口を叩く。
「貴之よ、儂でも間違いなく分かっていることがあるぞ」
「それは何だ?」
「穴掘りが得意で、炎を使う――敵の正体は狐だ。しかも相当年季の入った奴だ」
巧緻にして精緻な罠を仕掛け、人を上回る智慧で化かす。
多種多様な術を操り、その才は人間の道士をも凌駕する。
「まぁ……だろうな」
「ま、百も承知か……しかし敵は既に勘付いて用心していような」
「あやめよ。お前は勘付かれたと、そう思うのか」
「うん? 当然であろ?」
あやめは形の良い小さな顎を抓んで小首を捻る。
そこで貴之は、ようやっと地図より顔を上げた。
「それはどうかな」
「ん……んんっ?」
「お前はちぐはぐな違和感を、感じてはいないか?」
貴之にそう問われて、改めて今までの手口を思い返す。
落とし穴に瓦斯爆発。精緻な狐にしては大胆不敵と云うべきか。
しかし……あれ程の悪夢を操るにしては、術に対してどこか稚拙――
「では準備を整えて、今から出向こうか」
「はぁっ?!」
貴之は立ち上がり、それだけ分かれば充分だ、とあやめに告げた。
告げられたあやめは、目を白黒させる他にない。
「だって、夢の中で居場所を教えてくれてたじゃないか」
飄々とした彼の横顔を仰ぎ見て、あやめは小さな口をきゅっと結ぶ。
いと長き睫毛を瞬かせ、金剛石が如き輝きを宿す大きな瞳をやや潤ませて――どこかうっとりとした面持で、貴之を見やっていた。




